8 / 24
第8話 罪と罰
しおりを挟む「あんた、うざい」
――耳元でささやかれた一言から、私の日々は静かに傾き始めた。
最初の一週間は、ただの勘違いだと思おうとした。
だってここは“乙女ゲーム”の世界やろ? 前世で味わったようなあの現実が、この舞台で繰り返されるはずがない。そう信じていた。
けれど、机の上に置いたはずの教科書がゴミ箱から出てきたり、配られるプリントが自分の分だけ抜けていたり、私の隣の席だけがいつも空席になっていたり……そんな「偶然」が、毎日きっちり起きるのは、偶然やなく意図的やとすぐに気づく。
食堂でトレイを持つと、自然に周囲に空白の輪ができる。私の席の周りだけぽっかり空く、その形が、胸を見えない手で締めつけてくる。
◇
廊下ですれ違うフローラが、“たまたま”足をもつれさせて、わざとらしく転ぶ。
私を見上げる大きな瞳が潤んで、涙声でつぶやく。
「ご、ごめんなさい……クラリス様」
その瞬間、周囲の空気が変わる。
「大丈夫?」
「気をつけてね、フローラ様」
誰かが彼女に手を貸し、誰かが肩を支える。
けれど、私には視線すらよこさない。
私は笑った。蟹缶教育で仕込まれた、完璧な笑顔。声は澄んで、言葉は最小限。
「お気になさらないで」
踵を返す背後で、小さなさざ波のような笑いが広がる。刺すでもなく、でも確実に削ってくる笑い。
私の歩幅は、半歩だけ小さくなった。
◇
別の日、ステラが駆け寄ってきた。
「クラリス様、最近どうなさったのです? なにか、変です」
その気遣いが胸に沁みる。
でも、私は首を横に振った。笑顔を、今日も崩さない。
「私は公爵令嬢です。何も変なことはありません。お気になさらず」
その言葉は「ありがとう、でも巻き込みたくない」の遠回しな拒絶だった。
ステラは唇を噛み、何か言いかけて飲み込む。柱の陰からは、玉虫色を控えめにしたリクローがこちらを見ている。二人の視線は痛いほど優しい。それが逆に苦しい。胸の奥が、きゅうっと鳴る。
……私は公爵令嬢。だから一人で戦わなければ。
◇
フローラの「第三の目」は、この一年で完全に看板になっていた。
落とし物はよく見える場所に“視え”、
恋の悩みは当たり障りなく“視え”、
天気予報のように未来が“視える”。
彼女の周りにはいつも人が集まり、笑顔が咲いていた。
一方で、私の周りには空気だけがいた。
それでも私は決めた。
勉強だけは裏切らない。答えはひとつ、積み上げは嘘をつかない。夜は机に向かい、昼は完璧な笑顔で過ごす。
寮の部屋に戻ると、引き出しに便箋をしまう儀式を繰り返した。
――「お父様、お母様、」
そう書いて、そこで止める。蓋を閉じる。今日も明日も、出さない。出せない。
◇
ときどき、心の中で声がする。
前世の私の声だ。
「逃げてもいいんだよ」
でも、私は首を振る。あのとき逃げて転校した自分を、私はずっと弱いと責めてきた。
だから今度こそ、逃げない。
「私は公爵令嬢。逃げてはいけない」
それが私を縛る鎖になっていくのに、気づかぬふりをしていた。
◇
学年末試験の結果が張り出された日、私は一番上に自分の名を見つけた。指先が、少し震えた。嬉しさというより安堵。勉強は、公平である。――そう信じていた。
けれど、掲示板から離れる私の耳に、ひそひそ声が落とされた。
「へえ、首位?」
「勉強してるとこ見なかったけどな」
「まあ、親があの宰相だろ?」
湿った笑いが重なる。声の出どころは、王子殿下の取り巻きの輪。
そして殿下の声まで混じった。
「あの宰相だろう? 娘のためなら、不正ぐらい平気でやるさ。甘い親だからな」
胸に、小さな火がともった。父と母の顔が浮かぶ。
毎朝のキス。夜の紅茶。
誇りと優しさだけでできた二人を、どうして「不正」などと。
言葉が喉まで込み上げた。けれど、蟹缶教育の網がそれを止める。私は笑った。完璧な笑顔。
その笑顔が、私の心を内側から切り裂いた。
◇
ふらふらと寮の部屋に戻る。
扉を閉め、机に向かう。便箋を一枚。
――「お父様、お母様、」
今日は止まらなかった。止められなかった。
「たすけてください」
書いた瞬間、胸の奥で何かが静かに壊れた。
音はしない。ただ色が消える。涙も怒りも消える。
ぷつり、と糸が切れた。
私はペンを置いた。その感覚さえ遠のいていく。
◇
それからの記憶は曖昧だ。
授業に出たのか、食堂に行ったのか、誰かと話したのか。
気づけばベッドの端に座って、ただ窓の外の光の濃淡を見ていた。
ドアがノックされていた気もする。返事はしなかった。
胸は痛まない。痛みもどこかに落ちていった。
どれくらいそうしていたのだろう。
鍵の回る音。駆け寄る足音。
「クラリス様! ――クラリス様?」
ステラの声が、水の中から届くみたいに遠い。
肩に触れる温度だけが現実だった。
彼女の手を、私は握り返せなかった。
◇
――罪は、何だったのだろう。
この世界を“キャラ”として見て、外側から俯瞰してきたこと。
そして前世の自分に誓った「逃げない」を、公爵令嬢だからという鎖に変えてしまったこと。
――罰は、何だろう。
キャラとして断罪される役を、自ら引き受けてしまったこと。
判決文も裁判長もいない。あるのは囁きと視線と沈黙。
それらが積み重なって、私の中身を削り取っていく。
私は、公爵令嬢の笑顔を守り抜き、そして心を失った。
窓の外の雲が流れていく。
音もなく、形だけを変えて、遠くへ。
私の視界も、ゆっくりと暗くなっていった。
◇
クラリス文庫
『罪と罰』(フョードル・ドストエフスキー/ロシア)
罪を犯した青年が「良心」という見えない刃で切り刻まれていく物語。罰は外からだけでなく、内からも降ってくる。
……私の罪は、この世界を物語扱いして高みから見下ろしていたこと。
そして「逃げない」と自分を縛ったこと。
私の罰は、その物語の役に閉じ込められ、沈黙に裁かれていくことなのか。
186
あなたにおすすめの小説
【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。
猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。
復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。
やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、
勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。
過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。
魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
私は愛する人と結婚できなくなったのに、あなたが結婚できると思うの?
