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どうしようもなく、もどかしいこと
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「時間って?」
ルフスの疑問に、クロエが答えた。クロエは隣を歩きながら口ずさむ。
「まんまるお月さまが輝く夜には、金色にかがやく橋がかかるから、みんな水辺にやってくる」
「この地方に伝わる民話じゃよ。満月の夜には冥界に続く道が現れるという言い伝えがあってな」
「え?」
クロエの歌に、長老の声が続く。
木々が途切れ、視界が開けると同時に眩い光が飛び込んできた。
そこは目的地である湖だった。光の正体は満月だ。夜空に浮かぶ丸い月は、それこそここは異界ではないかと思うほどの大きさだった。
「お兄ちゃん」
クロエがルフスの服の裾を引っ張る。
彼女は服のポケットから何かを取り出すと、しっかりと握った拳をルフスに向かって伸ばしてきた。
「お母さんたちの所に連れてきてくれてありがとう。これあげる」
広げたルフスの両掌には可愛らしい包み紙の飴玉が一つ落とされた。優しい色合いの黄の紙に小さなピンクの花模様がいくつも描かれていた。
「クロエだめ」
首を傾げるクロエに、彼女の母親がルフスの手から飴玉を取り上げ、諭すように言った。
「こちら側の食べ物を口にしたら、この方は本来あるべき場所に戻れなくなってしまう」
「なら大丈夫よ。だってそれ、中身はただのおもちゃだもの」
「え?」
「貸して」
クロエは母親からそれを取り戻すと、包み紙を開いて中を見せる。
「ほら」
包み紙の中から出てきたのは、青いガラス玉だった。それを指で摘まみ上げて、くるりと回転させる。
「綺麗でしょ。あたしの宝物」
「そんな大事なものもらえないよ」
「いいの。だってどんなに大切なものでも、持って行くことはできないから」
クロエはルフスの手に包み紙と一緒にガラス玉を握りこませると、母親の手を取った。
頃合いを見計らったように、長老が言う。
「さあ、そろそろじゃよ」
集まった村人たちは皆一様に湖に視線を向けていた。
夜の闇に漆黒に染まった湖面には、月が映りこんでキラキラと光を反射している。そこからゆらりと何かが立ち上り、空気が歪んだように見えて、ルフスは拳で瞼をこすった。
見間違えなどではなかった。
水面から立ち上る靄が上空の月を隠してしまうほどの巨大な影となって湖の上に現れたのだ。
もたげられた頭と長くうねる体。それは大蛇に似ていた。
村人たちが恐怖に立ち尽くし、息を呑み、悲鳴をあげる。
「落ち着け皆、これはただの幻影じゃ!」
言い放ったのは長老だ。
彼は髭に覆われた顎を撫ぜながら、ふうむと呟く。それから背後のルフスを振り返った。ルフスは怯むことなく、ただ化け物の影を見上げていた。
ひたと睨み据える瞳。光る赤。
「まさか……」
長く伸びた眉の下で老爺は目を瞠る。
「そうか、だから灰塵と化していたはずの念が呼び起こされ集まったか」
ルフスは静かにその名を呟く。光が渦を巻き、その中から現れた剣の柄を握る。
怯え、恐慌状態にある人々の目に、ルフスはまさに救世主のように映った。
長老はその姿を目に焼き付けながら、静かに語り始めた。
「大昔、この湖は化け物が棲みついていた。長く滑る体と、毒の牙。蛇に似たその化け物は元々冥界を支配する神だったが、禁忌を犯したことで化け物となりさがり、地上に落とされた」
ルフスは剣を手に、ゆっくりと歩き出す。
「そいつは人の魂が好物でな、あの世に向かうためこの地に集まる魂を食らっていたそうだ。だが、そこに現れたのが勇敢な一人の人間だ。聖なる剣を操る男だった」
男の名は、ロッソ。
ルフスは湖のほとりに立ち、化け物を見上げながら言う。
「お前は、あの人の力によって消滅したはずだろう」
ならば、これは幻に過ぎない。この地に残る憎しみ恨む思いが、記憶を呼び起こした実体のない影だ。そこに思考や意思はない。
ロッソが化け物を退治したのは、五百年以上も昔。
「何百年もそんな気持ちを抱え続けるのは、しんどかっただろ?」
ルフスは頭上に剣を掲げる。
光の剣。
闇を切り裂き、邪を打ち砕く。
それなら闇に染まった想いをも。
「今度こそ安らかに眠れ」
振り下ろされた剣から白い光が発せられ、化け物の巨大な影を包み込んだ。
それはふくらみを帯びた球体になったかと思うと、上部中心から割れて開かれる。湖面に咲いた白い花は、しかし月光に淡く儚く溶けて消えてゆく。
美しい光景に、その場にいた誰もが心が洗われるような気持ちで見入った。
「見ろ」
誰かが言った。
静寂に満ちた湖の向こう岸に見える月。その月の光が、まるで道のように湖面に真っ直ぐに伸びていた。
「行かなくちゃ」
「クロエ、あんたたちは……」
ルフスは村人たちを見渡して、言葉に詰まる。
この手のことに疎いルフスも、もう理解してしまった。
ここはいわゆる別の層であり、だからこそこうして触れ合うことができるのだということ。そして、彼らの存在は自分とは異なること。
でも、だって、そんなこと……ひとつの村の人間がこんなに一度に?
わかっている。きっと何かがあったんだ。良くないことが。
でもクロエなんてまだこんなに小さいのに。
いや、ちがう。たとえどれだけ老いた人間であっても、それはやはり心が痛む出来事だ。
死という現象は。
誰もがいずれ必ず訪れることであったとしても。
「さよなら」
皆口々に言って光の道を歩み始める。
呆然とするルフスの傍らを、母親に手を引かれたクロエが通り過ぎる。
「またね、お兄ちゃん。今度会うのはきっと、もっとずっと後」
ルフスは村人たちが全員、無事に光の道を渡り切るのを最後まで見守った。
そうすることしか、できなかった。
ルフスの疑問に、クロエが答えた。クロエは隣を歩きながら口ずさむ。
「まんまるお月さまが輝く夜には、金色にかがやく橋がかかるから、みんな水辺にやってくる」
「この地方に伝わる民話じゃよ。満月の夜には冥界に続く道が現れるという言い伝えがあってな」
「え?」
クロエの歌に、長老の声が続く。
木々が途切れ、視界が開けると同時に眩い光が飛び込んできた。
そこは目的地である湖だった。光の正体は満月だ。夜空に浮かぶ丸い月は、それこそここは異界ではないかと思うほどの大きさだった。
「お兄ちゃん」
クロエがルフスの服の裾を引っ張る。
彼女は服のポケットから何かを取り出すと、しっかりと握った拳をルフスに向かって伸ばしてきた。
「お母さんたちの所に連れてきてくれてありがとう。これあげる」
広げたルフスの両掌には可愛らしい包み紙の飴玉が一つ落とされた。優しい色合いの黄の紙に小さなピンクの花模様がいくつも描かれていた。
「クロエだめ」
首を傾げるクロエに、彼女の母親がルフスの手から飴玉を取り上げ、諭すように言った。
「こちら側の食べ物を口にしたら、この方は本来あるべき場所に戻れなくなってしまう」
「なら大丈夫よ。だってそれ、中身はただのおもちゃだもの」
「え?」
「貸して」
クロエは母親からそれを取り戻すと、包み紙を開いて中を見せる。
「ほら」
包み紙の中から出てきたのは、青いガラス玉だった。それを指で摘まみ上げて、くるりと回転させる。
「綺麗でしょ。あたしの宝物」
「そんな大事なものもらえないよ」
「いいの。だってどんなに大切なものでも、持って行くことはできないから」
クロエはルフスの手に包み紙と一緒にガラス玉を握りこませると、母親の手を取った。
頃合いを見計らったように、長老が言う。
「さあ、そろそろじゃよ」
