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第5話 冷酷公爵の視線
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第5話 冷酷公爵の視線
ノルト公爵領へ向かう街道は、王都から離れるにつれ、次第に人の気配が薄れていった。
馬車の揺れは一定で、車輪が地面を踏みしめる音だけが、静かに耳へ届く。
私は膝の上で書類を広げていた。
王宮を出る際、無意識のうちに持ち出していたものだ。財務や行政に関する覚書――もはや私の役目ではないはずのもの。
「……つい、癖で」
苦笑し、書類を閉じる。
けれど、文字を追うことで心が落ち着くのも事実だった。
馬車が大きく揺れ、速度を落とす。
外から、低い声が聞こえた。
「ここで少しお待ちください」
御者の声に応じ、私は窓から外を窺う。
街道の先に、騎士たちの一団が道を塞ぐように立っていた。
――検問?
そう思った瞬間、胸の奥に、あの感覚が蘇る。
王都を発った朝、確かに感じた“値踏みの視線”。
馬車の扉が開き、騎士が一礼した。
「ノルト公爵令嬢エミリア・ノルト様でいらっしゃいますね」
「……そうですが」
名を告げると、騎士は一歩下がり、後方へ視線を送る。
次の瞬間、空気が変わった。
騎士たちの列の中央から、一人の男が前へ出てくる。
背は高く、無駄のない立ち姿。黒を基調とした外套が、彼の存在感をさらに際立たせていた。
顔立ちは整っている。
けれど、温度を感じさせない眼差しが、すべてを支配していた。
「……」
言葉もなく、彼は私を見ている。
それだけで、理解した。
この人物こそが――
先ほどから、私を見定めていた視線の主。
「失礼」
男は短くそう言い、名乗った。
「ノアール・シュヴァルツリッター。シュヴァルツリッター公爵だ」
その名に、息を呑む。
――冷酷無慈悲の公爵。
王国随一の権力を持ち、王家でさえ容易に口出しできない存在。
なぜ、その人物が、私の前に?
「お初にお目にかかります。エミリア・ノルトです」
私は慌てることなく、一礼した。
形式として、完璧な挨拶。
ノアール公爵は、ほんの一瞬だけ、眉を動かした。
「王宮を去ったと聞いた」
「……はい」
「理由は?」
唐突な問いだった。
けれど、その口調には、詮索の色がない。ただの事実確認。
「婚約破棄を受けました」
「そうか」
それだけだった。
同情も、嘲笑もない。
沈黙が落ちる。
周囲の騎士たちは、息を殺している。
「君の荷物は、それだけか」
ノアール公爵は、馬車の後方へ一瞥を向けた。
「はい。必要なものだけです」
「……合理的だな」
それは、評価だった。
彼は一歩、距離を詰める。
圧迫感はあるはずなのに、不思議と怖さは感じなかった。
「単刀直入に言おう」
低い声が、静かに響く。
「私は、君に興味がある」
周囲が、わずかにざわつく。
私自身も、さすがに驚きを隠せなかった。
「理由を、お聞かせ願えますか」
「君が作成した財務再建案を見た」
その言葉に、心臓が一瞬、強く打った。
「王宮の保管庫に残っていた書類だ。形式は粗いが……内容は、的確すぎる」
――あれを。
あの、誰にも評価されなかった書類を。
「君は、数字の裏にある“人の動き”を見ている。これは、才能だ」
淡々とした口調。
だが、その一言一言は、これまで誰からも与えられなかった評価だった。
「王宮は、君を手放した」
ノアール公爵の視線が、鋭くなる。
「それが、どれほどの損失か……彼らは、まだ理解していない」
私は、言葉を選んだ。
「……過分なお言葉です」
「謙遜はいらない」
即座に切り捨てられる。
「私は、有能な人間を正当に評価する。それだけだ」
そして、次の言葉が、静かに投げかけられた。
「我が領へ来ないか」
――誘い。
あまりにも突然で、あまりにも大きなもの。
「立場は?」
「補佐だ。まずは」
彼は、迷いなく続ける。
「拒否する理由があるなら、聞こう」
私は、しばらく沈黙した。
頭の中で、無数の思考が交錯する。
危険ではないか。
利用されるのではないか。
それでも――。
彼の言葉には、一切の下心が感じられなかった。
あるのは、ただの“評価”。
「……一つ、条件があります」
「言え」
「私は、誰かの飾りになるつもりはありません」
視線を逸らさず、告げる。
「成果で判断される立場であること。それが条件です」
ノアール公爵は、ほんのわずかに口角を上げた。
「望むところだ」
それは、笑みと呼ぶにはあまりにも微かなもの。
けれど――確かに。
「では、決まりだな」
彼は背を向け、騎士たちに合図を送った。
「エミリア・ノルト。今日から君は、私の領へ来る」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
――冷酷公爵。
けれど、この男は、少なくとも私を
“不要な女”とは呼ばなかった。
馬車が再び動き出す。
行き先は、ノルト公爵領ではない。
シュヴァルツリッター公爵領。
私の人生は、今この瞬間、
確かに新しい局面へ踏み出していた。
ノルト公爵領へ向かう街道は、王都から離れるにつれ、次第に人の気配が薄れていった。
馬車の揺れは一定で、車輪が地面を踏みしめる音だけが、静かに耳へ届く。
私は膝の上で書類を広げていた。
王宮を出る際、無意識のうちに持ち出していたものだ。財務や行政に関する覚書――もはや私の役目ではないはずのもの。
「……つい、癖で」
苦笑し、書類を閉じる。
けれど、文字を追うことで心が落ち着くのも事実だった。
馬車が大きく揺れ、速度を落とす。
外から、低い声が聞こえた。
「ここで少しお待ちください」
御者の声に応じ、私は窓から外を窺う。
街道の先に、騎士たちの一団が道を塞ぐように立っていた。
――検問?
