『婚約破棄されたので、元婚約者の「理想の聖女」を育ててみた結果』

鷹 綾

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第30話 誰にも呼ばれない日を、祝う

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第30話 誰にも呼ばれない日を、祝う

 朝の光が、離宮の廊下をまっすぐに照らしていた。
 窓の外では、鳥が鳴き、庭師が静かに土をならしている。

 ミリエラは、いつもより遅く目を覚ました。

 鐘の音に起こされることもない。
 予定を告げる侍女の声もない。

 ――今日は、完全な空白の日だった。

「……何もしなくて、いいんですね」

 誰に確認するでもなく、そう呟く。
 胸の奥に、ほんのわずかな違和感が生まれ――
 すぐに、それは消えた。

    ◇

 朝食を終えたあと、彼女は回廊の椅子に腰を下ろし、本を開いた。
 宗教書ではない。
 祈りの指南書でもない。

 昔、偶然読んで気に入った、旅の記録だった。

「……この人、
 目的地を決めずに歩いていますね」

 同行していた侍女が、少し驚いたように言う。

「ええ。
 だから、面白いんです」

 ミリエラは、穏やかに微笑んだ。

 目的がない。
 役割もない。

 それなのに、物語は進んでいる。

    ◇

 昼過ぎ、私は学院から戻り、離宮に立ち寄っていた。

「今日は、珍しく静かですね」

「はい。
 誰にも呼ばれていません」

 彼女は、そう言ってから、少し考え――
 付け加えた。

「……嬉しいです」

「それは、いいことですね」

「前なら、
 不安で仕方なかったと思います」

 必要とされない時間。
 期待されない一日。

 それを“欠落”ではなく、
 “余白”として受け取れるようになった。

    ◇

 同じ頃、王宮ではエドワルド殿下が書庫にいた。

 誰に命じられたわけでもなく、
 誰の評価も気にせず、
 古い歴史書をめくっている。

「……名を残さなかった王族の方が、
 ずっと多いな」

 記録に残るのは、
 勝者と失敗者だけだ。

 だが、
 そのどちらにもならず、
 静かに生きた人間の数は、
 計り知れない。

 彼は、本を閉じ、
 深く息を吐いた。

    ◇

 夕方、離宮の庭。

 ミリエラは、何気なく花壇の前に立ち、
 小さな白い花を一輪、摘んだ。

「……今日は、
 何かを成し遂げた日ではありません」

 誰に向けるでもなく、そう言う。

「でも」

 花を指先で回しながら、続けた。

「何も失っていない日でもあります」

 それは、
 奇跡を起こさなかった聖女の言葉であり、
 もう“特別である必要がない”人の実感だった。

    ◇

 夜。

 離宮に灯りがともる。

 日誌を開いたミリエラは、少しだけ迷ってから、
 短く書き記した。

『今日は、誰にも呼ばれなかった。
 それが、とても良い日だった』

 書き終えたあと、
 彼女はその一文を何度か読み返し、
 そっと微笑んだ。

    ◇

 人は、呼ばれることで価値を感じる。
 だが、呼ばれない日を恐れなくなった時、
 ようやく自分の足で立っていると分かる。

 誰にも求められず、
 誰の期待も背負わない一日。

 その静かな時間を、
 祝えるようになったことこそが――
 彼女が手に入れた、
 何より確かな自由だった。
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