働かないつもりでしたのに、気づけば全部うまくいっていました ――自由に生きる貴族夫人と溺愛旦那様』

鷹 綾

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第32話「それでも、私は働かない」

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第32話「それでも、私は働かない」


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 朝の光が、カーテン越しに差し込んでいた。

 セーラはベッドの中で、しばらく天井を見つめていた。

 ――起きなくていい。

 そう思える朝が、こんなにも心地よいとは思わなかった。


---

 「奥様、朝でございます」

 控えめなノックのあと、メイドの声が響く。

 「……起きます」

 セーラはそう答えながら、ゆっくりと身を起こした。

 以前の彼女なら、同時に頭の中で予定が回り始めていたはずだ。

 ギルドの会合。  帳簿の確認。  突発的な相談。

 だが――今は違う。


---

 朝食の席。

 リチャードは、すでに書類を閉じていた。

 「今日は、何か予定があったか?」

 「……いいえ」

 セーラは即答した。

 「本当に、何もありませんわ」

 「そうか」

 彼は満足そうに頷く。


---

 沈黙が、気まずくない。

 それどころか、落ち着く。

 この静けさを、セーラは以前なら「空白」と感じていただろう。

 だが今は――。

 **“余白”**だと思える。


---

 午前中。

 セーラは、庭の散策をしていた。

 花の手入れをしている庭師が、深々と頭を下げる。

 「奥様、最近は特にご指示がなくとも、助かっております」

 「……そうですの?」

 「はい。基準が明確ですので」

 セーラは、足を止めた。

 「基準?」

 「ええ。
 “判断に迷ったら、現場に最善を考えさせる”
 それが奥様の方針ですから」


---

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 彼女は命令していない。  管理も、指示もしていない。

 ただ「考え方」を残しただけだ。


---

 昼。

 商人ギルドから、簡潔な報告書が届く。

 〈各部門、問題なく稼働中〉

 追伸も、相談もない。

 セーラは、思わず小さく笑った。

 「……私、本当にいらなくなりつつありますわね」


---

 「それは違う」

 背後から、リチャードの声がした。

 「“いなくてもいい”状態を作れる人間ほど、
 本当は一番必要とされている」

 セーラは、振り返る。

 「でも、誰も呼びませんわ?」

 「それでいい」

 彼は、静かに言った。


---

 「君は、問題が起きたときの“最後の安心”だ」

 「誰も、常に救急箱を持ち歩きはしない」

 「だが、置いてあるだけで安心する」


---

 セーラは、その言葉を噛み締めた。


---

 午後。

 屋敷の応接室で、貴族の夫人が訪ねてきた。

 「最近、お忙しそうだと聞いていましたのに……」

 「いいえ」

 セーラは、微笑む。

 「最近は、ほとんど何もしていませんわ」

 相手は、目を瞬いた。

 「……それで、すべてが回っているのですか?」

 「ええ」

 セーラは、紅茶を差し出しながら答えた。

 「“何もしない”ことを、徹底しましたから」


---

 相手は、しばらく黙り込み――やがて苦笑した。

 「それが、一番難しいのですわね」

 セーラは、頷いた。

 「ええ。とても」


---

 夜。

 書斎で、リチャードと並んで紅茶を飲む。

 灯りは柔らかく、外は静かだ。


---

 「……旦那様」

 「なんだ?」

 「私、やっと分かりましたわ」

 「何を?」


---

 セーラは、静かに言った。

 「“働かない”って、怠けることじゃないんですね」

 「“手を出さない勇気”のことでした」


---

 リチャードは、深く頷いた。

 「君は、前世で“働きすぎた”」

 「だから今世では、その反動があった」


---

 「でも」

 セーラは、少しだけ笑う。

 「結局、私は“考えること”をやめられませんでした」

 「だから――」


---

 彼女は、窓の外を見つめた。

 「これからも、私は働きません」

 「ただし」

 「必要なときだけ、立ち上がりますわ」


---

 リチャードは、彼女の手をそっと握る。

 「それでいい」

 「君が選んだ“働かない生き方”だ」


---

 セーラは、心の底から思った。

 何もしない毎日は、
 誰かに任せる覚悟の積み重ねなのだと。

 そして――
 それを選べる自分になれたことを、誇りに思った。


---

 働かないつもりが、
 いつの間にか“何もしなくても回る世界”を作っていた。

 それが、セーラという女性の到達点だった。
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