私の大切な人

ゆい

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あの夏 あなたに また出会う

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 私はふと黒板から目をそらし彼を見る。彼はいつも通り席に座っていて、黒板の文字を丁寧にノートに写している。肘まで折り曲げた長袖のワイシャツからよく日に焼けた筋肉が顔を出している。時々見える細い血管も、何もかもが美しい。私はもう何か月も前に見たような気がする彼の怪我を思い出す。日付を見るとまだあれから一週間しか経っていなくて、心なしか彼の怪我も思っていたより浅い気がする。あの時はショックが大きかったからきっと怪我も大層なものに見えたのだろう。残念なことにあの憎き先輩の顔を思い出すことができない。結局隠れてしまったし、連れていかれているところしか見ていないからほぼ覚えていない。だから朝登校するときもどこかにいるんじゃないかと気を配っているが、一向に見当たらない。

 
 六月に入り梅雨が近づくと、彼を見かける頻度が増えた。雨だとグラウンドが使えなくて、校舎内をランニングしていたり、階段をダッシュで駆け上ったりしているからだ。私の放課後の定位置は図書室で、気がつけば彼が借りたことのある本を探している。ある日運良く小説の棚で、彼の名前が書かれたものを見つけた。どうやらミステリーが好きなようだ。夢中で読んでいても、窓から彼らがランニングしているのが見えるとすぐに分かる。慌てて荷物をまとめて教室に帰る。そうすれば廊下で彼と出会えるかもしれないから。

 

 今日も陸上部の練習が始まった。彼がトップ集団で走ってくるのが見えた。図書館のほうなどうかがう様子もなく、全力で走っていく。私はその後ろ姿に見とれてしまう。二周目がやってくる。でも彼は前の集団から離れていた。最近はそうなのだ。前はトップ集団から取り残されることなどなく、いつも先頭を3年生と競い合っていたのに。タイムが落ちたとコーチが嘆いていることも風の噂で聞いた。スランプだろうか。それともあの先輩たちに目をつけられるのが怖いのだろうか。私はいそいそと勉強道具を片付け、彼の三周目ですれ違おうと図書館を出る。出たところでトップ集団がちょうどやってくる。狭い廊下を走っていくので私は入り口から動くことができない。そのまま彼らが走り去るのを横目で眺め、奥の集団を見つめる。遅れて第二集団。もう息も上がって少し苦しそうな人たちが、それでもおいて行かれるまいと必死に走っている。しかしその中にも彼はいなくて、その後ろにはもう走っている人がいないのが分かる。見逃したんだろうか。他の人に隠れていたのかもしれない。残念に思いながら私は教室に向かって歩いた。


 トイレの前に差し掛かった時、男子トイレから物が倒れる音がした。結構大きな響く音で私はびっくりして声が出る。さすがに男子トイレに片付けに行くことはできないので私はそのままトイレの横の自分の教室に戻る。テスト前でもなければ教室に誰かが残っているはずもなく、ただ机と椅子だけが寂しそうに取り残された暗い教室の明かりをつける。自分の机から教科書を取り出しリュックに詰めていると外から話声が聞こえた。人に会いたくない私はクラスの人でないことを祈りながら通り過ぎるのを待つ。男子が2人通りすぎていく。聞き覚えがあるような気がするが思い出せない。同級生だろうか。私は帰る前にトイレに行こうと教室を出た。ドアを開けると先ほどの二人組が奥に歩いていくのが見える。その後ろ姿に私ははっとする。慌ててトイレに走りだす。男子トイレから水が流れる音がする。近づくとなんだか煙草の焦げ臭いにおいがした。男子トイレの洗面台は入り口から鏡越しに見えるようになっている。最初は設計ミスだと思っていたが、今日はそれに感謝だ。

