『婚約破棄されたので、元婚約者の「理想の聖女」を育ててみた結果』

鷹 綾

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第17話 聖女は前を向き、王太子は立ち止まりました

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第17話 聖女は前を向き、王太子は立ち止まりました

 朝霧が、離宮の庭を淡く包んでいた。

 ミリエラは、いつものように早起きして、温室の戸を開ける。
 土の匂いと、かすかな花の香り。
 それだけで、胸の奥が静かに満たされていく。

「……今日は、これで大丈夫ですね」

 彼女は小さく頷き、帳面に短くメモを取った。
 活動量、睡眠時間、気分。
 “管理”ではなく、“記録”。

 それは、彼女自身が自分を把握するためのものだった。

    ◇

 同じ頃、王宮の一室では、王太子エドワルド殿下が窓辺に立っていた。

 外は、いつもと変わらない朝。
 文官が行き交い、鐘が鳴り、政務は滞りなく進んでいる。

 ――自分がいなくても。

「……不思議なものだな」

 彼は、誰に聞かせるでもなく呟いた。

 何かが壊れたわけではない。
 追放も、断罪も、屈辱的な裁きもない。

 それなのに。

「……私は、
 何をしてきたんだ?」

 答えは出ない。

    ◇

 午前中、私はミリエラと共に、地方から来た代表者たちと面会していた。

 形式ばった儀礼は省き、円卓を囲む。

「……聖女様が、笑っていらっしゃるだけで、
 今年は冬が越せそうな気がします」

 年配の男が、照れたように言う。

「奇跡は、起きていませんよ」

 ミリエラは、穏やかに返した。

「でも、
 “何も起きない”のが、一番の奇跡かもしれません」

 その場に、柔らかな笑いが広がる。

 私は、その様子を静かに見ていた。

(……もう、補佐はいらないかもしれない)

 そう思った瞬間、
 胸の奥が少しだけ、温かくなった。

    ◇

 午後、王宮の回廊。

 エドワルド殿下は、足を止めた。

 向こうから来たのは、若い文官。
 かつて、彼の一言一言に緊張していた男だ。

「……殿下」

 文官は一礼し、それ以上、何も言わずに通り過ぎた。

 呼び止めない。
 意見も求めない。

 それが、今の距離だった。

「……立ち止まっているのは、
 私だけか」

 殿下は、ようやく理解し始めていた。

 世界は、前に進む。
 誰かを置いて。

    ◇

 夕方、離宮。

 ミリエラは、日誌を閉じ、私に言った。

「……リュシア様」

「はい」

「私、
 “聖女であり続けること”より、
 “生き続けること”を選びたいです」

 その言葉は、静かだったが、揺るぎなかった。

「それで、いいです」

 私は、迷わず答える。

「それができるなら、
 あなたはもう、誰にも奪われません」

 ミリエラは、ほっとしたように微笑んだ。

    ◇

 夜。

 王太子エドワルド殿下は、机に置かれた古い書簡を手に取っていた。

 ――かつて、リュシアがまとめた報告書。

 数字ではなく、言葉で綴られた、注意書き。

『聖女は、成果ではなく人です』
『急がせるほど、力は遠ざかります』

 彼は、初めて、最後までそれを読んだ。

「……遅すぎた、か」

 そう呟いた声は、
 夜の静けさに溶けていった。

    ◇

 離宮の灯りは、今日も穏やかだ。

 ミリエラは、窓を閉める前に、空を見上げた。

 星は、変わらずそこにある。
 誰に選ばれなくても。

 そして私は、確信する。

 前を向いた者だけが、
 次の物語へ進める。

 王太子が立ち止まっている間に――
 この物語は、すでに次の章へ足を踏み出していた。
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