水端ノ獣ノ物語

冴木黒

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幽ケキ祈リ

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「今日はね、お土産があるの」

 そう言って、テラは背中側に回していた手をラムダの前に出した。
 小さな両掌の上に乗っているのは白い塊だ。それは清潔な柔らかい布で包まれた菓子だった。
 干した様々な果物を生地に練りこんで焼いたケーキで、表面にはたっぷりと粉砂糖がまぶされている。

「これ、テラのおやつだろ? 自分で食べなよ」
「私はもう食べたから、お兄ちゃん食べて」

 ケーキも砂糖も、貧しい村の暮らしでは滅多に手に入らないような高価なものだった。そんなものを手にすることができるのは、ここが神殿で、彼女が神子という地位にあるためだ。
 忌み子であるラムダに与えられるのは、せいぜいビスケットか焼いた芋くらいだった。
 勿論それらに不満があるわけではない。村では、そんなものさえ手に入らない日もあった。食うに困ることがないというだけでも、どれほど有難いことか、幼い妹と二人だけで生きてきたラムダは身に染みて理解している。
 けれどテラは知っていたのだろう。神子と忌み子という立場の違いで、待遇が対照的に異なることを。

「ねえ、他に何か欲しいものはない? 困ってることはない? 私、神官長様にお願いしてみる」

 だから毎日のようにラムダの元を訪れ、気にかけてくれたのだろう。
 惨めでないといえば嘘になる。
 それでも、テラが自分の立場になくてよかった。蛇の印を継いだのが自分でよかった。
 あの悪夢のような時間の中、何度も思った。何度も、何度も、何度も。そうでも思わないと、どうにかなりそうだった。

「大丈夫だよ。ありがとう」
「無理しないでね、何かあったらいつでも言ってね」

 彼女が元気で、笑っていてくれるのならば、それでいい。
 それだけがラムダの希望であり、救いでもあった。この場所に存在する意味を、テラがくれた。
 それなのに、

 お兄ちゃん。

 そう呼ぶ声が、笑顔が消えて、全てが失われた気がした。
 暗い天井。皺の寄った寝台のシーツ。そんなものを見つめ続け、耐える日々はいつまで続くのだろう。何のために耐えているのだろう。ただただ、ここでこうして意味のないことを続けて、行方知れずになった大切な人を探しに行くこともできないなんて。自分は一体、何のために生きているのだろう。
 重く圧し掛かってくる闇から背けた目が、ふと立てかけられた剣を捕らえた。
 気が付けば、真っ白だったシーツは赤黒く染まり、自身の手には抜き放たれた剣が握られていた。
 どこか現実感がなく夢のように思えて、ぼんやりしていると、突然笑い声が聞こえてきた。

 アァ、はハはははハハハハハ。
 うまイうマい。久しぶりノ馳走だ。
 もっト寄越せ。モット喰わせロ。

 室内には誰もいない。
 戸惑うラムダを笑う声が再び響く。

 ナァ、お前チカラが欲しクはないか?

「誰!?」

 幻聴かと耳を疑う。
 あるいは悪い夢かと。だが、この手に残る感触も、不快さも、痛みも、生々しい程にはっきりとしている。すぐそこには、動かなくなったモノが転がっている。
 そう、これは現実だ。ついさっき自分はこの手で……
   を した。
 ラムダの思考を遮るように、声は続けて問いかけてくる。

 それトも金か? 女か? 地位か? 名誉か?
 望むモノはなンだ?
 アァ、そうか。自由、なンてぇのはどうだ?

 自由。
 なんと甘美な響きだろう。
 それは、とうの昔に諦めたものだった。もう二度と、この目で空を見ることはできないだろうと思っていた。この足で大地を踏むことはできないだろうと思っていた。太陽の光を、風を感じることはできないだろうと思っていた。
 不意にあの男の言葉が脳裏によみがえった。
 まだ自由がある方なんだぜ?
 そう、そうだ。そうだと思い込んでいた。思い込むようにしていた。自分はまだ恵まれているのだと。
 だが、どうだ。たった一人の大事な妹がいきなり姿を消して、何の言い置きもなく、連絡もなく、心配で心配で、それなのに探しに行くこともできず彼女が再び戻るのを待つだけだなんて。妹を探しに行きたい。無事を知りたい。ただそれだけのことを望むのも許されないだなんて、何が自由だ。
 もしも外に出られるなら、