「山本さん!」

 彼が右手の甲を水で洗い流していた。私は嫌な予感がして男子トイレに入る。彼は驚いてこちらを見ると、すぐに左手で右手を隠した。
「ちょっ、横山さん、ここ男子トイレ」
「分かってるよ」
 そう言いながら私は彼の左手を右手から引き離した。痛そうにうめく。右手の甲には黒い丸いあとがあった。
「これ、なに?」
彼はなんて答えようか迷っているようだった。
「さっきトイレから出てきたの、あの日の先輩だよね?何されたの?」
彼は小さく息を吐いて、
「煙草のやけどだよ」
とだけ答えた。彼はまた水で跡を消そうとしている。
「さすがに限界あるよ。保健室行こう」
「ダメだよ。絶対なんか聞かれる」
「でもこのままじゃ痕が残るかもしれないよ」
「いいよ」
彼は蛇口をひねり水を止めた。
「いいよ。残ったら残ったで。遠目で見ればほくろみたいなもんだよ」
彼は諦めたように力なく言った。
「ダメだよ。痕に残したら絶対あと10年後くらいに後悔するよ」
私は彼の目を見て言った。彼はどこか別の遠いところ見ていたので、彼の目に私は写っていないのだと少し悲しくなる。
「ちょっと冷やしながら待ってて」
私はトイレを出て教室に戻りリュックから絆創膏を取り出した。1つちぎってトイレに戻る。
「どうしても嫌なら一旦これで隠す?」
彼は頷いて私の手から絆創膏を取ると裏面のテープをはがす。しかし利き手でない手では上手く貼れないようだ。
私は彼の手から絆創膏を奪う。
「右手だして。ほら」
彼は何も言わず右手を差し出した。彼の手は席から見ていた通り、近くで見てもやはりよく日に焼けていて綺麗だった。思ったより骨ばった広い手の甲に、そこから伸びる細く長い指。その中に1つ。黒く焦げ腫れてきている点。私は先輩たちを許しがたかった。こんな綺麗な手に傷をつけたのだ。許せない。
「はい。ひとまずこれね。多分腫れてくるから覚悟しといてね」
彼は少し怯んだようだったが小さく頷いた。立ち上がりシューズを履きなおすと、練習に戻っていった。
私は彼に触れた手をそっと握る。しゃがみこむ。あぁどうしよう。こんなときでも胸の高鳴りは収まることを知らない。



 次の日私が学校に行くと、彼はもう来ていた。いつも私の方が先なので疑問に思う。彼の席の横を通り過ぎる。その時彼と目が合った。私は挨拶しようと口を開く。
「おは……」
「おっはよー樹くん!」
後ろから柊さんが大きい声で挨拶をする。彼は一瞬こちらを見て戸惑ったあと、柊さんの方を見て、
「おはよう」
と返した。私は気まずくて何も言わず自分の席にそのまま向かう。
最近柊さんと彼が話しているところをよく見かける。柊さんが彼を名前で呼び始めたのも最近だ。
「樹くん、その手どうしたの?」
「怪我した」
「どうやったらそんなとこ怪我するのさ。ドジだね~」
柊さんが笑いながら自分の席に戻る。あぁ、家で家族に聞かれたのかも知れないなと気付く。さすがに息子が手の甲に絆創膏貼って帰ってきたら気付くだろう。親も心配して何か聞いたに違いない。そしたら家だときっと居ずらいのだろう。それにしてもドジとはなんだ。私はなんとなくイラついた。ドジなんかじゃない。好きで傷ついたんじゃない。柊さんのことが嫌いになりそうで、私はトイレに逃げる。私の居場所は教室の自分の席と図書室のお気に入りの勉強スペースとトイレの個室だから、ここがなくなったらトイレしかない。私は人のことが嫌いになりそうな自分が嫌になる。
「自己嫌悪……だなぁ」
私はひとりごちる。
 ポケットに手を入れて四角いケースを取り出す。もし彼の怪我が見えるようだったら上から隠そうとコンシーラーを持って来ていた。でもその必要はなさそうだ。おそらく当分の間、絆創膏で隠し通すつもりだろう。それに汗をかいたらコンシーラーだと落ちてしまうかも知れない。私はまたそっとポケットに戻した。いつかまた訊いてみよう。



 彼らが付き合っていると知ったのは、それから一週間後の7月の頭、もうすっかり入道雲が王者のごとく空にはびこる季節だった。


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