婚約破棄された令嬢ですが、判断を急がない領地改革を始めました

鷹 綾

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第15話 立場という境界線

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第15話 立場という境界線

 回廊に差し込む夕刻の光は、長く影を落としていた。
 城内は静まり返り、視察団のざわめきも、すでに遠い。

「……少し、話がしたい」

 エドワルド王太子の声は低く、慎重だった。
 かつて命令することに慣れていた口調は影を潜め、どこか探るような響きを帯びている。

 私は、立ち止まったまま振り返る。

「短時間でしたら、と申し上げたはずです」

 それだけ告げると、彼は小さく頷いた。

「それでいい」

 案内されたのは、応接用の小部屋だった。
 豪奢ではないが、落ち着いた調度が整えられている。シュヴァルツリッター公爵領らしい、実用重視の空間。

 扉が閉まり、二人きりになる。

 沈黙が落ちた。
 それは、気まずさから生まれたものではない。
 言葉の順番を、互いに測っている沈黙だった。

「……驚いたよ」

 先に口を開いたのは、エドワルドだった。

「ここまで、領地が変わっているとは思わなかった」

「視察の目的は、それを確認することでしたでしょう?」

 私は淡々と答える。

「ええ。ですから、数字と現場をお見せしました」

 感情は交えない。
 あくまで、公務として。

「……王宮では」

 彼は一瞬、言葉を切った。

「君がいなくなってから、決裁が滞ることが増えた」

 私は、その言葉を受け止めるが、表情は変えない。

「そうですか」

「それだけか?」

 思わず漏れたような問い。

「他に、どのような反応を期待されているのでしょうか」

 私は静かに視線を向けた。

「同情ですか。後悔ですか。それとも――」

 言葉を選び、続ける。

「元婚約者としての、感情的な応答でしょうか」

 エドワルドは、言葉に詰まった。

「……違う」

 否定は早かったが、力が足りない。

「ただ、話がしたかっただけだ」

「でしたら、要点をどうぞ」

 私は、腕を組むこともせず、背筋を伸ばしたまま促す。

 ――境界線を、越えさせない。

「王宮へ戻るつもりは、ないのか」

 その問いに、私は即答した。

「ありません」

 迷いはない。

「理由は?」

「必要とされていない場所に、戻る意味はありません」

 それは、皮肉ではなく事実だった。

「……今は、ここで必要とされています」

 言葉にすると、はっきりする。

 エドワルドは、視線を落とした。

「……あの時」

 彼は、ゆっくりと息を吸う。

「君の仕事を、正しく見ていなかった」

 その告白は、遅すぎた。
 けれど、彼自身にとっては、勇気の要る言葉だったのだろう。

「地味だと……そう言ったな」

「ええ」

 私は、否定も肯定もしない。

「訂正する」

 彼は、私を見上げた。

「君は、地味なんかじゃなかった」

 沈黙。
 私は、その言葉を、胸のどこにも留めなかった。

「殿下」

 丁寧な呼び方。
 だが、それは距離を示すものでもある。

「それは、今の評価ですか。それとも――失ってからの感想でしょうか」

 エドワルドは、答えられなかった。

 答えが、どちらであっても、結果は変わらない。

「私は、評価される場所で働いています」

 私は、淡々と続ける。

「成果を出し、責任を負い、正当に判断される。
 それが、今の私の立場です」

 彼は、苦しそうに目を伏せた。

「……公爵は、君をどう扱っている?」

 その問いに、私は一瞬だけ考えた。

「上司として、です」

 そして、正確に付け加える。

「能力と結果で判断されます。
 それ以上でも、それ以下でもありません」

 エドワルドの喉が、小さく鳴った。

「……それが、理想的だと?」

「少なくとも、私には」

 即答だった。

 部屋の外から、控えめな足音が聞こえる。
 時間だ。

「殿下」

 私は、軽く一礼した。

「本日の視察、ご足労さまでした」

 それは、明確な終わりの合図。

「……最後に一つだけ」

 エドワルドが、焦るように言う。

「君は――幸せか?」

 私は、少しだけ考えた。

 答えは、簡単ではない。
 だが、正直であるべきだ。

「充実しています」

 それが、今の私の真実。

 幸せという言葉は、まだ先かもしれない。
 けれど、ここには確かな手応えがある。

「……そうか」

 エドワルドは、微かに笑った。

「なら、いい」

 その言葉には、諦めが混じっていた。

 私は、扉へ向かう。

 振り返らない。
 振り返る理由が、もうないからだ。

 回廊へ出ると、冷たい空気が肺に満ちる。
 遠くで、城下の灯りが揺れていた。

「……境界線は、越えさせない」

 それは、彼のためでもある。
 そして、何より――私自身のため。

 過去は、過去。
 今の私は、ここにいる。

 その事実だけが、
 静かに、しかし確かに、足元を支えていた。
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