「テラ……」

 こんなところで何もできないで、もどかしい思いをするばかりの無意味な日々を過ごすこともない。

「テラを、妹を探したい……」

 見つけ出して、無事を確認できたら、そうしたらもう、他に何もいらない。
 ラムダの望みは、妹の幸せ。それだけだ。
 そのためになら、なんだってする。
 シーツに染み込んだ赤黒いものが、煙か靄のように空中に立ち上ったかと思うと、小さく細く凝縮し、何かを形作った。うねる細長い体と、二つの光る赤、影絵のような見た目のそいつが言う。

「イイぜェ、ガキ。テメェに力を貸してヤる。ケド、今はオレもこのザマだ。タダじゃア動けねェ」
「どうすればいいの?」
「血を寄越せ、もット、もッとだ!」

 虚ろな目で手元を見る。既に濡れた刃がそこにあった。
 柄を握る。迷いはなかった。行く手を阻むものは、皆斬り捨てた。
 熱い血が降り注ぐ度、声が喜んだ。

「いいぞ、もっとヤれ、もっト殺セ! こんなンじゃ全然足りネェぞ!」

 自分の体ではないみたいだった。こんなに俊敏に、こんなに力強く動くのが信じられなかった。相手の動きが遅く感じる。太刀筋が見える。
 躱すのも受け止めるのも容易だ。

「ハァハハハハハハッ! いいねェ、飼い犬に手ヲ噛まれテ、怖れ慄キながら死んでイく! 何とも無様で愉快じゃねェか! なァ? オイ、おい、待てよ、なンで今見逃シた? 殺さなかッた? アァ?」

 声が咎めたのは、通路の端で震えていた神官と見習いの子供たちのことだった。
 蹲る見習いの子供たちを両腕に抱え、「どうか子供たちだけは」と必死に訴えるのを見て、ラムダは何もせずに通り過ぎたのだ。

「邪魔をしないなら、別に構わない」
「へエェ、何とモお優しいことで! だガな、こッちは血がもっとタっぷりと必要なンだ! そんナ甘っちょロいこと言っテてどうスル? テメェはテメェの望ミを叶えたイんだろう? 覚悟が足りテねぇんジャねぇか?」
「……」

 ラムダはぴたりと足を止める。
 くくくと喉で笑う音がする。

「そうだ、戻レ。戻ッて殺セ。さっきノ奴らも、他の奴ラもみンなみんな殺シてしマえ!」

 あいつらはテメェを虐げてきた。あいつらは見て見ぬふりをした。あいつらはそれが当然のことだと決めつけてきた。
 情けをかける必要なんてどこにある?
 煽る言葉は止まない。
 ところが、ラムダが向かったのは先刻の神官と子供たちのいる場所ではなかった。
 神殿の外でもない。
 奥へ、奥へ。塔の螺旋階段へ。

「オイ、待てテメェ一体どコに……」
「ねえさっきの姿、蛇だよね? 君もしかして神話に出てくる神様?」
「アァ? そりゃ人間が勝手に言ってルことだろ。オレは神なンかじゃネぇ」
「でも、そう言い伝えられるだけの力があるってことだよね」

 一段また一段とラムダは階段を上がりながら言う。

「だったらさ、            」

 階下から騒々しい物音が響く。
 ラムダは走りながら、今は姿の見えない味方に言った。

「バカか メェ、何  て    サか      ェだ うなッ!  はどう  ダよ!」
「  は探す。この で  を  できたら れで。だ らそれ  、 の を に  るよ」
「オ  せ、やメ !」

 声が遠くなっていく。
 目の前が真っ黒に塗りつぶされる。

「おイ、オイ!」

 乱暴な響きの声が、今度はハッキリと聞こえた。
 そうして夢を見ていたのだと気づく。

「いツまで寝てンだ! いい加減に起きやがレ!」
「ヘビ……」

 呟き、ラムダは半身を起こす。
 掛けられていた大きな布にはあちこちに固まった血がついている。脇には丁寧に折りたたまれた服があった。
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