10 / 24
第10話 こころ<後編>
しおりを挟むクラリスは、静かにベッドに横たわっていた。
制服のまま──室内着にも着替えず、背筋を張った姿勢のまま糸が切れたように崩れ落ちたのは、ほんの数時間前のことだった。
ステラは、その冷たい手を握りしめたまま、一晩中そばを離れなかった。
最初は氷のように強張っていた指先が、時を追うごとに少しずつ柔らかさを取り戻していく。それを確かめるたびに、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
「……クラリス様」
呼びかけても返事はない。かすかにまぶたが震え、浅い息を繰り返すだけ。
けれど、指先に残るぬくもりだけが、生きている証だった。
ステラは決して手を離すまいと、指先に力を込めた。
最初のうちは、ただ涙がこみ上げてきた。
机の引き出しから溢れ出した、幾枚もの便箋。どれもが「お父様、お母様」と書き出されただけで終わっている。
その山の一番上──そこにだけ震える文字で刻まれていた「たすけてください」。
「……どうして。どうして私は、気づけなかったの」
声にならない呻きが漏れた。
けれど同時に、頭の片隅で現実的な言い訳がよぎる。
学園はクラスごとに棟も時間割も違う。
クラリスと顔を合わせられるのは、朝食や夕食のほんのわずかな時間だけ。
一緒にいるようで、日常の大半は交わらない。だから気づけなかった──そう言い訳しようとする自分が、いちばん許せなかった。
「ごめんなさい……クラリス様……」
嗚咽に震えながらも、ステラはその手を握り続けた。
夜が更けていく。
静寂の中、時計の針が刻む音がやけに大きく響く。
涙が枯れていくにつれ、胸の奥に別の感情が芽生えはじめた。
──どうして、こんな優しい方を追い詰めるの。
──どうして、何もしていないクラリス様を、あんなにも孤独にしたの。
──どうして、私はもっと、見ていなかったのだろう。
フローラ。取り巻きたち。ひそひそ笑う声。
そして、王子殿下までもが吐いた心ない言葉。
悪意に塗れた、数々の証拠。
思い返すほどに、理不尽さと卑怯さに胸が煮え立った。
涙はもう出ない。ただ怒りが、熱を帯びて広がっていく。
──私とリクローで、この方を守る。
──二度と一人にはさせない。必ず。
ステラは眠るクラリスの手をぎゅっと握りしめた。指の奥にまで、その誓いを刻むように。
◇
翌朝。
ロマイシン公爵夫妻が学園へ到着した。
寮母とともにステラは出迎える。緊張で喉が詰まりそうな中、扉が開き、険しい表情の公爵ノルベルトと夫人アナベルが姿を現した。
「クラリスは……?」
夫人の問いに、寮母は深々と頭を下げる。
「大切なお嬢様を預かっていながら、このようになるまで気づけず申し訳ありませんでした。ステラさんがおかしいと知らせてくれて、部屋を開けた時にはもう座ったまま反応を失っていて……。ただ、ステラさんが手を握られたら急に力が抜け、そのまま眠り続けているのです」
公爵は眠るクラリスの顔を見つめ、低く問う。
「クラリスを……家に連れて帰ってもよろしいでしょうか」
「はい、もちろんです」寮母が頷いた。「今の彼女にとって、ここは良い場所ではないでしょうから」
そんなやりとりの中、ステラは勇気を振り絞った。
「あの……クラリス様をお家にお連れする時、私も同行させていただけないでしょうか」
厚かましい願い。だが公爵夫妻は一瞬だけ目を交わし、静かにうなずいた。
その間も、ステラはクラリスの手を包み込んでいる。
心の奥底で、強く誓った。
──もう二度と、この方を一人にはしない。
◇
馬車の中。
クラリスはアナベル夫人の膝枕で眠り続けていた。
優しく、夫人はクラリスの頭を撫で続ける。
その様子を見ながらステラは拳を膝に押しつけ、必死に涙をこらえた。
泣いてはいけない。これはクラリス様の心の声。叫び。
「私が守らなければ」と心の奥で繰り返す。
──クラリス様は耐えていた。あの酷い仕打ちを、たった一人で。
──私とリクローを巻き込むまいと、わざと突き放して。
──私たちを守ってくださっていたのだ。
その事実が胸を裂く。悔しさと悲しさで心が揺さぶられ、吐き出したいほどの感情が渦巻く。
それでも泣かない。今ここで泣いたら、クラリス様がさらに傷ついてしまう。
◇
馬車が公爵邸に到着すると、モリーが待っていた。
「お嬢様!」
駆け寄る彼女は毛布を抱え、今にも泣き出しそうだった。
「モリー、娘を頼む」
ノルベルトの声に促され、クラリスは毛布に包まれ、静かに寝台へと運ばれていく。
ステラはその姿を見届けると、公爵夫妻に深々と頭を下げた。
「……お二人に、お伝えしなくてはならないことがあります。クラリス様に何が起こったのかを示す、証拠があります。私の婚約者が安全な場所に保管しております。どうか、後ほどお時間をいただけないでしょうか」
声は震えていたが、決然とした言葉に夫妻は了解の返事をした。
◇
その夜。
ステラはクラリスの枕元に座り、そっとその手を再び握った。
怒りは涙に溶けることなく、胸の奥で強固な誓いに変わっていた。
──クラリス様、今度は私たちが守ります。
──私とリクローで、あなたの心を守るお手伝いを。
──だから、どうか戻ってきてください。
その祈りは、静かな夜の闇に溶けていった。
◇
ステラ文庫
『こころ』(夏目漱石/日本)
教師と弟子、そして「先生」と「私」が織りなす人間の業と孤独。
人の心は、時に最も近しい者にすら届かない。
