婚約破棄された令嬢は、もう誰の答えも借りません

鷹 綾

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第8話 聖女の奇跡が、起きなくなった日

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第8話 聖女の奇跡が、起きなくなった日

 隣国の街で迎える午後は、穏やかだった。
 宿の窓から差し込む陽光は柔らかく、遠くで鐘の音が鳴っている。

 私は机に向かい、これまでの出来事を静かに思い返していた。

 数字が崩れ、外交が滞り、そして次に来るもの。
 それは、あの国において“象徴”とされていた存在――聖女だ。

 王国では、聖女リュミエールが「奇跡」を起こすことで、国民の信頼を集めてきた。
 病を癒し、天候を和らげ、神の加護を示す存在。

 だが、私は知っている。
 あの奇跡の多くが、事前準備と調整の上に成り立っていたことを。

 祈祷の日時。
 人の集め方。
 必要な物資の配置。
 起きうる失敗への対処。

 それらを整えていたのは、聖女本人ではない。
 そして、その裏方に、私がいた。

 今、私はもういない。

 その事実が、どのような結果を招くのか。
 答えは、ほどなくして現れた。

 王宮では、その日、重要な祈祷が予定されていた。

 干ばつに悩む地方からの嘆願を受け、王都で大規模な祈りの儀式を行う。
 多くの民が集まり、王太子も列席する。

「聖女様、本日はよろしくお願いいたします」

 神官の言葉に、リュミエールは自信ありげに頷いた。

「ええ。神は、常に私と共にありますわ」

 その笑顔は、揺るぎないものに見えた。
 少なくとも、本人はそう信じている。

 だが、準備は不十分だった。

 本来なら、事前に現地の状況を調査し、祈祷に適した内容へと調整する。
 民の期待が過剰にならないよう、発言の一言一句にも注意を払う。

 そうした細やかな配慮が、今回はなかった。

 祈祷が始まる。

 静寂の中、聖女が祈りの言葉を紡ぐ。
 人々は息を潜め、空を見上げた。

 だが――何も起こらない。

 風は吹かず、雲も動かず、ただ時間だけが過ぎていく。

「……?」

 ざわめきが広がる。

 神官たちが視線を交わし、王太子が眉をひそめる。

 リュミエールの額に、わずかに汗が滲んだ。

「……本日は、神のご意思が静かなようですわね」

 彼女はそう言って微笑もうとした。

 だが、民の表情は変わらない。
 期待と不安が入り混じり、疑念が生まれ始めている。

「前は、雨が降ったのに」

「奇跡は、どうした?」

 小さな声が、確実に広がっていく。

 王太子は慌てて前に出た。

「皆、落ち着いてほしい。
 奇跡はいつでも起きるものではない」

 その言葉は、逆効果だった。

 これまで、当たり前のように起きていたものが、急に起きなくなった。
 その理由を、人々は求め始める。

 祈祷は、重苦しい空気のまま終わった。

 王宮に戻った後、執務室では緊急の会合が開かれる。

「どういうことだ!」

 王太子の声が響く。

「なぜ、奇跡が起きなかった!」

「……その……準備が……」

「準備だと?
 聖女の祈りに、準備が必要だというのか!」

 誰も答えられない。

 本来なら、ここで誰かが冷静に状況を整理し、説明案を提示していた。
 だが、その役割を担っていた人物は、もういない。

 リュミエールは、唇を噛みしめていた。

 これまで、うまくいっていた。
 自分は選ばれた存在で、奇跡は当然のように起きるものだと信じていた。

 だが、現実は違った。

 その日の夜、王都には噂が流れ始める。

「聖女様、力を失ったのでは?」

「本物ではなかったのでは?」

 小さな疑念は、やがて大きな不安へと変わっていく。

 私は、その話を、隣国の商人から間接的に聞いた。

「王国の聖女が、奇跡を起こさなかったそうですよ」

「そう」

 それだけ答え、私は視線を落とす。

 胸の奥に、わずかな感慨が湧いた。
 だが、それは復讐心ではない。

 ただ、当然の結果だと思っただけだ。

 奇跡とは、信仰と準備と状況が重なって初めて成立する。
 それを支える仕組みを、軽んじた末路。

 王宮では今、
 数字が狂い、外交が滞り、そして信仰までもが揺らぎ始めている。

 私は静かに窓の外を見つめた。

 もう、戻る場所ではない。
 そして、助けを求められても、すぐに手を差し伸べるつもりもない。

 聖女の奇跡が起きなくなった日。
 それは、王国が“象徴”を失い始めた瞬間だった。

 崩壊は、まだ始まったばかりである。
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