婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第4話 境界線で倒れる

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第4話 境界線で倒れる

 夜明け前の街道は、ひどく冷え込んでいた。

 馬車の揺れに身を預けながら、アデリーナ・フォン・グラーフは、胸の奥に広がる鈍い痛みをやり過ごそうとしていた。
 指先が冷たい。視界が、わずかに滲む。

 ――無理を、しすぎたのかもしれない。

 そう思ったときには、すでに遅かった。

「……っ」

 小さく息を吸おうとしても、うまく入ってこない。
 視界が傾き、意識が遠のいていく。

「お嬢様!?」

 御者の驚いた声が聞こえたのを最後に、アデリーナの意識は闇に沈んだ。



 次に目を覚ましたとき、天井が見えた。

 見慣れない木組み。
 柔らかな布の感触。
 どこか薬草の匂いが漂っている。

「……ここは……?」

 声に出したつもりが、ほとんど音にならなかった。

「お目覚めですか」

 低く、落ち着いた声が応じる。

 視線を向けると、部屋の端に一人の男が立っていた。
 背は高く、体格はがっしりとしている。軍服を思わせる簡素な装い。
 飾り気はなく、表情も乏しい。

 だが、不思議と威圧感はなかった。

「……どなた、でしょうか」

「名乗るほどの者ではありません。
 この屋敷の者です」

 淡々とした口調だった。
 余計なことは言わない。だが、必要なことだけは、きちんと伝える。

「街道沿いで倒れていたあなたを、巡回中の兵が発見しました。
 ここは、クレイン公爵領です」

 その言葉に、アデリーナはかすかに目を見開いた。

 ――クレイン公爵領。

 王都から遠く離れた、国境に近い辺境。
 治安維持と防衛を一手に担う、武官の家。

 そして、その当主の名を、彼女は知っていた。

「……では、ここは……」

「ええ。
 我が主、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵の屋敷です」

 その名を聞いても、胸がざわつくことはなかった。
 むしろ、妙な安堵感があった。

 王都でも、社交界でもない。
 政治の中心から離れた場所。

 今の自分には、それがありがたかった。



 数時間後。

 体調が少し落ち着いた頃、改めて一人の男が部屋を訪れた。
 先ほどの兵とは違う。
 しかし、同じく無駄のない立ち振る舞い。

 その男こそが、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵だった。

 年は三十前後。
 鋭さを感じさせる眼差し。
 口数は少なく、感情が読みにくい。

「……具合は」

 短い問いかけ。

「はい。
 ご迷惑をおかけいたしました」

 アデリーナは、ベッドの上で体を起こし、丁寧に頭を下げた。

「道中で倒れたと聞いた。
 無理をしていたのだろう」

 責めるでも、憐れむでもない。
 ただ、事実を確認するような口調だった。

「……はい」

 それ以上、言葉は続かなかった。

 沈黙が流れる。
 だが、不思議と居心地は悪くない。

「行き先は」

「……決めておりませんでした」

 正直に答えた。

 追放同然で王都を離れ、実家にも居場所はない。
 目的地を決める余裕など、なかった。

 バルトロメウスは、少しだけ考える素振りを見せた。

「回復するまで、ここに滞在するといい」

「……よろしいのですか?」

「放っておく理由がない」

 それだけだった。

 見返りを求める様子もない。
 恩を着せる気配もない。

 アデリーナは、深く息を吸った。

「ありがとうございます」


 数日が過ぎた。

 体調は徐々に回復していったが、アデリーナは、屋敷の中で“客人”として扱われ続けた。
 誰も、彼女の身の上を詮索しない。
 王太子との婚約破棄についても、口にする者はいなかった。

 その距離感が、心地よかった。

 ある日、廊下を歩いていると、執務室から低い声が聞こえてきた。

「……補給が遅れている?」

「はい。
 輸送計画に無駄が多く、効率が悪く……」

 思わず、足を止める。

 耳に入ってきた言葉は、聞き覚えのある問題だった。
 王宮で、何度も扱ってきた内容。

 アデリーナは、躊躇した。

 ――私は、ただの滞在者だ。
 口出しする立場ではない。

 それでも。

「……失礼いたします」

 気がつけば、執務室の扉を叩いていた。

 中にいたのは、バルトロメウスと、数名の側近。

「何か?」

 短い問い。

「……聞くつもりはありませんでしたが、
 もし差し支えなければ、一つだけ」

 アデリーナは、静かに言葉を選んだ。

「輸送計画、経路が固定されすぎています。
 季節と地形を考慮すれば、分散させた方が――」

 言い終える前に、側近の一人が驚いたように目を見開いた。

「……それは、こちらでも検討していましたが……」

 バルトロメウスは、何も言わず、アデリーナを見つめていた。

 責めるでも、遮るでもない。

「続けて」

 短い一言。

 それが、彼の答えだった。

 アデリーナは、ゆっくりと頷いた。

 ――この場所なら。

 ――この人の下なら。

 まだ、自分の力は、無駄にならないかもしれない。

 境界線で倒れた令嬢は、
 知らぬ間に、新しい世界の扉の前に立っていた。

 それは、静かで、確かな始まりだった。
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