5 / 40
第5話 冷酷公爵の視線
しおりを挟む
第5話 冷酷公爵の視線
ノルト公爵領へ向かう街道は、王都から離れるにつれ、次第に人の気配が薄れていった。
馬車の揺れは一定で、車輪が地面を踏みしめる音だけが、静かに耳へ届く。
私は膝の上で書類を広げていた。
王宮を出る際、無意識のうちに持ち出していたものだ。財務や行政に関する覚書――もはや私の役目ではないはずのもの。
「……つい、癖で」
苦笑し、書類を閉じる。
けれど、文字を追うことで心が落ち着くのも事実だった。
馬車が大きく揺れ、速度を落とす。
外から、低い声が聞こえた。
「ここで少しお待ちください」
御者の声に応じ、私は窓から外を窺う。
街道の先に、騎士たちの一団が道を塞ぐように立っていた。
――検問?
そう思った瞬間、胸の奥に、あの感覚が蘇る。
王都を発った朝、確かに感じた“値踏みの視線”。
馬車の扉が開き、騎士が一礼した。
「ノルト公爵令嬢エミリア・ノルト様でいらっしゃいますね」
「……そうですが」
名を告げると、騎士は一歩下がり、後方へ視線を送る。
次の瞬間、空気が変わった。
騎士たちの列の中央から、一人の男が前へ出てくる。
背は高く、無駄のない立ち姿。黒を基調とした外套が、彼の存在感をさらに際立たせていた。
顔立ちは整っている。
けれど、温度を感じさせない眼差しが、すべてを支配していた。
「……」
言葉もなく、彼は私を見ている。
それだけで、理解した。
この人物こそが――
先ほどから、私を見定めていた視線の主。
「失礼」
男は短くそう言い、名乗った。
「ノアール・シュヴァルツリッター。シュヴァルツリッター公爵だ」
その名に、息を呑む。
――冷酷無慈悲の公爵。
王国随一の権力を持ち、王家でさえ容易に口出しできない存在。
なぜ、その人物が、私の前に?
「お初にお目にかかります。エミリア・ノルトです」
私は慌てることなく、一礼した。
形式として、完璧な挨拶。
ノアール公爵は、ほんの一瞬だけ、眉を動かした。
「王宮を去ったと聞いた」
「……はい」
「理由は?」
唐突な問いだった。
けれど、その口調には、詮索の色がない。ただの事実確認。
「婚約破棄を受けました」
「そうか」
それだけだった。
同情も、嘲笑もない。
沈黙が落ちる。
周囲の騎士たちは、息を殺している。
「君の荷物は、それだけか」
ノアール公爵は、馬車の後方へ一瞥を向けた。
「はい。必要なものだけです」
「……合理的だな」
それは、評価だった。
彼は一歩、距離を詰める。
圧迫感はあるはずなのに、不思議と怖さは感じなかった。
「単刀直入に言おう」
低い声が、静かに響く。
「私は、君に興味がある」
周囲が、わずかにざわつく。
私自身も、さすがに驚きを隠せなかった。
「理由を、お聞かせ願えますか」
「君が作成した財務再建案を見た」
その言葉に、心臓が一瞬、強く打った。
「王宮の保管庫に残っていた書類だ。形式は粗いが……内容は、的確すぎる」
――あれを。
あの、誰にも評価されなかった書類を。
「君は、数字の裏にある“人の動き”を見ている。これは、才能だ」
淡々とした口調。
だが、その一言一言は、これまで誰からも与えられなかった評価だった。
「王宮は、君を手放した」
ノアール公爵の視線が、鋭くなる。
「それが、どれほどの損失か……彼らは、まだ理解していない」
私は、言葉を選んだ。
「……過分なお言葉です」
「謙遜はいらない」
即座に切り捨てられる。
「私は、有能な人間を正当に評価する。それだけだ」
そして、次の言葉が、静かに投げかけられた。
「我が領へ来ないか」
――誘い。
あまりにも突然で、あまりにも大きなもの。
「立場は?」
「補佐だ。まずは」
彼は、迷いなく続ける。
「拒否する理由があるなら、聞こう」
私は、しばらく沈黙した。
頭の中で、無数の思考が交錯する。
危険ではないか。
利用されるのではないか。
それでも――。
彼の言葉には、一切の下心が感じられなかった。
あるのは、ただの“評価”。
「……一つ、条件があります」
「言え」
「私は、誰かの飾りになるつもりはありません」