──けれど私は誓います。
クラリス様の「こころ」だけは、もう二度と一人にさせないと。
240
あなたにおすすめの小説
転生後はゆっくりと
衣更月
ファンタジー
貧しい集落で生まれたリリは、生まれた瞬間から前世の記憶があった。
日本人特有の”配慮”に徹した赤ん坊を演じていたことで、両親から距離を置かれた挙句、村人からも「不気味な子」として敬遠されることに…。
そして、5才の誕生日に遠くの町に捨てられた。
でも、リリは悲観しない。
前世の知識チートは出来ないけど、大人メンタルで堅実に。
目指すは憧れのスローライフが出来るほど、ほどほどの守銭奴としてリリは異世界人として順応していく。
全25話(予定)
「婚約破棄された転生令嬢ですが、王城のメイド五百人に慕われるメイド長になりました。なお元婚約者は私のメイドに土下座中です」
まさき
恋愛
社畜OLとして過労死した私は、異世界の令嬢・アリア・ヴェルナーに転生した。
目が覚めたら、婚約破棄されていた。
理由は「地味で面白みがない」から。
泣く暇もなかった。翌朝、王城のメイド採用面接に向かった。
最初は鼻で笑われた。雑用係からのスタートだった。
でも——前世で叩き込まれた仕事術と、一人ひとりの話を聞く姿勢で、少しずつメイドたちが集まってきた。
厨房が変わった。リネンが変わった。王城全体が変わっていった。
そして就任スピーチで宣言した。
「500人全員の名前を、覚えます」
冷酷と噂される王太子は、静かに見ていた。
悪役令嬢は妨害を仕掛けてきた。
元婚約者は——後悔し始めていた。
婚約破棄された令嬢が、500人に慕われるメイド長になるまでの物語。
なお元婚約者は、私のメイドたちの前で土下座中です。
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
社畜の私は異世界でも社畜精神が残ったままだった
木嶋うめ香
恋愛
貴族学園の小さな部屋で、私は一人書類仕事に追われていた。
今日も寮には帰れそうにない、机の上には大量の未処理の書類。
せめて空腹を紛らわそうと、ビスケットを鞄から取り出し水を汲んでこようとして立ち上がった途端、視界が暗くなり倒れた。
床に倒れた反動で、頭を床にぶつける。
その衝撃で思い出した、私は前世ブラック企業に勤めていた社畜で、二十三連勤サービス残業付きの末、体調を崩し亡くなったアラサー営業職だった。
他サイトでもアップしています。
平手打ちされたので、婚約破棄宣言に拳でお答えしました
Megumi
恋愛
婚約破棄を告げられ、婚約者に平手打ちされた——その瞬間。
伯爵令嬢イヴの拳が炸裂した。
理不尽に耐える淑女の時代は、もう終わり。
これは“我慢しない令嬢”が、これまでの常識を覆す話。
最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました
斉藤めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。
白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。
その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。
それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。
やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり――
白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。
身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。
目覚めたら大好きなアニメの悪役令嬢でしたが、嫌われないようにしただけなのに全員から溺愛されています
月影みるく
恋愛
目を覚ましたら、大好きだったアニメの世界。
しかも私は、未来で断罪される運命の悪役令嬢になっていた。
破滅を回避するために決めたことはただ一つ――
嫌われないように生きること。
原作知識を頼りに穏やかに過ごしていたはずなのに、
なぜか王族や騎士、同年代の男女から次々と好意を向けられ、
気づけば全員から溺愛される状況に……?
世界に一人しかいない光属性を持つ悪役令嬢が、
無自覚のまま運命と恋を変えていく、
溺愛必至の異世界転生ラブファンタジー。
ブスすぎて嫁の貰い手がないから閨勤侍女になれと言われたので縁を切ります、完全に!完全縁切りの先にあったのは孤独ではなくて…
ハートリオ
恋愛
ルフスは結婚が決まった従姉の閨勤侍女になるよう父親に命令されたのをきっかけに父に無視され冷遇されて来た日々を終わらせようとブラコン父と完全に縁を切る決意する。
一方、従姉の結婚相手はアルゲンテウス辺境伯とのことだが、実は手違いがあって辺境伯が結婚したいのはルフス。
そんなこんなの異世界ファンタジーラブです。
読んでいただけると嬉しいです。
2/26 番外編を投稿しました。
読んでいただけると嬉しいです。
思っていたよりずっとたくさん読んでいただいていてとても嬉しいです。
とてもとてもありがとうございます!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる