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第9話 こころ<前編>
しおりを挟むクラリスが倒れたのは、二年生の学年末試験を終えた日の夜だった。
いつもなら食堂に姿を見せる時間になっても現れない。最初は、体調を崩したのかと誰もが軽く考えていた。
だが翌朝になっても教室に現れず、授業が始まっても席は空いたまま。
その異変にいち早く気づいたのは、ステラだった。
休み時間、彼女は女子寮へ駆け戻った。
ドアを叩いても返事はない。取っ手を回しても、鍵がかかっていて開かない。
「クラリス様!」必死に呼びかけても、沈黙だけが返ってくる。
胸がざわついた。嫌な予感が全身を駆け抜ける。
彼女は寮母を呼びに走り、息を切らしながら訴えた。
「……開けてください。何かあったら大変です!」
ステラの必死の声に、寮母は無言で頷き、鍵束を手に取り立ち上がった。
◇
扉が開いた瞬間、ステラは息を呑んだ。
クラリスはベッドの端に座っていた。制服のまま。室内着にも着替えていない。
背筋を伸ばした姿勢のまま、糸が切れた人形のように固まっていて、顔を上げることすらしない。
「クラリス様……?」
震える声で名を呼んだ。だが返事はない。
その目は焦点を失い、どこも映していない。ただの空虚。魂の抜けた人形のようだった。
机の上には、一枚の便箋。
そこに震える文字で記されていたのは――
『お父様、お母様、
たすけてください』
ステラは喉を詰まらせた。
思わず紙を握りしめそうになり、慌ててそっと置き直す。
手が、どうしようもなく震えていた。
視線を横にやると、半分開いた机の引き出しが目に入る。
中には便箋が溢れるように詰まっていた。
おそるおそる引き出しを引くと、どれも同じ。
――『お父様、お母様、』で止まっている。
何枚も、何十枚も。
それはクラリスがどれほど助けを求めていたかを雄弁に物語っていた。
続けて書くことはできず、破って捨てることもできず、ただ引き出しに溜め込んでいたのだ。
「……こんなに……!」
ステラは堪えきれず嗚咽を漏らした。
だがすぐに、自分の胸をえぐるような現実がよぎる。
――学園はクラスごとに棟が分かれ、時間割も違う。
クラリスと顔を合わせられるのは、朝食や夕食のわずかなひとときだけ。
同じ学園にいながら、互いの一日の出来事を詳しく知ることは難しかった。
「だから気づけなかった」……そう言い訳することはできる。
けれど、それは言い訳にすぎない。
「……それでも、私は友達でしょう……!」
唇を噛みしめ、涙が頬を濡らす。
その瞬間。背後から寮母の低い声が響いた。
「泣いている場合じゃないわよ。あなたが守らなければ。
泣いている暇があるなら、考えなさい。今、あなたにできることを」
その言葉に、ステラの涙は止まった。
そうだ。泣いている場合じゃない。
クラリス様が心を閉ざしてしまった今、この手で守らなければ。
◇
ステラは決意し、机の引き出しから便箋をまとめて取り出した。
「クラリス様、申し訳ありません……」
聞こえていないだろうと分かっていても、一言断る。
部屋を見渡すと、違和感に気づいた。
クローゼットの扉に紐が巻きつけられ、不自然に閉ざされている。
紐を外し、扉を開けた瞬間、ステラは凍りついた。
そこには――
破られた教科書。インクをぶちまけられたノート。
「公爵令嬢様」と嘲る殴り書き。
折れたペン、泥で汚された制服、引き裂かれた鞄。
そこには悪意の臭気が充満していた。
積み重ねられた醜悪な痕跡が、形をもってそこに並んでいた。
「こんな……こんなの、耐えられるわけ、ないじゃない……!」
声が震え、涙とともに怒りが込み上げる。
だがクラリスは――耐えていたのだ。
誰にも頼らず、すべてを一人で背負って。
ステラとリクローを守るために、わざと突き放してまで。
「クラリス様……あなたは、私たちを守ってくださったのですね……!」
胸が締めつけられる。悔しさと悲しさに、心が引き裂かれる。
◇
ステラはすぐに決断した。
このまま寮に置いておけば、証拠は隠され、なかったことにされるかもしれない。
絶対に、それだけは許せない。
「寮母様。私の婚約者、プローバー伯爵令息を呼び出していただくことは可能ですか?」
「ええ、大丈夫よ。すぐに男子寮に連絡してあげる。」
「ありがとうございます。それと、生徒の目の立たない所を貸していただけませんか。渡すだけですので、すぐに終わります」
「わかりました。では三十分後に調理場裏に来るよう、今から伝えに行きます。あなたはそれまでに用意をしなさい」
「はい」
寮母は静かに部屋を出て行った。
ステラは涙を堪えながら、悪意の証拠をひとつひとつ取り出し、予備のシーツに包んでいった。
少しして、寮母が戻る。
「ステラさん。あなたの指示通り、呼び出しておいたわ。私がクラリスさんについておくから、あなたは渡しに行きなさい」
「……ありがとうございます」
ステラは包みを抱え、誰にも見られぬように注意しながら調理場裏へ急いだ。
そこには既に、リクローが不安な顔で待っていた。
「ステラ、一体何があったんだ?」
包みを抱えたまま、ステラは涙を堪えきれずに訴えた。
「私たちのクラリス様が、壊されてしまったの。
その証拠がここにあります。このまま寮に置いていたら、誰かに隠されるかもしれない。お願い、リクロー。あなたの家、学園から馬で30分ほどよね?今すぐ家に持ち帰って、プローバー伯爵家の金庫に入れて。クラリス様を守って!」
リクローは迷わなかった。
「……わかった」
包みを受け取ると、そのまま厩舎へ駆け出していった。
愛馬を飛ばし、一刻も早く家へ。クラリスを守るために。
◇
一方、ステラは再びクラリスの部屋へ戻った。
制服姿のまま、無表情に座るクラリス。やはり人形のように動かない。
ステラはそっと呼びかけた。
「クラリス様……ほんの少しでいいんです。横になってください」
ふいに、自分の髪――散々からかわれてきた縦ロールがクラリスの頬に触れた。
その瞬間、張り詰めていた体がふっと緩み、彼女はベッドへと沈みこんだ。
「……大丈夫。わたしがここにいます」
ステラは冷たい手を握りしめた。
一晩中、決して離さなかった。
涙は止まらなかった。けれど悲しいだけではない。
それ以上の感情――クラリスを追い詰めた者たちへの怒りが、静かに胸の底から湧き上がっていた。
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