あんど もあ
ファンタジー
妹の画策で、第一王子との婚約を解消することになったレイア。
理由は姉への嫌がらせだとしても、妹は王子の結婚を妨害したのだ。
レイアは妹への処罰を伝える。
「あなたも婚約解消しなさい」
本当に現実を生きていないのは?
朝樹 四季
恋愛
ある日、ヒロインと悪役令嬢が言い争っている場面を見た。ヒロインによる攻略はもう随分と進んでいるらしい。
だけど、その言い争いを見ている攻略対象者である王子の顔を見て、俺はヒロインの攻略をぶち壊す暗躍をすることを決意した。
だって、ここは現実だ。
※番外編はリクエスト頂いたものです。もしかしたらまたひょっこり増えるかもしれません。
これは裏切りですか?
たぬきち25番
恋愛
転生してすぐに婚約破棄をされたアリシアは、嫁ぎ先を失い、実家に戻ることになった。
だが、実家戻ると『婚約破棄をされた娘』と噂され、家族の迷惑になっているので出て行く必要がある。
そんな時、母から住み込みの仕事を紹介されたアリシアは……?
悪役令嬢の取り巻き令嬢(モブ)だけど実は影で暗躍してたなんて意外でしょ?
無味無臭(不定期更新)
恋愛
無能な悪役令嬢に変わってシナリオ通り進めていたがある日悪役令嬢にハブられたルル。
「いいんですか?その態度」
魅了魔法…?それで相思相愛ならいいんじゃないんですか。
iBuKi
恋愛
サフィリーン・ル・オルペウスである私がこの世界に誕生した瞬間から決まっていた既定路線。
クロード・レイ・インフェリア、大国インフェリア皇国の第一皇子といずれ婚約が結ばれること。
皇妃で将来の皇后でなんて、めっちゃくちゃ荷が重い。
こういう幼い頃に結ばれた物語にありがちなトラブル……ありそう。
私のこと気に入らないとか……ありそう?
ところが、完璧な皇子様に婚約者に決定した瞬間から溺愛され続け、蜂蜜漬けにされていたけれど――
絆されていたのに。
ミイラ取りはミイラなの? 気付いたら、皇子の隣には子爵令嬢が居て。
――魅了魔法ですか…。
国家転覆とか、王権強奪とか、大変な事は絡んでないんですよね?
いろいろ探ってましたけど、どうなったのでしょう。
――考えることに、何だか疲れちゃったサフィリーン。
第一皇子とその方が相思相愛なら、魅了でも何でもいいんじゃないんですか?
サクッと婚約解消のち、私はしばらく領地で静養しておきますね。
✂----------------------------
不定期更新です。
他サイトさまでも投稿しています。
10/09 あらすじを書き直し、付け足し?しました。
悪役令嬢は永眠しました
詩海猫(8/29書籍発売)
ファンタジー
「お前のような女との婚約は破棄だっ、ロザリンダ・ラクシエル!だがお前のような女でも使い道はある、ジルデ公との縁談を調えてやった!感謝して公との間に沢山の子を産むがいい!」
長年の婚約者であった王太子のこの言葉に気を失った公爵令嬢・ロザリンダ。
だが、次に目覚めた時のロザリンダの魂は別人だった。
ロザリンダとして目覚めた木の葉サツキは、ロザリンダの意識がショックのあまり永遠の眠りについてしまったことを知り、「なぜロザリンダはこんなに努力してるのに周りはクズばっかりなの?まかせてロザリンダ!きっちりお返ししてあげるからね!」
*思いつきでプロットなしで書き始めましたが結末は決めています。暗い展開の話を書いているとメンタルにもろに影響して生活に支障が出ることに気付きました。定期的に強気主人公を暴れさせないと(?)書き続けるのは不可能なようなのでメンタル状態に合わせて書けるものから書いていくことにします、ご了承下さいm(_ _)m
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる