婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第5話 静かな受け入れ

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第5話 静かな受け入れ

 朝の空気は澄んでいた。
 クレイン公爵邸の中庭では、兵士たちが黙々と訓練を続けている。掛け声は最小限、動きは無駄がなく、どこか張り詰めた規律が感じられた。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、その様子を回廊の陰から静かに眺めていた。

 王都では、社交界のざわめきや噂話が常に耳に入ってきた。だが、ここにはそれがない。必要な言葉だけが交わされ、必要な行動だけが積み重ねられている。

 それが、少しだけ心を軽くしてくれた。

「……思ったより、落ち着いているな」

 背後から低い声がした。

 振り返ると、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が立っていた。相変わらず無駄のない装いで、表情もほとんど変わらない。

「はい。皆さん、余計なことをおっしゃらないので」

 そう答えると、公爵は短く頷いた。

「必要のない詮索は、統率を乱す」

 それだけだった。

 言葉は少ないが、そこには明確な方針があった。人を噂や立場で判断しない。ただ役割と結果を見る。

 アデリーナは、胸の奥で小さく息を整えた。

 この場所でなら、少なくとも“婚約破棄された令嬢”としてではなく、一人の人間として扱われる。

 その確信が、少しずつ形を持ち始めていた。

 その日の午後、執務室に呼ばれた。

 扉を叩くと、簡潔な返事が返ってくる。

「入れ」

 中には、公爵と数名の側近がいた。机の上には地図と書類が広げられている。

「先日の件だ」

 バルトロメウスは、地図の一点を指した。

「補給経路の見直し案。昨夜、検証した」

 それだけで、アデリーナは理解した。あの場限りの意見では終わっていない。きちんと検討されたのだ。

「無駄が減る。実行に移す」

 淡々と告げられた言葉に、側近たちがわずかに目を見開く。

「公爵、よろしいのですか。まだ試算が完全では」

「現状より悪くはならない」

 それが、彼の判断基準だった。

 そして、アデリーナの方を見て、短く言う。

「補足があれば、言え」

 命令でも、試す口調でもない。ただ、必要な意見を求める声。

「……ありがとうございます」

 礼を述べてから、アデリーナは静かに説明を加えた。地形による季節変動、予備路の確保、現場判断に任せる余地。その一つ一つを、簡潔に。

 途中で遮られることはなかった。

 説明が終わると、公爵は再び頷いた。

「採用する」

 それだけで、話は終わった。

 評価の言葉も、称賛もない。だが、確かに受け入れられた。

 執務室を出た後、廊下で側近の一人に声をかけられた。

「……失礼ですが」

「はい」

「あなたは……その、王都から来られた方だと聞いています。
 正直に言えば、最初は不安でした」

 アデリーナは否定しなかった。ただ、相手の言葉を待つ。

「ですが、公爵が意見を採用された。
 それだけで、十分です」

 その言葉に、胸の奥がわずかに温かくなった。

 この屋敷では、公爵の判断が絶対だ。そしてその判断は、誰かの立場ではなく、内容だけを見て下される。

 夜。

 用意された客室で、アデリーナは机に向かっていた。手元には、今日の議論をまとめた簡単な覚え書き。

 書き終えたところで、ふと手が止まる。

 ――私は、ここで何を望んでいるのだろう。

 居場所を求めているのか。
 役割を求めているのか。

 答えは、まだはっきりしない。

 だが、一つだけ確かなことがあった。

 ここでは、無理に笑う必要がない。
 自分を小さく見せる必要もない。

 翌朝、公爵から簡単な伝言が届いた。

「回復次第、執務の補助を任せる。
 無理はするな」

 それだけ。

 誘いでも、命令でもない。選択肢として、差し出された言葉。

 アデリーナは、静かに息を吸い、そして頷いた。

「……はい」

 声は小さかったが、迷いはなかった。

 王太子妃でも、婚約者でもない。
 ただの一人の人間として、必要とされる場所。

 クレイン公爵邸での時間は、まだ始まったばかりだ。

 だが、その静かな受け入れは、確実に彼女の足元を支え始めていた。
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