【完結・番外編更新中】異世界令嬢生活は、思ったよりもしんどいです。

桜野なつみ

文字の大きさ
13 / 24

第13話 美味礼讃

しおりを挟む
クラリスは、自分がどこに存在しているのかわからなくなっていた。
前世の記憶を抱え、この世界に足を踏み入れてからずっと、胸の奥には違和感が巣くっていた。

「役割」を演じてきたのだ。
公爵令嬢として、完璧で、笑みを絶やさぬ存在を。
けれど、その役が崩れた瞬間――周囲からの評価が「相応しい」軌道を外れた瞬間――クラリスは、この世界での自分の輪郭を失ったように思えた。

心は遠のき、ただ「生きている」証だけが残る。

何も考えられない。
何を食べても味がしない。
周りが笑っていても笑えない。
大きな声がすべて怖い。
眠れば、このまま自分がいなくなりそうで眠れない。

差し出される食事を、体の要求に従って口へ運ぶ。
必要に迫られてお手洗いに行く。
――それだけ。

それが「生きる」ことなのかどうかさえ、もうわからなくなっていた。



そんなある日。
誰かと一緒に、市場を歩いていた。

ざわめきで満ちる通り。
本来なら怯えるはずの声や掛け声も、なぜか怖くない。
遠くで流れる川音を聞くように、ただ外側から眺めているだけの感覚。

ふと、足が止まった。
さまざまな豆の籠の中で、一際つややかな赤い山が目に刺さる。
思わず見入ってしまう――懐かしい感じのする、その豆。
なんだろう、コレ……なんだったっけ……。
しばし凝視して、ふっと視線を外す。

次の瞬間、誰かがその豆をすべて買い上げていた。



翌朝。
食卓に、一椀が置かれる。
ほかほかと湯気の上がるスープから、ふわり――懐かしい香り。

「……ぜんざい……」

唇が小さく動く。
最近は自分からスプーンを取ることもなかったのに、その匂いに誘われるまま手を伸ばし――ひと口。

――しょっぱい。

舌に広がるのは、懐かしい豆の風味。そして、塩味。

「……ちゃ、ちゃうやん……」

喉が勝手に動く。
頭の奥にかかっていた霧が、スッと晴れていく。

「ふつう、――砂糖やろっ!!」

思わず大きな声が飛び出した。
自分でも驚くほど久しぶりの、「ツッコミ」。



「クラリス様っ!」
泣き笑いの顔で、ステラが飛びついてくる。

「えっ?」
急な抱擁に目を瞬く。
何が起こってるの? あれ? 私……。

横ではリクローが泣いている。
そして、にやりと笑う――

「レオンハルト様?」

「そうだよ。久しぶりだなあ」

「お、お久しぶりです……」

霧が急に晴れたかと思えば、状況はよくわからない。

――ああ、そうだ。私は今、辺境伯さまのもとにお世話になってるんやった。
あの試験の結果発表の場から、記憶が薄ぼんやりと曖昧になった。
体から魂が抜けてしまったみたいで、何をしても実感が持てず、何もする気が起きず、もうどうでもいい――そんな気持ちにまで落ち込んでいた。

心配してくれる人たちがいることもわかっていた。
でも、その優しささえ鬱陶しく、気持ち悪いと感じるほど、ただ逃げたかった。

――それが今、唐突に「ここ」に戻ってきた。
小豆を煮る匂いを嗅いだ一瞬で、自分の体が確かにここにあるとわかったのだ。
味は……まあ、しょっぱかったけど。

レオンハルトが口の端を上げる。

「この豆を見てさ。俺が学園一年の頃、お前が公爵邸の料理長とごちゃごちゃやってたのを思い出してね」

……うそ。あれ、見てたの?

――クラリス十歳の頃。ふらりと視察に出た折、たまたま見つけた小豆。
これでぜんざい、あんこが作れるのでは? と持ち帰った。
けれど自分で煮たことなどなく、砂糖をどかっと最初から入れて煮ては失敗。
泣きそうな私を料理長が必死に慰め、何度も作り直してくれた。
最後のひと握りで出来上がったのは、ちゃんとしたぜんざい。
「淑女であれ」と言われ続けた公爵邸で、思わず「うまい!!」と叫んでしまった、十歳の私。

「あ、あれ……ご覧になってたんですの?」

「見てたよ。あれは旨そうだったなあ~。面白くて、学園から帰るとキッチンを覗くのが日課になってた。俺の下校がちょうどお前の休憩時間でさ、いつもこの匂いが流れてきてた」

「最後に成功した時、“うまい!”って大声で言ってたよな」

「えええっ、そ、そこまで……!」

「見てたよ~。可愛かったなあ、あの時は」

うそー……見られてたんかいな。恥ずかしいやん。

「クラリス様ぁ……!」
ステラは泣きじゃくって言葉が出ない。代わってリクローが口を開く。

「よかった、本当に……。クラリス様が元気でないと、僕たち、着飾りがいがないんです」

「着飾りがい?」

「いつも服装や髪型にからか……いえ、コメントくださるでしょう? あれ、嬉しくて」

――嬉しかったんだ。
私がからかってるの、ちゃんと伝わってたのね。

「本当に、いい友を持ったよな、クラリスは。あの学園でここまで仲良くなれるの、そうないぞ?」
レオンハルトはにこにこしながら、私の頭をくしゃりと撫でた。

……くすぐったくて、嬉しくて、少し恥ずかしい。

「そ、それより。これ、何なんですの? お塩しか入ってませんわよ?」

「いや~、思い出しながら作ったんだけど、分量も仕上がりの味も自信なくて」

「せっかくですし頂きますけれど……あとで、お砂糖で炊いたの、作ってみたいです。まだこのお豆、ありますか?」

「あるよ、たくさん。ここは外国との交易が盛んだからね」

「ほんまですかっ!……あっ……」

思わず出た関西弁に、あわてて口を塞ぐ。
そんな私に、ステラが泣きながら――

「ああ、クラリス様のそれが出ました……うれしい……」

「え?」

「その“変なお言葉”が聞けなくなって、どれだけ悲しかったか」

「ステラも聞いてたか。そうなんだよなあ、クラリス、気が抜けると変な言葉使うよな」

「わ、わたくし、口に出して……ました?!」

全員が、こくこく頷く。

「お前の近くにいたやつは、全員知ってる。俺が初めて聞いたお前の言葉……赤子の『ボケェ!』な。」

ひえええええ。
赤子の黒歴史までご存知で……やめてください、ほんまやめてください!

「ま、でも――ようやく調子が戻ってきたところだ。無理は厳禁だな」

「そうですわ、クラリス様。まずはお食事、召し上がって」

「クラリス様、この豆のスープ、美味しいですよ」

みんなの優しさが、静かに染みていく。
塩味の小豆スープは、――たぶん、涙の味も少し混じっていた。



クラリス文庫

『美味礼讃』(ブリア=サヴァラン/フランス)
「美味しい」と思えることは、生きている証。
食は心を救い、魂を立ち上がらせる。

味を取り戻すこと。
それは、生きる喜びを取り戻すことだった。
塩気から始まった小さな騒動が、確かに私の心に灯を戻してくれたのだ。
よし、今度みんなに“ほんま”のぜんざい、ふるまったろ。
しおりを挟む
感想 20

あなたにおすすめの小説

転生後はゆっくりと

衣更月
ファンタジー
貧しい集落で生まれたリリは、生まれた瞬間から前世の記憶があった。 日本人特有の”配慮”に徹した赤ん坊を演じていたことで、両親から距離を置かれた挙句、村人からも「不気味な子」として敬遠されることに…。 そして、5才の誕生日に遠くの町に捨てられた。 でも、リリは悲観しない。 前世の知識チートは出来ないけど、大人メンタルで堅実に。 目指すは憧れのスローライフが出来るほど、ほどほどの守銭奴としてリリは異世界人として順応していく。 全25話(予定)

「婚約破棄された転生令嬢ですが、王城のメイド五百人に慕われるメイド長になりました。なお元婚約者は私のメイドに土下座中です」

まさき
恋愛
社畜OLとして過労死した私は、異世界の令嬢・アリア・ヴェルナーに転生した。 目が覚めたら、婚約破棄されていた。 理由は「地味で面白みがない」から。 泣く暇もなかった。翌朝、王城のメイド採用面接に向かった。 最初は鼻で笑われた。雑用係からのスタートだった。 でも——前世で叩き込まれた仕事術と、一人ひとりの話を聞く姿勢で、少しずつメイドたちが集まってきた。 厨房が変わった。リネンが変わった。王城全体が変わっていった。 そして就任スピーチで宣言した。 「500人全員の名前を、覚えます」 冷酷と噂される王太子は、静かに見ていた。 悪役令嬢は妨害を仕掛けてきた。 元婚約者は——後悔し始めていた。 婚約破棄された令嬢が、500人に慕われるメイド長になるまでの物語。 なお元婚約者は、私のメイドたちの前で土下座中です。

はじめまして、私の知らない婚約者様

有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。 見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。 けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。 ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。 けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。 この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。 悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに? ※他サイトにも掲載しています。

社畜の私は異世界でも社畜精神が残ったままだった

木嶋うめ香
恋愛
貴族学園の小さな部屋で、私は一人書類仕事に追われていた。 今日も寮には帰れそうにない、机の上には大量の未処理の書類。 せめて空腹を紛らわそうと、ビスケットを鞄から取り出し水を汲んでこようとして立ち上がった途端、視界が暗くなり倒れた。 床に倒れた反動で、頭を床にぶつける。 その衝撃で思い出した、私は前世ブラック企業に勤めていた社畜で、二十三連勤サービス残業付きの末、体調を崩し亡くなったアラサー営業職だった。 他サイトでもアップしています。

平手打ちされたので、婚約破棄宣言に拳でお答えしました

Megumi
恋愛
婚約破棄を告げられ、婚約者に平手打ちされた——その瞬間。 伯爵令嬢イヴの拳が炸裂した。 理不尽に耐える淑女の時代は、もう終わり。 これは“我慢しない令嬢”が、これまでの常識を覆す話。

最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました

斉藤めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。 白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。 その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。 それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。 やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり―― 白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。 身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。

目覚めたら大好きなアニメの悪役令嬢でしたが、嫌われないようにしただけなのに全員から溺愛されています

月影みるく
恋愛
目を覚ましたら、大好きだったアニメの世界。 しかも私は、未来で断罪される運命の悪役令嬢になっていた。 破滅を回避するために決めたことはただ一つ―― 嫌われないように生きること。 原作知識を頼りに穏やかに過ごしていたはずなのに、 なぜか王族や騎士、同年代の男女から次々と好意を向けられ、 気づけば全員から溺愛される状況に……? 世界に一人しかいない光属性を持つ悪役令嬢が、 無自覚のまま運命と恋を変えていく、 溺愛必至の異世界転生ラブファンタジー。

ブスすぎて嫁の貰い手がないから閨勤侍女になれと言われたので縁を切ります、完全に!完全縁切りの先にあったのは孤独ではなくて…

ハートリオ
恋愛
ルフスは結婚が決まった従姉の閨勤侍女になるよう父親に命令されたのをきっかけに父に無視され冷遇されて来た日々を終わらせようとブラコン父と完全に縁を切る決意する。 一方、従姉の結婚相手はアルゲンテウス辺境伯とのことだが、実は手違いがあって辺境伯が結婚したいのはルフス。 そんなこんなの異世界ファンタジーラブです。 読んでいただけると嬉しいです。 2/26 番外編を投稿しました。 読んでいただけると嬉しいです。 思っていたよりずっとたくさん読んでいただいていてとても嬉しいです。 とてもとてもありがとうございます!!   

処理中です...