集まった村人たちは皆一様に湖に視線を向けていた。
夜の闇に漆黒に染まった湖面には、月が映りこんでキラキラと光を反射している。そこからゆらりと何かが立ち上り、空気が歪んだように見えて、ルフスは拳で瞼をこすった。
見間違えなどではなかった。
水面から立ち上る靄が上空の月を隠してしまうほどの巨大な影となって湖の上に現れたのだ。
もたげられた頭と長くうねる体。それは大蛇に似ていた。
村人たちが恐怖に立ち尽くし、息を呑み、悲鳴をあげる。
「落ち着け皆、これはただの幻影じゃ!」
言い放ったのは長老だ。
彼は髭に覆われた顎を撫ぜながら、ふうむと呟く。それから背後のルフスを振り返った。ルフスは怯むことなく、ただ化け物の影を見上げていた。
ひたと睨み据える瞳。光る赤。
「まさか……」
長く伸びた眉の下で老爺は目を瞠る。
「そうか、だから灰塵と化していたはずの念が呼び起こされ集まったか」
ルフスは静かにその名を呟く。光が渦を巻き、その中から現れた剣の柄を握る。
怯え、恐慌状態にある人々の目に、ルフスはまさに救世主のように映った。
長老はその姿を目に焼き付けながら、静かに語り始めた。
「大昔、この湖は化け物が棲みついていた。長く滑る体と、毒の牙。蛇に似たその化け物は元々冥界を支配する神だったが、禁忌を犯したことで化け物となりさがり、地上に落とされた」
ルフスは剣を手に、ゆっくりと歩き出す。
「そいつは人の魂が好物でな、あの世に向かうためこの地に集まる魂を食らっていたそうだ。だが、そこに現れたのが勇敢な一人の人間だ。聖なる剣を操る男だった」
男の名は、ロッソ。
ルフスは湖のほとりに立ち、化け物を見上げながら言う。
「お前は、あの人の力によって消滅したはずだろう」
ならば、これは幻に過ぎない。この地に残る憎しみ恨む思いが、記憶を呼び起こした実体のない影だ。そこに思考や意思はない。
ロッソが化け物を退治したのは、五百年以上も昔。
「何百年もそんな気持ちを抱え続けるのは、しんどかっただろ?」
ルフスは頭上に剣を掲げる。
光の剣。
闇を切り裂き、邪を打ち砕く。
それなら闇に染まった想いをも。
「今度こそ安らかに眠れ」
振り下ろされた剣から白い光が発せられ、化け物の巨大な影を包み込んだ。
それはふくらみを帯びた球体になったかと思うと、上部中心から割れて開かれる。湖面に咲いた白い花は、しかし月光に淡く儚く溶けて消えてゆく。
美しい光景に、その場にいた誰もが心が洗われるような気持ちで見入った。
「見ろ」
誰かが言った。
静寂に満ちた湖の向こう岸に見える月。その月の光が、まるで道のように湖面に真っ直ぐに伸びていた。
「行かなくちゃ」
「クロエ、あんたたちは……」
ルフスは村人たちを見渡して、言葉に詰まる。
この手のことに疎いルフスも、もう理解してしまった。
ここはいわゆる別の層であり、だからこそこうして触れ合うことができるのだということ。そして、彼らの存在は自分とは異なること。
でも、だって、そんなこと……ひとつの村の人間がこんなに一度に?
わかっている。きっと何かがあったんだ。良くないことが。
でもクロエなんてまだこんなに小さいのに。
いや、ちがう。たとえどれだけ老いた人間であっても、それはやはり心が痛む出来事だ。
死という現象は。
誰もがいずれ必ず訪れることであったとしても。
「さよなら」
皆口々に言って光の道を歩み始める。
呆然とするルフスの傍らを、母親に手を引かれたクロエが通り過ぎる。
「またね、お兄ちゃん。今度会うのはきっと、もっとずっと後」
ルフスは村人たちが全員、無事に光の道を渡り切るのを最後まで見守った。
そうすることしか、できなかった。
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