【完結・番外編更新中】異世界令嬢生活は、思ったよりもしんどいです。

桜野なつみ

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第8話 罪と罰

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「あんた、うざい」
――耳元でささやかれた一言から、私の日々は静かに傾き始めた。

最初の一週間は、ただの勘違いだと思おうとした。
だってここは“乙女ゲーム”の世界やろ? 前世で味わったようなあの現実が、この舞台で繰り返されるはずがない。そう信じていた。

けれど、机の上に置いたはずの教科書がゴミ箱から出てきたり、配られるプリントが自分の分だけ抜けていたり、私の隣の席だけがいつも空席になっていたり……そんな「偶然」が、毎日きっちり起きるのは、偶然やなく意図的やとすぐに気づく。

食堂でトレイを持つと、自然に周囲に空白の輪ができる。私の席の周りだけぽっかり空く、その形が、胸を見えない手で締めつけてくる。



廊下ですれ違うフローラが、“たまたま”足をもつれさせて、わざとらしく転ぶ。
私を見上げる大きな瞳が潤んで、涙声でつぶやく。

「ご、ごめんなさい……クラリス様」

その瞬間、周囲の空気が変わる。

「大丈夫?」
「気をつけてね、フローラ様」

誰かが彼女に手を貸し、誰かが肩を支える。
けれど、私には視線すらよこさない。

私は笑った。蟹缶教育で仕込まれた、完璧な笑顔。声は澄んで、言葉は最小限。

「お気になさらないで」

踵を返す背後で、小さなさざ波のような笑いが広がる。刺すでもなく、でも確実に削ってくる笑い。
私の歩幅は、半歩だけ小さくなった。



別の日、ステラが駆け寄ってきた。

「クラリス様、最近どうなさったのです? なにか、変です」

その気遣いが胸に沁みる。
でも、私は首を横に振った。笑顔を、今日も崩さない。

「私は公爵令嬢です。何も変なことはありません。お気になさらず」

その言葉は「ありがとう、でも巻き込みたくない」の遠回しな拒絶だった。
ステラは唇を噛み、何か言いかけて飲み込む。柱の陰からは、玉虫色を控えめにしたリクローがこちらを見ている。二人の視線は痛いほど優しい。それが逆に苦しい。胸の奥が、きゅうっと鳴る。

……私は公爵令嬢。だから一人で戦わなければ。



フローラの「第三の目」は、この一年で完全に看板になっていた。

落とし物はよく見える場所に“視え”、
恋の悩みは当たり障りなく“視え”、
天気予報のように未来が“視える”。

彼女の周りにはいつも人が集まり、笑顔が咲いていた。

一方で、私の周りには空気だけがいた。

それでも私は決めた。
勉強だけは裏切らない。答えはひとつ、積み上げは嘘をつかない。夜は机に向かい、昼は完璧な笑顔で過ごす。

寮の部屋に戻ると、引き出しに便箋をしまう儀式を繰り返した。

――「お父様、お母様、」

そう書いて、そこで止める。蓋を閉じる。今日も明日も、出さない。出せない。



ときどき、心の中で声がする。
前世の私の声だ。

「逃げてもいいんだよ」

でも、私は首を振る。あのとき逃げて転校した自分を、私はずっと弱いと責めてきた。
だから今度こそ、逃げない。

「私は公爵令嬢。逃げてはいけない」

それが私を縛る鎖になっていくのに、気づかぬふりをしていた。



学年末試験の結果が張り出された日、私は一番上に自分の名を見つけた。指先が、少し震えた。嬉しさというより安堵。勉強は、公平である。――そう信じていた。

けれど、掲示板から離れる私の耳に、ひそひそ声が落とされた。

「へえ、首位?」
「勉強してるとこ見なかったけどな」
「まあ、親があの宰相だろ?」

湿った笑いが重なる。声の出どころは、王子殿下の取り巻きの輪。
そして殿下の声まで混じった。

「あの宰相だろう? 娘のためなら、不正ぐらい平気でやるさ。甘い親だからな」

胸に、小さな火がともった。父と母の顔が浮かぶ。
毎朝のキス。夜の紅茶。
誇りと優しさだけでできた二人を、どうして「不正」などと。

言葉が喉まで込み上げた。けれど、蟹缶教育の網がそれを止める。私は笑った。完璧な笑顔。
その笑顔が、私の心を内側から切り裂いた。



ふらふらと寮の部屋に戻る。
扉を閉め、机に向かう。便箋を一枚。

――「お父様、お母様、」

今日は止まらなかった。止められなかった。

「たすけてください」

書いた瞬間、胸の奥で何かが静かに壊れた。
音はしない。ただ色が消える。涙も怒りも消える。

ぷつり、と糸が切れた。
私はペンを置いた。その感覚さえ遠のいていく。



それからの記憶は曖昧だ。
授業に出たのか、食堂に行ったのか、誰かと話したのか。
気づけばベッドの端に座って、ただ窓の外の光の濃淡を見ていた。

ドアがノックされていた気もする。返事はしなかった。
胸は痛まない。痛みもどこかに落ちていった。

どれくらいそうしていたのだろう。
鍵の回る音。駆け寄る足音。

「クラリス様! ――クラリス様?」

ステラの声が、水の中から届くみたいに遠い。
肩に触れる温度だけが現実だった。
彼女の手を、私は握り返せなかった。



――罪は、何だったのだろう。
この世界を“キャラ”として見て、外側から俯瞰してきたこと。
そして前世の自分に誓った「逃げない」を、公爵令嬢だからという鎖に変えてしまったこと。

――罰は、何だろう。
キャラとして断罪される役を、自ら引き受けてしまったこと。

判決文も裁判長もいない。あるのは囁きと視線と沈黙。
それらが積み重なって、私の中身を削り取っていく。

私は、公爵令嬢の笑顔を守り抜き、そして心を失った。

窓の外の雲が流れていく。
音もなく、形だけを変えて、遠くへ。

私の視界も、ゆっくりと暗くなっていった。



クラリス文庫

『罪と罰』(フョードル・ドストエフスキー/ロシア)

罪を犯した青年が「良心」という見えない刃で切り刻まれていく物語。罰は外からだけでなく、内からも降ってくる。

……私の罪は、この世界を物語扱いして高みから見下ろしていたこと。
そして「逃げない」と自分を縛ったこと。
私の罰は、その物語の役に閉じ込められ、沈黙に裁かれていくことなのか。
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