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第10話 こころ<後編>
しおりを挟むクラリスは、静かにベッドに横たわっていた。
制服のまま──室内着にも着替えず、背筋を張った姿勢のまま糸が切れたように崩れ落ちたのは、ほんの数時間前のことだった。
ステラは、その冷たい手を握りしめたまま、一晩中そばを離れなかった。
最初は氷のように強張っていた指先が、時を追うごとに少しずつ柔らかさを取り戻していく。それを確かめるたびに、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
「……クラリス様」
呼びかけても返事はない。かすかにまぶたが震え、浅い息を繰り返すだけ。
けれど、指先に残るぬくもりだけが、生きている証だった。
ステラは決して手を離すまいと、指先に力を込めた。
最初のうちは、ただ涙がこみ上げてきた。
机の引き出しから溢れ出した、幾枚もの便箋。どれもが「お父様、お母様」と書き出されただけで終わっている。
その山の一番上──そこにだけ震える文字で刻まれていた「たすけてください」。
「……どうして。どうして私は、気づけなかったの」
声にならない呻きが漏れた。
けれど同時に、頭の片隅で現実的な言い訳がよぎる。
学園はクラスごとに棟も時間割も違う。
クラリスと顔を合わせられるのは、朝食や夕食のほんのわずかな時間だけ。
一緒にいるようで、日常の大半は交わらない。だから気づけなかった──そう言い訳しようとする自分が、いちばん許せなかった。
「ごめんなさい……クラリス様……」
嗚咽に震えながらも、ステラはその手を握り続けた。
夜が更けていく。
静寂の中、時計の針が刻む音がやけに大きく響く。
涙が枯れていくにつれ、胸の奥に別の感情が芽生えはじめた。
──どうして、こんな優しい方を追い詰めるの。
──どうして、何もしていないクラリス様を、あんなにも孤独にしたの。
──どうして、私はもっと、見ていなかったのだろう。
フローラ。取り巻きたち。ひそひそ笑う声。
そして、王子殿下までもが吐いた心ない言葉。
悪意に塗れた、数々の証拠。
思い返すほどに、理不尽さと卑怯さに胸が煮え立った。
涙はもう出ない。ただ怒りが、熱を帯びて広がっていく。
──私とリクローで、この方を守る。
──二度と一人にはさせない。必ず。
ステラは眠るクラリスの手をぎゅっと握りしめた。指の奥にまで、その誓いを刻むように。
◇
翌朝。
ロマイシン公爵夫妻が学園へ到着した。
寮母とともにステラは出迎える。緊張で喉が詰まりそうな中、扉が開き、険しい表情の公爵ノルベルトと夫人アナベルが姿を現した。
「クラリスは……?」
夫人の問いに、寮母は深々と頭を下げる。
「大切なお嬢様を預かっていながら、このようになるまで気づけず申し訳ありませんでした。ステラさんがおかしいと知らせてくれて、部屋を開けた時にはもう座ったまま反応を失っていて……。ただ、ステラさんが手を握られたら急に力が抜け、そのまま眠り続けているのです」
公爵は眠るクラリスの顔を見つめ、低く問う。
「クラリスを……家に連れて帰ってもよろしいでしょうか」
「はい、もちろんです」寮母が頷いた。「今の彼女にとって、ここは良い場所ではないでしょうから」
そんなやりとりの中、ステラは勇気を振り絞った。
「あの……クラリス様をお家にお連れする時、私も同行させていただけないでしょうか」
厚かましい願い。だが公爵夫妻は一瞬だけ目を交わし、静かにうなずいた。
その間も、ステラはクラリスの手を包み込んでいる。
心の奥底で、強く誓った。
──もう二度と、この方を一人にはしない。
◇
馬車の中。
クラリスはアナベル夫人の膝枕で眠り続けていた。
優しく、夫人はクラリスの頭を撫で続ける。
その様子を見ながらステラは拳を膝に押しつけ、必死に涙をこらえた。
泣いてはいけない。これはクラリス様の心の声。叫び。
「私が守らなければ」と心の奥で繰り返す。
──クラリス様は耐えていた。あの酷い仕打ちを、たった一人で。
──私とリクローを巻き込むまいと、わざと突き放して。
──私たちを守ってくださっていたのだ。
その事実が胸を裂く。悔しさと悲しさで心が揺さぶられ、吐き出したいほどの感情が渦巻く。
それでも泣かない。今ここで泣いたら、クラリス様がさらに傷ついてしまう。
◇
馬車が公爵邸に到着すると、モリーが待っていた。
「お嬢様!」
駆け寄る彼女は毛布を抱え、今にも泣き出しそうだった。
「モリー、娘を頼む」
ノルベルトの声に促され、クラリスは毛布に包まれ、静かに寝台へと運ばれていく。
ステラはその姿を見届けると、公爵夫妻に深々と頭を下げた。
「……お二人に、お伝えしなくてはならないことがあります。クラリス様に何が起こったのかを示す、証拠があります。私の婚約者が安全な場所に保管しております。どうか、後ほどお時間をいただけないでしょうか」
声は震えていたが、決然とした言葉に夫妻は了解の返事をした。
◇
その夜。
ステラはクラリスの枕元に座り、そっとその手を再び握った。
怒りは涙に溶けることなく、胸の奥で強固な誓いに変わっていた。
──クラリス様、今度は私たちが守ります。
──私とリクローで、あなたの心を守るお手伝いを。
──だから、どうか戻ってきてください。
その祈りは、静かな夜の闇に溶けていった。
◇
ステラ文庫
『こころ』(夏目漱石/日本)
教師と弟子、そして「先生」と「私」が織りなす人間の業と孤独。
人の心は、時に最も近しい者にすら届かない。
──けれど私は誓います。
クラリス様の「こころ」だけは、もう二度と一人にさせないと。
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