婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第6話 評価は言葉ではなく

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第6話 評価は言葉ではなく

 クレイン公爵邸での朝は早い。

 空が白み始める頃には、すでに中庭では兵の足音が響き、執務棟では灯りが入っていた。
 アデリーナ・フォン・グラーフは、その静かな緊張感の中で目を覚ました。

 客室として用意された部屋は質素だが清潔で、余計な装飾はない。王都で過ごしていた頃より、むしろ落ち着いて眠れることに、彼女自身が驚いていた。

 身支度を整え、廊下へ出ると、すでに数名の使用人が忙しく動いている。誰も彼女を特別扱いしない。ただ必要な挨拶だけを交わし、仕事へ戻っていく。

 それが、心地よかった。

 朝食を終えた頃、伝言が届いた。

「執務室へ」

 短い言葉。差出人は、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵。

 アデリーナは一度深く息を吸い、執務棟へ向かった。

 扉を叩くと、すぐに入室を許される。

 室内には、公爵と数名の側近が集まっていた。机の上には地図、帳簿、報告書が整然と並べられている。

「座れ」

 それだけ言われ、空いている椅子を示された。

 客人ではなく、仕事をする人間として迎えられている。
 その事実が、静かに胸に沁みた。

「今日から、いくつか確認を任せる」

 バルトロメウスは淡々と告げる。

「主に補給と人員配置だ。
 判断は私がする。意見だけ出せ」

「承知しました」

 アデリーナは、迷いなく答えた。

 書類が手渡される。内容は、補給線の再編に伴う人員配置の案だった。現場の状況、負担の偏り、輸送距離の変化。どれも複雑に絡み合っている。

 彼女は、静かに目を通し始めた。

 数字を追い、地図を照らし合わせる。
 王都で培った癖が、自然と蘇る。

 しばらくして、アデリーナは顔を上げた。

「二つ、気になる点があります」

 側近たちの視線が集まる。

「一つ目は、南側の輸送路です。距離は短いですが、坂が多く、冬季は通行が不安定になります。人員を増やすより、季節ごとに切り替えた方が効率的かと」

 地図の一部を指し示しながら、簡潔に説明する。

「二つ目は、補給拠点の担当者です。
 経験の浅い者が集中しています。彼らを責めるのではなく、配置を分散させるべきです」

 言葉は控えめだったが、内容は明確だった。

 しばし、沈黙が流れる。

 側近の一人が口を開いた。

「確かに、現場からも不安の声は出ていましたが……
 そこまで踏み込んで考えてはいませんでした」

 バルトロメウスは、アデリーナから視線を外さず、短く言った。

「修正案を出せ」

「はい」

 それ以上の説明は求められなかった。

 評価も、称賛もない。
 だが、確実に受け入れられている。

 執務は昼まで続いた。

 アデリーナは疲労を感じながらも、不思議と集中が切れなかった。必要とされ、判断の一部を担っている。その感覚が、彼女を支えていた。

 昼休憩の時間、側近の一人が水を差し出してきた。

「……よろしければ」

「ありがとうございます」

 何気ないやり取り。
 だが、その距離は、昨日よりも少しだけ近くなっている気がした。

 午後。

 修正された案が再び執務室に集められる。

 バルトロメウスは一通り目を通し、短く頷いた。

「これでいく」

 即断だった。

 側近たちが一斉に動き出す。誰も異論を挟まない。

 アデリーナは、その光景を静かに見つめていた。

 王都では、決裁のたびに長い会議があり、誰かの顔色をうかがう必要があった。
 だが、ここでは違う。

 判断基準は、明確だ。
 結果が出るかどうか。それだけ。

 執務が一段落した頃、バルトロメウスがふと口を開いた。

「無理はしていないか」

 意外な問いだった。

「……はい。問題ありません」

 そう答えると、公爵は一瞬だけ視線を逸らした。

「倒れた直後だ。
 自覚がなくても、身体は正直だ」

 それだけ言い、再び書類に目を落とす。

 気遣いの言葉としては、あまりにも簡素だ。
 だが、だからこそ、嘘がない。

 夕刻。

 執務室を出ると、空は赤く染まり始めていた。
 中庭では、訓練を終えた兵士たちが整列している。

 その中の一人が、アデリーナに軽く頭を下げた。

「お疲れさまです」

 思わず足を止める。

「……お疲れさまです」

 返した声は、少しだけ照れくさかった。

 夜、部屋に戻り、椅子に腰を下ろす。
 今日一日の内容を思い返す。

 誰も、彼女の過去を問わなかった。
 王太子の名も、婚約破棄の話も出なかった。

 ただ、仕事をし、判断し、結果を出した。

 それだけで、一日が終わる。

「……悪くない」

 小さく呟く。

 ここでは、評価は言葉ではない。
 肩書きでも、立場でもない。

 行動と結果だけが、静かに積み重なっていく。

 その事実が、アデリーナの胸に、確かな重みとして残っていた。

 そして彼女はまだ知らない。

 この静かな積み重ねが、やがて王都を揺るがす力になることを。
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