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第12話 夜明け前
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俺はレオンハルト・フェルゼンヴァルト。
ここ辺境伯爵領を治めるフェルゼンヴァルト家の長男だ。
フェルゼンヴァルト家は、元々は王家の出であり、親父は現国王の弟である。
我が国の辺境伯爵というのは世襲ではなく、その時代でもっとも辺境を守るに値すると証された者が、国王により任命される。
……まあ息子の俺が言うのもなんだが、親父は強い。その下に持つ騎士団も強い。今代の辺境伯は「歴代一の武力」とまで言われている。
俺自身もこの辺境が好きだ。
王都の貴族学園にいた四年間は、正直息が詰まりそうだった。
一年目はロマイシン公爵家に滞在して通っていたからまだ良かったが、残りの三年間の寮生活は最悪だ。
王家の血を引くせいか揉め事の仲裁を何度もやらされ、「王族らしく振る舞え」と求められる。似合わない紳士を演じるしかなくて、何度「殴ってやりたい」と思ったことか。
……いや、もちろん暴力に訴えるわけにはいかないんだが。
◇
ロマイシン家に滞在していた一年間、クラリスはまだ十歳。
それはそれは淑やかな公爵令嬢で、王都の「理想的なお嬢様」そのものに見えた。
だが実は、俺はもっと前――六歳の頃にも会っている。
親父に連れられて誕生祝いを届けに来た時、生後半年のクラリスを抱かせてもらった。
驚いたのは、ロマイシン公爵が赤ちゃん言葉でオムツを替えていたこと……ではなく。
赤子の口からはっきりと飛び出した「ボケェ!」という言葉だった。
大人たちは「空耳だ」と笑って片づけたが、俺にはそうは思えなかった。
辺境でも滅多に聞かない言葉を、喋れぬ赤子が吐いたのだ。あれは確かに「ボケェ」と言っていた。
その確信は、十歳のクラリスを見て強まった。
表向きは淑女然としているのに、屋敷の片隅で時折ぶつぶつと呟いていたからだ。
「こんなもん覚えてどないなるねん、ボケェ」
「ダンス何種類あるねん、一個でええやろ!」
「あああ、カニカンは積むんやなくて食べたいわあ」
意味は半分も分からなかったが、妙に笑えて仕方がなかった。
気づけば俺は、クラリスが行きそうな場所を先回りして、その独り言を聞くのを楽しみにしていた。
他の誰も知らない一面。
淑やかな顔の奥に、イタズラっぽい光を隠しているクラリス。
――それが俺にとってのクラリスだった。
◇
だから、再会の時に声を張り上げてしまったのだ。
あのクラリスが俯き、目を合わせようともしない。信じられなかった。
事情を聞いて、学園の歪みと悪意に吐き気がした。
人をここまで追い込むような仕打ちをする貴族が同じ場所で笑っている――そう思うと、怒りで胃が煮えるようだった。
だからこそ、クラリスにはどうしても幸せになってもらいたい。
そのために、ステラとリクロー、二人と力を合わせることにした。
彼らは王都の「貴族然」とした同年代とは違い、とても気持ちの良い奴らだ。
そんな彼らとクラリスとの生活。
外を散歩し、一緒に食卓を囲み、ときに本を読み聞かせる。
ほんの少しずつだが、クラリスの表情に赤みが戻っていくのが分かった。
ただ、食欲はまだ戻らない。
食べてはいるが「美味しい」と感じているようには見えなかった。
あの、思い切り「美味しい!」と叫んで笑っていたクラリスの顔……あれは何を食べていた時だったか。
◇
そんな日々を過ごしていたある日、父と公爵から「ステラとリクローは学びに戻せ」との通達が届いた。
二ヶ月以上この生活をしているのだから、学びの機会を奪ってはいけない。
「辺境伯が責任を持つ」という条件のもと預かっている以上、当然のことだった。
「――というわけで、お前たちは今日から朝から晩まで勉強だ!」
二人は分かりやすく不満な顔になった。
「ええっ、クラリス様のお散歩は?」
「俺がやる」
「クラリス様とのお話は?」
「俺がやる」
「……ずるい!」
二人同時に泣きそうな顔をしたのが可笑しくて、思わず大笑いした。
本当に良い友人を持ったものだ、クラリスは。
「これからのクラリスを支えたいのなら、学べ。経験しろ。お前たちがここで得るもの全部が、クラリスのためになる」
「「わかりました!」」
「いい返事だ。それに免じて、食事は一緒にと父に伝えておいたぞ」
「「頑張ります!」」
……まったく、可愛い奴らだ。
それから彼らは食事の時以外、必死に辺境伯の講師陣に食らいついていると聞く。
◇
さて、今日はクラリスと市場へ行ってみよう。
不思議なことに、彼女は大声に怯えるのに、人のざわめきには平気だった。
むしろ市場の賑わいを好み、興味深そうに歩いていた。
果物、焼き菓子、色とりどりの布。
その中でクラリスが足を止め、じっと見つめたのは一つの屋台だった。
籠に盛られた濃い赤の豆。
「これは……?」と尋ねると、豆売りは「赤豆だ」と素っ気なく答えた。
どこかで見たことがある気がするが、どうしても思い出せない。
深く考えず、とりあえず買って帰ることにした。
この赤豆が――
クラリスの心を解き放つきっかけになるとは、その時の俺は知る由もなかった。
◇
レオン文庫
『夜明け前』(島崎藤村/日本)
夜は深く、長く、時に人を凍らせる。
けれど必ず、夜は明ける。
彼女が再び笑うその時を信じ、俺たちは共に歩き始めた。
ここ辺境伯爵領を治めるフェルゼンヴァルト家の長男だ。
フェルゼンヴァルト家は、元々は王家の出であり、親父は現国王の弟である。
我が国の辺境伯爵というのは世襲ではなく、その時代でもっとも辺境を守るに値すると証された者が、国王により任命される。
……まあ息子の俺が言うのもなんだが、親父は強い。その下に持つ騎士団も強い。今代の辺境伯は「歴代一の武力」とまで言われている。
俺自身もこの辺境が好きだ。
王都の貴族学園にいた四年間は、正直息が詰まりそうだった。
一年目はロマイシン公爵家に滞在して通っていたからまだ良かったが、残りの三年間の寮生活は最悪だ。
王家の血を引くせいか揉め事の仲裁を何度もやらされ、「王族らしく振る舞え」と求められる。似合わない紳士を演じるしかなくて、何度「殴ってやりたい」と思ったことか。
……いや、もちろん暴力に訴えるわけにはいかないんだが。
◇
ロマイシン家に滞在していた一年間、クラリスはまだ十歳。
それはそれは淑やかな公爵令嬢で、王都の「理想的なお嬢様」そのものに見えた。
だが実は、俺はもっと前――六歳の頃にも会っている。
親父に連れられて誕生祝いを届けに来た時、生後半年のクラリスを抱かせてもらった。
驚いたのは、ロマイシン公爵が赤ちゃん言葉でオムツを替えていたこと……ではなく。
赤子の口からはっきりと飛び出した「ボケェ!」という言葉だった。
大人たちは「空耳だ」と笑って片づけたが、俺にはそうは思えなかった。
辺境でも滅多に聞かない言葉を、喋れぬ赤子が吐いたのだ。あれは確かに「ボケェ」と言っていた。
その確信は、十歳のクラリスを見て強まった。
表向きは淑女然としているのに、屋敷の片隅で時折ぶつぶつと呟いていたからだ。
「こんなもん覚えてどないなるねん、ボケェ」
「ダンス何種類あるねん、一個でええやろ!」
「あああ、カニカンは積むんやなくて食べたいわあ」
意味は半分も分からなかったが、妙に笑えて仕方がなかった。
気づけば俺は、クラリスが行きそうな場所を先回りして、その独り言を聞くのを楽しみにしていた。
他の誰も知らない一面。
淑やかな顔の奥に、イタズラっぽい光を隠しているクラリス。
――それが俺にとってのクラリスだった。
◇
だから、再会の時に声を張り上げてしまったのだ。
あのクラリスが俯き、目を合わせようともしない。信じられなかった。
事情を聞いて、学園の歪みと悪意に吐き気がした。
人をここまで追い込むような仕打ちをする貴族が同じ場所で笑っている――そう思うと、怒りで胃が煮えるようだった。
だからこそ、クラリスにはどうしても幸せになってもらいたい。
そのために、ステラとリクロー、二人と力を合わせることにした。
彼らは王都の「貴族然」とした同年代とは違い、とても気持ちの良い奴らだ。
そんな彼らとクラリスとの生活。
外を散歩し、一緒に食卓を囲み、ときに本を読み聞かせる。
ほんの少しずつだが、クラリスの表情に赤みが戻っていくのが分かった。
ただ、食欲はまだ戻らない。
食べてはいるが「美味しい」と感じているようには見えなかった。
あの、思い切り「美味しい!」と叫んで笑っていたクラリスの顔……あれは何を食べていた時だったか。
◇
そんな日々を過ごしていたある日、父と公爵から「ステラとリクローは学びに戻せ」との通達が届いた。
二ヶ月以上この生活をしているのだから、学びの機会を奪ってはいけない。
「辺境伯が責任を持つ」という条件のもと預かっている以上、当然のことだった。
「――というわけで、お前たちは今日から朝から晩まで勉強だ!」
二人は分かりやすく不満な顔になった。
「ええっ、クラリス様のお散歩は?」
「俺がやる」
「クラリス様とのお話は?」
「俺がやる」
「……ずるい!」
二人同時に泣きそうな顔をしたのが可笑しくて、思わず大笑いした。
本当に良い友人を持ったものだ、クラリスは。
「これからのクラリスを支えたいのなら、学べ。経験しろ。お前たちがここで得るもの全部が、クラリスのためになる」
「「わかりました!」」
「いい返事だ。それに免じて、食事は一緒にと父に伝えておいたぞ」
「「頑張ります!」」
……まったく、可愛い奴らだ。
それから彼らは食事の時以外、必死に辺境伯の講師陣に食らいついていると聞く。
◇
さて、今日はクラリスと市場へ行ってみよう。
不思議なことに、彼女は大声に怯えるのに、人のざわめきには平気だった。
むしろ市場の賑わいを好み、興味深そうに歩いていた。
果物、焼き菓子、色とりどりの布。
その中でクラリスが足を止め、じっと見つめたのは一つの屋台だった。
籠に盛られた濃い赤の豆。
「これは……?」と尋ねると、豆売りは「赤豆だ」と素っ気なく答えた。
どこかで見たことがある気がするが、どうしても思い出せない。
深く考えず、とりあえず買って帰ることにした。
この赤豆が――
クラリスの心を解き放つきっかけになるとは、その時の俺は知る由もなかった。
◇
レオン文庫
『夜明け前』(島崎藤村/日本)
夜は深く、長く、時に人を凍らせる。
けれど必ず、夜は明ける。
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