視線を逸らさず、告げる。
「成果で判断される立場であること。それが条件です」
ノアール公爵は、ほんのわずかに口角を上げた。
「望むところだ」
それは、笑みと呼ぶにはあまりにも微かなもの。
けれど――確かに。
「では、決まりだな」
彼は背を向け、騎士たちに合図を送った。
「エミリア・ノルト。今日から君は、私の領へ来る」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
――冷酷公爵。
けれど、この男は、少なくとも私を
“不要な女”とは呼ばなかった。
馬車が再び動き出す。
行き先は、ノルト公爵領ではない。
シュヴァルツリッター公爵領。
私の人生は、今この瞬間、
確かに新しい局面へ踏み出していた。
ノルト公爵領へ向かう街道は、王都から離れるにつれ、次第に人の気配が薄れていった。
馬車の揺れは一定で、車輪が地面を踏みしめる音だけが、静かに耳へ届く。
私は膝の上で書類を広げていた。
王宮を出る際、無意識のうちに持ち出していたものだ。財務や行政に関する覚書――もはや私の役目ではないはずのもの。
「……つい、癖で」
苦笑し、書類を閉じる。
けれど、文字を追うことで心が落ち着くのも事実だった。
馬車が大きく揺れ、速度を落とす。
外から、低い声が聞こえた。
「ここで少しお待ちください」
御者の声に応じ、私は窓から外を窺う。
街道の先に、騎士たちの一団が道を塞ぐように立っていた。
――検問?
そう思った瞬間、胸の奥に、あの感覚が蘇る。
王都を発った朝、確かに感じた“値踏みの視線”。
馬車の扉が開き、騎士が一礼した。
「ノルト公爵令嬢エミリア・ノルト様でいらっしゃいますね」
「……そうですが」
名を告げると、騎士は一歩下がり、後方へ視線を送る。
次の瞬間、空気が変わった。
騎士たちの列の中央から、一人の男が前へ出てくる。
背は高く、無駄のない立ち姿。黒を基調とした外套が、彼の存在感をさらに際立たせていた。
顔立ちは整っている。
けれど、温度を感じさせない眼差しが、すべてを支配していた。
「……」
言葉もなく、彼は私を見ている。
それだけで、理解した。
この人物こそが――
先ほどから、私を見定めていた視線の主。
「失礼」
男は短くそう言い、名乗った。
「ノアール・シュヴァルツリッター。シュヴァルツリッター公爵だ」
その名に、息を呑む。
――冷酷無慈悲の公爵。
王国随一の権力を持ち、王家でさえ容易に口出しできない存在。
なぜ、その人物が、私の前に?
「お初にお目にかかります。エミリア・ノルトです」
私は慌てることなく、一礼した。
形式として、完璧な挨拶。
ノアール公爵は、ほんの一瞬だけ、眉を動かした。
「王宮を去ったと聞いた」
「……はい」
「理由は?」
唐突な問いだった。
けれど、その口調には、詮索の色がない。ただの事実確認。
「婚約破棄を受けました」
「そうか」
それだけだった。
同情も、嘲笑もない。
沈黙が落ちる。
周囲の騎士たちは、息を殺している。
「君の荷物は、それだけか」
ノアール公爵は、馬車の後方へ一瞥を向けた。
「はい。必要なものだけです」
「……合理的だな」
それは、評価だった。
彼は一歩、距離を詰める。
圧迫感はあるはずなのに、不思議と怖さは感じなかった。
「単刀直入に言おう」
低い声が、静かに響く。
「私は、君に興味がある」
周囲が、わずかにざわつく。
私自身も、さすがに驚きを隠せなかった。
「理由を、お聞かせ願えますか」
「君が作成した財務再建案を見た」
その言葉に、心臓が一瞬、強く打った。
「王宮の保管庫に残っていた書類だ。形式は粗いが……内容は、的確すぎる」
――あれを。
あの、誰にも評価されなかった書類を。
「君は、数字の裏にある“人の動き”を見ている。これは、才能だ」
淡々とした口調。
だが、その一言一言は、これまで誰からも与えられなかった評価だった。
「王宮は、君を手放した」
ノアール公爵の視線が、鋭くなる。
「それが、どれほどの損失か……彼らは、まだ理解していない」
私は、言葉を選んだ。
「……過分なお言葉です」
「謙遜はいらない」
即座に切り捨てられる。
「私は、有能な人間を正当に評価する。それだけだ」
そして、次の言葉が、静かに投げかけられた。
「我が領へ来ないか」
――誘い。
あまりにも突然で、あまりにも大きなもの。
「立場は?」
「補佐だ。まずは」
彼は、迷いなく続ける。
「拒否する理由があるなら、聞こう」
私は、しばらく沈黙した。
頭の中で、無数の思考が交錯する。
危険ではないか。
利用されるのではないか。
それでも――。
彼の言葉には、一切の下心が感じられなかった。
あるのは、ただの“評価”。
「……一つ、条件があります」
「言え」
「私は、誰かの飾りになるつもりはありません」
視線を逸らさず、告げる。
「成果で判断される立場であること。それが条件です」
ノアール公爵は、ほんのわずかに口角を上げた。
「望むところだ」
それは、笑みと呼ぶにはあまりにも微かなもの。
けれど――確かに。
「では、決まりだな」
彼は背を向け、騎士たちに合図を送った。
「エミリア・ノルト。今日から君は、私の領へ来る」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
――冷酷公爵。
けれど、この男は、少なくとも私を
“不要な女”とは呼ばなかった。
馬車が再び動き出す。
行き先は、ノルト公爵領ではない。
シュヴァルツリッター公爵領。
私の人生は、今この瞬間、
確かに新しい局面へ踏み出していた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】悪役令嬢ですが、元官僚スキルで断罪も陰謀も処理します。
かおり
ファンタジー
異世界で悪役令嬢に転生した元官僚。婚約破棄? 断罪? 全部ルールと書類で処理します。
謝罪してないのに謝ったことになる“限定謝罪”で、婚約者も貴族も黙らせる――バリキャリ令嬢の逆転劇!
※読んでいただき、ありがとうございます。ささやかな物語ですが、どこか少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
義母に毒を盛られて前世の記憶を取り戻し覚醒しました、貴男は義妹と仲良くすればいいわ。
克全
ファンタジー
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
11月9日「カクヨム」恋愛日間ランキング15位
11月11日「カクヨム」恋愛週間ランキング22位
11月11日「カクヨム」恋愛月間ランキング71位
11月4日「小説家になろう」恋愛異世界転生/転移恋愛日間78位
婚約破棄で追放された悪役令嬢ですが、隣国で『魔道具ネット通販』を始めたら金貨スパチャが止まりません〜私を追い出した王国は経済崩壊しました〜
ハリネズミの肉球
ファンタジー
「婚約破棄だ。君は国を裏切った」
王太子の冷たい宣言で、公爵令嬢セシリア・アルフェンはすべてを失う。
罪状は“横領と国家反逆”。もちろん冤罪だ。
だが彼女は静かに笑っていた。
――なぜなら、彼女には誰にも知られていない能力があったから。
それは「異世界にいながら、現代日本のECサイトを閲覧できる」という奇妙なスキル。
隣国へ追放されたセシリアは、その知識を使い始める。
鏡。石鹸。ガラス瓶。香水。保存食。
この世界ではまだ珍しい品を魔道具で再現し、数量限定で販売。
さらに彼女は「配信魔道具」を開発。
商品制作の様子をライブ配信しながら販売するという、前代未聞の商売を始める。
結果――
貴族たちは熱狂。
金貨の投げ銭が空を舞う。
セシリアの店は世界最大の商会へと急成長。
一方で、彼女を追放した祖国では異変が起きていた。
セシリアが管理していた輸出ルートが止まり、
物資不足、価格暴騰、そして経済崩壊。
焦った王太子が通信魔道具で泣きついてくる。
「戻ってきてくれ……!」
しかしセシリアはワイングラスを揺らしながら笑う。
「あ、その声はブロック対象です」
これは――
婚約破棄された悪役令嬢が、世界経済を握るまでの物語。
※本作品は、人工知能の生成する文章の力をお借りしつつも、最終的な仕上げにあたっては著者自身の手により丁寧な加筆・修正を施した作品です。
無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……
タマ マコト
ファンタジー
王宮の祝賀会で、無魔力と蔑まれてきた伯爵令嬢エリーナは、王太子アレクシオンから突然「婚約破棄」を宣告される。侍女上がりの聖女セレスが“新たな妃”として選ばれ、貴族たちの嘲笑がエリーナを包む。絶望に胸が沈んだ瞬間、彼女の奥底で眠っていた“竜との契約”が目を覚まし、空から白銀竜アークヴァンが降臨。彼はエリーナの涙に激怒し、王宮を半壊させるほどの力で彼女を守る。王国は震え、エリーナは自分が竜の真の主であるという運命に巻き込まれていく。
偽りの呪いで追放された聖女です。辺境で薬屋を開いたら、国一番の不運な王子様に拾われ「幸運の女神」と溺愛されています
黒崎隼人
ファンタジー
「君に触れると、不幸が起きるんだ」――偽りの呪いをかけられ、聖女の座を追われた少女、ルナ。
彼女は正体を隠し、辺境のミモザ村で薬師として静かな暮らしを始める。
ようやく手に入れた穏やかな日々。
しかし、そんな彼女の前に現れたのは、「王国一の不運王子」リオネスだった。
彼が歩けば嵐が起き、彼が触れば物が壊れる。
そんな王子が、なぜか彼女の薬草店の前で派手に転倒し、大怪我を負ってしまう。
「私の呪いのせいです!」と青ざめるルナに、王子は笑った。
「いつものことだから、君のせいじゃないよ」
これは、自分を不幸だと思い込む元聖女と、天性の不運をものともしない王子の、勘違いから始まる癒やしと幸運の物語。
二人が出会う時、本当の奇跡が目を覚ます。
心温まるスローライフ・ラブファンタジー、ここに開幕。
追放された私の代わりに入った女、三日で国を滅ぼしたらしいですよ?
タマ マコト
ファンタジー
王国直属の宮廷魔導師・セレス・アルトレイン。
白銀の髪に琥珀の瞳を持つ、稀代の天才。
しかし、その才能はあまりに“美しすぎた”。
王妃リディアの嫉妬。
王太子レオンの盲信。
そして、セレスを庇うはずだった上官の沈黙。
「あなたの魔法は冷たい。心がこもっていないわ」
そう言われ、セレスは**『無能』の烙印**を押され、王国から追放される。
彼女はただ一言だけ残した。
「――この国の炎は、三日で尽きるでしょう。」
誰もそれを脅しとは受け取らなかった。
だがそれは、彼女が未来を見通す“預言魔法”の言葉だったのだ。
処刑台の皇妃、回帰して復讐を誓う ~冷酷公爵と偽りの婚約者~ おまえたちは許さない!
秦江湖
ファンタジー
皇妃エリアーナは、夫である皇帝アランと、たった一人の親友イザベラの策略により、無実の罪で処刑される。
民衆に罵られ、アランの冷酷な目とイザベラの嘲笑を「始まりの景色」として目に焼き付けながら絶命した彼女は、しかし、処刑の記憶を持ったまま三年前の過去に回帰する。
「おまえたちは許さない」
二度目の人生。
エリアーナの目的はただ一つ、自分を陥れた二人への完璧な復讐。
彼女はまず、アラン(皇太子)からの婚約内示を拒絶。そして、アラン最大の政敵である「北の冷血公爵」ルシアン・ヴァレリウスに接触する。
1周目で得た「未来の知識」を対価に、エリアーナはルシアンに持ちかける。
「貴方様には帝国の覇権を。わたくしには復讐の舞台を。そのための『契約婚約』を――」
憎悪を糧に生きる皇妃と、氷の瞳を持つ公爵。
二人の偽りの婚約の行く末は……
『お前の顔は見飽きた!』内心ガッツポーズで辺境へ
夏乃みのり
恋愛
「リーナ・フォン・アトラス! 貴様との婚約を破棄する!」
華やかな王宮の夜会で、第一王子ジュリアンに突きつけられた非情な宣告。冤罪を被せられ、冷酷な悪役令嬢として追放を言い渡されたリーナだったが、彼女の内心は……「やったーーー! これでやっとトレーニングに専念できるわ!」と歓喜に震えていた!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる