婚約破棄された令嬢ですが、判断を急がない領地改革を始めました

鷹 綾

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第3話 失われた価値

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第3話 失われた価値

 王宮を離れてから、わずか三日。
 それだけの時間で、私――エミリア・ノルトの立場は、驚くほどはっきりと変わった。

 変わった、というよりも。
 「消えた」と言った方が、正しいのかもしれない。

 ノルト公爵家へ戻るための準備は、想像以上に静かだった。
 かつては私の動向一つで慌ただしく動いていた侍従や役人たちは、今や必要最低限の対応しかしない。礼儀は保たれているが、その奥にあった緊張感や敬意は、まるで霧が晴れるように消えていた。

「……これが、肩書きを失うということなのね」

 王太子妃候補。
 その名が持つ重さを、今になって思い知らされる。

 私は馬車に揺られながら、王都の街並みを眺めていた。
 いつもと変わらない風景。行き交う人々。露店の呼び声。
 けれど、そのすべてが、少しだけ遠く感じられた。

 馬車が止まったのは、王都の外れにある、貴族向けの宿舎だった。
 ノルト公爵領へ向かうための中継地点として、私が一時的に滞在する場所だ。

 荷物を運び入れると、私は簡素な応接室へ通された。
 ほどなくして、見覚えのある顔が現れる。

「……エミリア様」

 そう声をかけてきたのは、王宮財務局に所属する若い官吏――ロベルトだった。
 かつて、私の指示を受けて動いていた一人である。

「ご無沙汰しております」

 彼はそう言いながらも、視線を合わせようとしない。
 以前なら、私を見る目には緊張と尊敬が入り混じっていたはずだ。

「こちらこそ。何か用事かしら?」

「いえ、その……」

 言い淀む彼の様子に、私はすぐ察した。

「財務関係の引き継ぎ?」

「……はい」

 彼は、ためらいがちに書類の束を差し出した。

「王太子殿下より、至急確認をとのことで……。エミリア様が作成された予算配分案について、少々、問題が……」

 私は書類を受け取り、目を通す。
 ――数字がずれている。
 しかも、初歩的な計算ミス。

「これは……」

「私も確認したのですが……どうしても辻褄が合わず……」

 彼の声には、焦りが滲んでいた。

「この案は、私が最終調整を行う前の下書きです」

「え……?」

「最終版は、別に存在するはずよ。財務局に提出した正式文書を、確認して」

 ロベルトの顔色が変わる。

「……そ、そんな……。提出されているのは、こちらの書類のみで……」

 その瞬間、すべてを理解した。

 ――私が去った後、誰も最終確認をしていない。

 あの予算案は、表に出ることを前提としたものではなかった。
 複数案を比較検討するための途中段階。その意味を、理解していた者は――私しかいなかったのだ。

「王太子殿下は……このまま進めるおつもり?」

「はい。すでに承認されたと……」

 私は、そっと息を吐いた。

「ならば、必ず問題が起きるわ」

「……やはり、そうですよね」

 ロベルトは、苦しそうに表情を歪めた。

「エミリア様がいなくなってから……財務局は、正直、混乱しています。確認役がいなくて……」

 彼は言葉を選びながら続ける。

「殿下は、『あれくらい誰にでもできる仕事だ』と……」

 私は、苦笑した。

「そう。なら、誰にでもできるのでしょうね」

 その言葉に、ロベルトは何も返せなかった。

 しばらく沈黙が流れた後、彼は深く頭を下げた。

「……ご無礼を承知で申し上げます。エミリア様がいなくなって、初めて分かりました」

「何を?」

「私たちは……どれほど、多くのことを、当然のようにエミリア様に任せていたのかを」

 その言葉は、私の胸に、静かに落ちた。

 怒りは、なかった。
 誇らしさも、ない。

 ただ、淡々とした事実として受け止めるだけだ。

「気づいたのなら、それで十分よ」

「ですが……!」

「私はもう、王宮の人間ではありません」

 そう告げると、ロベルトは唇を噛みしめた。

「……失礼いたしました」

 彼が去った後、応接室には静けさが戻った。

 ――失われた価値。

 それは、私が失ったものではない。
 王宮が、自ら手放したもの。

「……本当に、分からないものね」

 人は、失ってからでなければ、気づけない。

 そして、もう一つ。
 この三日間で、私のもとには、いくつかの“視線”が届いていた。

 直接声をかけてくる者はいない。
 けれど、どこかで、誰かが――私の動向を探っている気配。

 王宮ではない。
 貴族社会の、別の場所。

「……さて」

 私は立ち上がり、窓の外を見た。

 遠くに見える街道の先。
 そこに、私の次の居場所がある。

 まだ名前も知らない人物。
 けれど――

 私の“価値”を、正しく見抜く者。

 それが、もうすぐ現れる。
 そんな予感だけが、静かに胸に宿っていた。
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