婚約破棄された公爵令嬢ですが、戻らなかっただけです

鷹 綾

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第十話 奪われた部屋

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第十話 奪われた部屋

別邸は、静かだった。

広くもなく、華やかでもない。
けれど、空気は澄んでいる。

「お部屋はこちらになります」

案内された部屋は、簡素だが整っていた。

窓は小さく、庭も質素。
本邸とは比べものにならない。

けれど――息がしやすい。

「ありがとうございます」

侍女は一礼し、すぐに去った。

本邸から連れてきた使用人は、最小限だ。

わたくしの“価値”も、最小限ということなのだろう。


---

夜。

机に向かい、持ってきた帳簿を広げる。

灯りは控えめ。

けれど十分だ。

ページをめくる。

王家との共同事業の収支。
公爵家名義の契約。
殿下の署名。

すべて、ここにある。

指先で紙をなぞる。

奪われたのは部屋であって、これではない。

コンコン、と扉が叩かれる。

「入ってちょうだい」

現れたのは、屋敷の老執事だった。

「本邸より、お荷物が届いております」

箱がいくつか運び込まれる。

開けると、衣類や本。

そして。

割れた茶器。

母の形見の一つ。

「……」

破片が布に包まれている。

「申し訳ございません。搬送中の事故と」

事故。

本当に?

それとも。

「構いません」

静かに答える。

怒る理由はない。

わざとだとしても、証明はできない。

執事は深く頭を下げる。

「本邸では……その……」

「何か?」

「セシリア様のお部屋が改装されました」

胸が、ひとつだけ強く打つ。

「王太子妃候補として、ふさわしい仕様に」

つまり。

わたくしの部屋は、もう存在しない。

奪われただけでなく、上書きされた。

「そう」

それだけ。

執事は去る。

部屋は再び静かになる。


---

翌日。

本邸から届いた追加の荷物を整理していると、小さな包みが出てきた。

見覚えのある布。

開けると、わたくしの古い日記帳だった。

子どもの頃のもの。

ページをめくる。

“王太子妃になったら、公爵家を誇りに思ってもらえるように頑張ります”

幼い字。

無邪気な願い。

胸の奥が、ほんの少しだけ痛む。

その夢は、もう終わった。

いや。

終わらされた。


---

午後。

本邸から使者が来る。

「セシリア様より、お言葉を」

「何かしら」

「お部屋の家具はそのまま使用させていただく、と」

一瞬、言葉の意味を測る。

あの部屋。

あの机。

あの窓辺。

「お姉様の残り香があると安心できますわ、と」

その一言で、すべてが理解できる。

奪う。

使う。

上書きする。

それが彼女のやり方。

「好きにすればいいわ」

使者は戸惑いながらも去る。

部屋に一人になる。

窓の外は曇り空。

奪われた部屋。

奪われた立場。

奪われた未来。

けれど。

奪われなかったものもある。

わたくしの頭の中。

契約の詳細。

取引先との信頼。

帳簿の意味。

セシリアは、部屋を使うだろう。

ドレスを広げ、鏡の前で微笑むだろう。

けれど。

その机の引き出しに、何があったのか。

そこに何が保管されていたのか。

知らない。

知らないまま、座る。

椅子は同じでも。

座る者が違えば、意味も違う。

わたくしは破片になった茶器を布で包み直す。

壊れた。

けれど、すべてではない。

奪われた部屋は、もう戻らない。

戻すつもりもない。

その代わりに。

失われた重みが、誰にのしかかるのか。

静かな別邸で、ページを閉じる。

嵐は、まだ遠い。

けれど。

確実に近づいている。

そしてそのとき。

奪われたのは、どちらになるのだろう。
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