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白の綻び
しおりを挟むカリンナ邸から戻ったレオニスを、執務室で待っていたのは、幼馴染にして忠実な部下──アレンだった。
「レオニス様。ご依頼の件、ひとまず報告を」
アレンは分厚い資料を机に置くと、静かに言葉を継いだ。
「確かに、“アリシア・ソーントン”という名の令嬢は、社交界に存在しています。現在二十歳。五年前──ちょうど十五歳で社交界デビューした頃から、華やかに名を広めており、刺繍の腕前もまた評判で……各家からの依頼も多く、特に高位貴族からの寵愛を集めています」
「五年前、か」
レオニスは、指で机の縁をなぞりながら呟いた。
「はい。しかし──それ以前の記録が、ありません」
アレンの声音に、微かな警戒が滲む。
「貴族の子女であれば、幼少期からの記録や養育歴、家庭教師の記録、慈善活動、刺繍大会の出場歴など、何かしら足跡が残るはずなのですが……“アリシア”嬢に関しては、十五歳以前の記録がまるで存在しませんでした」
沈黙が落ちる。
「……消された、か。あるいは、もともと……?」
レオニスの表情に、また一層の確信と、怒りに近い感情が宿る。
「引き続き、調査を。何か“本来の記録”が残っている可能性もある。ヨシナ国との繋がりも視野に入れてくれ」
「かしこまりました」
アレンは小さく頷いた。
そして部屋を出ようとして──ふと立ち止まる。
「……ダグラス兄さんも、きっと喜んでいますよ。あなたが今、こうして誰かを見つけようとしていることを」
その言葉に、レオニスは目を伏せたまま、小さく息を吐いた。
「……あいつの分まで、ちゃんと見届けるよ」
彼の中で、一つの確信が輪郭を持ち始めていた。
「少し、仕掛けてみるか」
*
その数日後、再びソーントン伯爵家を訪れたレオニスは、アリシアとソーントン夫人に丁寧に頭を下げた。
「──この桜のモチーフで、再度作品をお願いしたく思います」
「桜の……あのハンカチの?」
アリシアが瞬く。レオニスは微笑みながら、用意していた籠を差し出した。
「前回お預かりしたものは、こちらに。あの作品に大変感銘を受けた方がいまして──実は、テンタス皇族からご所望があったのです」
「こ、皇族の……!?」
ソーントン夫人が驚きに満ちた声を上げた。アリシアも目を丸くする。
「このティーカップは、その方からのお礼です。金装飾入りの特注品。お気に召していただけるかと」
そう言ってレオニスは、美しい彫刻の入った木箱を開けて彼女たちに見せた。
「まあああ!なんて美しい!!」
「どうぞ、お手に」
アリシアは恐る恐る、しかし目は爛々としてカップを受け取った。
「お、お母様、すごいわよ」
「ええ、本当に……」
二人がカップに釘付けになっている間に、レオニスはもう一つ質素な籠を取り出す。
「こちらが、今回の注文で必要であろう糸と布になります」
籠の蓋を開けると、上には淡い桜色の糸が美しく揃えられていた。
「前回、お渡しいただいたハンカチも一緒に入れてあります。あの桜と同じ印象で、とのご要望でしたので」
その籠の下には、前回と香りの異なるハンドクリームと、ヨシナ国の桜色の金平糖。
ハンカチは、そっと桜の糸の上に──まるで「君を見ている」と伝えるように忍ばされていた。
*
レオニスが帰った後──
「一枚で……このティーカップよ」
ソーントン夫人が目を輝かせる。
「馬車一台分にはなるわ。あいつに、さらに作らせましょう」
「そうね……何枚とは指定されていなかったわよね?」
「じゃあ、次に来るって言ってた五日後までに──三枚やらせましょう!」
東棟に怒号が響いたのは、その直後だった。
「さっさと作りなさいよ!!」
「今回は三枚よ!急ぎなさい!」
「五日で作るのよ!」
そして籠が投げ入れられた。
命じられたビオラは、籠を拾い上げた。
「……っ」
足の痛みも、心の疲労も限界だった。
けれど、命じられれば──彼女には逆らえない。
逆らうことなど、考えたこともない。
刺繍台に座り、手を動かし始める。
桜の花びらを縫い、枝を縫い、葉を重ねていく──けれど。
白の糸に、手が届かない。
影縫いをする余裕も、気持ちも、追いついていかない。
ただ言われた意匠を刺していくだけ。
胸の奥にしまっていた“言葉“を刺すことができない。
返ってきたハンカチや、籠の底に忍ばされた優しさにも気づけないほど、追い詰められていた。
それでも、ビオラは刺す。
心の綻びを抱えたまま、言葉のない刺繍を──縫い進めた。
*
五日後。
再訪したレオニスは、応接室で三枚の刺繍を受け取った。
「……ありがとうございます。皇族の方も、きっと喜ばれます」
丁寧に礼を述べ、馬車に乗り込むと──
レオニスは包みを開いた瞬間、息を呑んだ。
縫い目は確かに美しい。構図も、彩りも申し分がない。
だが、そこには。
──白が、ない。
祈りのような影縫いも、言葉も、どこにもなかった。
ただ、模様が整然と並んでいるだけだった。
手の中の布が、冷たく感じる。
「……なぜ……」
呟いた声が、馬車の中に沈んでいく。
*
トーラス公爵邸。
レオニスは、カリンナのもとを訪れ、無言のままテーブルに刺繍を広げた。
「……これは……?」
カリンナは一瞥して、すぐに異変に気づいた。
「白が……他の作品にはある、白が、無いのね」
レオニスはうつむいたまま、唇を噛む。
「……焦りすぎました。俺が、奴らを欲張らせた……」
「人の“欲”は、目の前にご褒美がぶら下がるほど、大きくなるものよ」
カリンナの声は穏やかで、しかし厳しかった。
「その“欲”の下で、刺し手がどんな環境にいるか──どんな想いをするか。
あなたは、それを考えなかった」
レオニスは、ぎゅっと目を閉じた。
言い返す言葉は、なかった。
(また、同じ過ちを……)
その様子を見ていたカリンナが立ち上がり、レオニスの肩に手を置いた。
「……でも、今からでも遅くはないわ。
あなたは、あの子を助けようとしている。それは紛れもない事実よ。
失敗したら、またやり直せばいいの。
──まだ、命の灯は消えていないもの」
「……」
「それと。少しは人に頼りなさいな。全部、自分で背負わなくてもいいのよ」
その言葉に──
レオニスは、ゆっくりと顔を上げた。
「伯母上……ご助力、いただけますか」
するとカリンナは、にっこりと笑った。
「言われなくても。可愛い甥っ子のためなら、何でもしてあげるわよ」
──その瞬間、レオニスの胸に、ほんの少し、あたたかな風が吹いた気がした。
“白の綻び”は、きっとまだ、修復できる。
そのために──今、動き出そう。
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