婚約破棄された公爵令嬢ですが、戻らなかっただけです

鷹 綾

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第十七話 届かない手

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第十七話 届かない手

王宮の執務室は、夜になっても灯りが消えなかった。

机の上に広がる書類。
未処理の報告。
赤い印がついた未承認の契約書。

カイルはこめかみを押さえる。

「なぜ、こうなる……」

北方商会は回答を保留。
南部港は出荷を減速。
東部の織物業者までもが条件の再確認を申し出ている。

一つ一つは小さい。

だが、積み重なれば重い。

「殿下」

側近が静かに声をかける。

「……何だ」

「リュシエンヌ様に正式な依頼を出しては」

一瞬、空気が凍る。

「今さらか」

「結果が必要です」

カイルは黙る。

王の言葉が、頭の奥で響く。

結果を出せ。

「……」

誇りが邪魔をする。

自分で切った婚約。

自分で選んだ未来。

それを覆すような行動。

「依頼書を用意しろ」

低い声。

側近が安堵の息をつく。

「ただし、あくまで公爵家への要請だ」

名前は出さない。

直接は言わない。

それでも、手を伸ばす。

届くかどうかは、分からない。


---

翌日、別邸。

公爵家宛ての正式文書が届く。

「王家より、再協力の要請でございます」

侍女が慎重に差し出す。

わたくしは封を切る。

文面は丁寧。

だが、核心には触れない。

“公爵家の助力を求む”。

誰の名も書かれていない。

わたくしは静かに書簡を閉じる。

「父は何と?」

「ご判断はお嬢様に委ねると」

当然だ。

実務を担っていたのは、わたくし。

庭に目を向ける。

風が少し強い。

「条件を提示するわ」

侍女が目を丸くする。

「条件、でございますか」

「ええ。契約は対等」

感情では動かない。

恩も、情も。

「王家は“公爵家”に頼ったのよ」

ならば、形式も整える。

わたくしは机に向かい、返書を書く。

“実務責任者の明示”。
“交渉権限の保証”。
“今後の独立裁量の承認”。

穏やかな文面。

だが、内容は明確。

曖昧な立場では動かない。


---

王宮。

返書が届く。

カイルはそれを読み、沈黙する。

「……」

条件は正論。

拒否すれば、助力は得られない。

受け入れれば、事実上の再登用。

だが。

それは敗北の承認に等しい。

「殿下?」

セシリアが不安げに覗き込む。

「難しい話ですの?」

「……いや」

彼は書簡を折りたたむ。

届かない手。

伸ばしたはずなのに、指先が触れない。

「彼女は戻らない」

ぽつりと呟く。

「お姉様は……」

セシリアの声が揺れる。

カイルは視線を逸らす。

「彼女は変わった」

いや。

変わったのは自分かもしれない。

以前は、当たり前に隣にいた。

何も言わず、整えていた。

それがどれほど大きな支えだったか。

今になって、重さを知る。

「どうなさいますか」

側近が問う。

カイルはゆっくりと息を吐く。

「……受け入れる」

小さな声。

だが、それが現実。

誇りより、結果。

王の視線は鋭い。

「ただし、形式は守る」

あくまで王太子の体裁は崩さない。

それが精一杯の抵抗。


---

別邸。

王家が条件を受け入れたと報せが届く。

わたくしは紅茶を口にする。

「早かったわね」

「お嬢様のお力を必要としておられるのです」

侍女が微笑む。

わたくしは首を振る。

「わたくしではない」

公爵家の力。

そして。

信頼の力。

戻るのではない。

支えるのでもない。

対等に立つ。

それが、条件。

窓の外で風が鳴る。

届かなかった手。

けれど。

届かせるには、代償がいる。

彼は払った。

誇りの一部を。

そして、わたくしは受け取る。

立場を。

裁量を。

もう、隣ではない。

向かい合う位置で。

それが、今の距離。

静かな距離。

けれど。

確実に変わった距離。
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