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白の雫
しおりを挟む東棟に、朝が訪れる。
しかしビオラにとっては、いつもの朝ではなかった。
いつもの朝は、誰の声もなく、時折、部屋の前に冷えたパンと水が置かれているだけ。
もし人の足音がすれば、それは自分を罰するため──。
けれど、この朝は違った。
人の声がする。足音がする。
何のために? 何をされるの?
ビオラの心は恐怖で小さく縮こまった。
一日目。
部屋の隅で、ビオラは刺繍枠を胸に抱いたまま、身を固めていた。
黒い髪の間から覗く瞳は、外を見ていない。
ただ刺繍枠だけを見つめて、刺していた。
こちらが少しでも動くと、刺繍枠を胸に抱く。奪われてしまうのではないかと体を震わせながら。
エイミーもサナも無理に声をかけなかった。
ただ「ここにいるよ」と示すように、穏やかに部屋の掃除を始めた。
雑巾を絞る水音、ほうきの先が床を擦る音。
それらが静まり返った部屋にやわらかく広がっていく。
ダンが持ち込んだ温かな食事をそっと机に置いたが──
ビオラはびくりと肩を震わせただけで、決して手を伸ばさなかった。
机の隅には、昨日まで残されていた冷めたパンと水。
それがいつの間にかなくなっていた…おそらく、毛布の中に。
彼女は、それだけを口にしていた。
二日目。
朝から、三人は動き続けた。
剥がれかけた壁紙をできるだけ補修し、窓を拭き、埃の積もった床を磨く。
雑巾が板を擦るたびに、黒ずんでいた床に少しずつ艶が戻っていく。
毛布にくるまったビオラは、相変わらず刺繍枠を胸に抱いていた。
相変わらず人が動くと、刺す動きが止まって胸に抱く。
けれど──昨日と違うことがひとつあった。
毛布の隙間から、黒い瞳がのぞいていたのだ。
掃除のたびに視線が動く。
雑巾を絞る音に目を瞬き、棚に布を敷く様子に小さく反応する。
まだ口もきけず、出された食事にも手をつけない。
だが──彼女は確かに、彼らを目で追っていた。
その夜、東棟の食卓。
簡素な食事を囲む三人の横に、ビオラの夕食は手付かずのまま残っていた。
「やっぱり、口にしなかったわね…パンと水だけよ」
エイミーが息を吐く。
「報告の通りかもしれん」
ダンが低くつぶやいた。
サナが不思議そうに首をかしげる。
「報告?」
「昔、ここで働いていた使用人の証言よ」
エイミーが声を落とす。
「“奥方だけに温かいスープが出されて、その夜、急に亡くなった”……」
「……だから温かいものを拒むようになったのか」
ダンが静かに言った。
一瞬、重い沈黙が落ちる。
サナはきゅっと唇を結び、強く首を振った。
「でも……温かいものは、本当は幸せの味だよ。あの子にだって、知ってほしい」
エイミーとダンは顔を見合わせた。
やがてダンが頷き、低く提案する。
「なら……皆で同じ鍋から食べよう。毒なんて入ってないって、示せるはずだ」
「ええ。そうしましょう」
エイミーの声が、静かな決意を帯びていた。
三日目。
朝の小さな卓上に、湯気を立てる鍋が置かれた。
野菜と優しい卵の香りが、冷たい空気に広がる。
毛布に包まったビオラは、怯えた瞳で鍋を見つめ、さらに身をすくめた。
自らの体を抱く手が震えるほどの恐怖。
ダンが低く、しかし穏やかに告げる。
「大丈夫だ。俺たちも同じものを食べる」
まず、サナが杓子をとり、自分の器にスープをすくった。
「ね、見てて。……ほら、美味しい」
熱さに頬を赤らめながら微笑む。
続けてエイミーが同じ鍋からすくい、一口。
「大丈夫よ。ちゃんと温かくて、優しい味」
ダンは豪快に器を傾け、飲み干した。
「……うまい」
三人の様子を、ビオラはじっと目で追っていた。
けれど、まだ手を伸ばせない。
サナが最後の一杯をすくい、そっとビオラの前に置く。
「次は、あなたの番」
エイミーが穏やかに添える。
「これは、あなたのものよ。誰もあなたを傷つけたりしない」
ビオラの手が震えながら器に伸びる。
熱の伝わる陶器を、両手で抱きかかえる。
おそるおそる、唇を近づけ──。
……温かい。
冷え切った身体の奥に、熱が染み込んでいく。
それは、胸の中の氷を溶かすようで。
堰を切ったように、涙が頬を伝った。
ぽろぽろと、止めどなく流れていく。
声は出ない。けれど、あふれる涙が何より雄弁に語っていた。
「生きていたい」と。
「この温かさに触れていたい」と。
「……美味しい?」
サナの小さな問いかけに、ビオラはこくりと頷いた。
エイミーが優しく微笑む。
「よかった」
食後、ビオラは刺繍台に向かった。
震える指先が選んだのは──三つの小さなモチーフ。
エイミーへは、陽を追う「ひまわり」。
サナへは、道端で強く咲く「たんぽぽ」。
ダンへは、人を支える「エルムの木」。
一針ごとに、彼女の胸の奥でこわばっていたものがほどけていく。
それは、長い暗闇に落ちた、ただ一つの白い雫。
確かにそこから光が広がり始めていた。
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