そう思った瞬間、胸の奥に、あの感覚が蘇る。
王都を発った朝、確かに感じた“値踏みの視線”。
馬車の扉が開き、騎士が一礼した。
「ノルト公爵令嬢エミリア・ノルト様でいらっしゃいますね」
「……そうですが」
名を告げると、騎士は一歩下がり、後方へ視線を送る。
次の瞬間、空気が変わった。
騎士たちの列の中央から、一人の男が前へ出てくる。
背は高く、無駄のない立ち姿。黒を基調とした外套が、彼の存在感をさらに際立たせていた。
顔立ちは整っている。
けれど、温度を感じさせない眼差しが、すべてを支配していた。
「……」
言葉もなく、彼は私を見ている。
それだけで、理解した。
この人物こそが――
先ほどから、私を見定めていた視線の主。
「失礼」
男は短くそう言い、名乗った。
「ノアール・シュヴァルツリッター。シュヴァルツリッター公爵だ」
その名に、息を呑む。
――冷酷無慈悲の公爵。
王国随一の権力を持ち、王家でさえ容易に口出しできない存在。
なぜ、その人物が、私の前に?
「お初にお目にかかります。エミリア・ノルトです」
私は慌てることなく、一礼した。
形式として、完璧な挨拶。
ノアール公爵は、ほんの一瞬だけ、眉を動かした。
「王宮を去ったと聞いた」
「……はい」
「理由は?」
唐突な問いだった。
けれど、その口調には、詮索の色がない。ただの事実確認。
「婚約破棄を受けました」
「そうか」
それだけだった。
同情も、嘲笑もない。
沈黙が落ちる。
周囲の騎士たちは、息を殺している。
「君の荷物は、それだけか」
ノアール公爵は、馬車の後方へ一瞥を向けた。
「はい。必要なものだけです」
「……合理的だな」
それは、評価だった。
彼は一歩、距離を詰める。
圧迫感はあるはずなのに、不思議と怖さは感じなかった。
「単刀直入に言おう」
低い声が、静かに響く。
「私は、君に興味がある」
周囲が、わずかにざわつく。
私自身も、さすがに驚きを隠せなかった。
「理由を、お聞かせ願えますか」
「君が作成した財務再建案を見た」
その言葉に、心臓が一瞬、強く打った。
「王宮の保管庫に残っていた書類だ。形式は粗いが……内容は、的確すぎる」
――あれを。
あの、誰にも評価されなかった書類を。
「君は、数字の裏にある“人の動き”を見ている。これは、才能だ」
淡々とした口調。
だが、その一言一言は、これまで誰からも与えられなかった評価だった。
「王宮は、君を手放した」
ノアール公爵の視線が、鋭くなる。
「それが、どれほどの損失か……彼らは、まだ理解していない」
私は、言葉を選んだ。
「……過分なお言葉です」
「謙遜はいらない」
即座に切り捨てられる。
「私は、有能な人間を正当に評価する。それだけだ」
そして、次の言葉が、静かに投げかけられた。
「我が領へ来ないか」
――誘い。
あまりにも突然で、あまりにも大きなもの。
「立場は?」
「補佐だ。まずは」
彼は、迷いなく続ける。
「拒否する理由があるなら、聞こう」
私は、しばらく沈黙した。
頭の中で、無数の思考が交錯する。
危険ではないか。
利用されるのではないか。
それでも――。
彼の言葉には、一切の下心が感じられなかった。
あるのは、ただの“評価”。
「……一つ、条件があります」
「言え」
「私は、誰かの飾りになるつもりはありません」
視線を逸らさず、告げる。
「成果で判断される立場であること。それが条件です」
ノアール公爵は、ほんのわずかに口角を上げた。
「望むところだ」
それは、笑みと呼ぶにはあまりにも微かなもの。
けれど――確かに。
「では、決まりだな」
彼は背を向け、騎士たちに合図を送った。
「エミリア・ノルト。今日から君は、私の領へ来る」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
――冷酷公爵。
けれど、この男は、少なくとも私を
“不要な女”とは呼ばなかった。
馬車が再び動き出す。
行き先は、ノルト公爵領ではない。
シュヴァルツリッター公爵領。
私の人生は、今この瞬間、
確かに新しい局面へ踏み出していた。
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