婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第7話 歯車が噛み合い始める

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第7話 歯車が噛み合い始める

 朝の執務室には、いつもより多くの書類が積まれていた。

 机の上を占領するそれらを前にしても、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵の表情は変わらない。淡々と椅子に腰を下ろし、無駄のない動きで一枚ずつ確認していく。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、その向かいに座っていた。

 すでに「客人」という扱いではない。
 この席が、自然に用意されていること自体が、彼女の立場を物語っていた。

「昨夜の報告だ」

 公爵が一枚の書類を差し出す。

「補給路の再編成後、北側拠点の滞留が解消された」

 その一文を見て、アデリーナは静かに息を吸った。

 数字が示しているのは、想定通りの結果。
 輸送量は増え、遅延は減少し、人員の疲弊も抑えられている。

「……問題は、出ていませんね」

「現場からの不満もない」

 短い言葉だったが、それは確かな成果を意味していた。

 王都で同じ結果が出たなら、会議が開かれ、功績の取り合いが始まるだろう。
 だが、ここでは違う。

 結果は結果として淡々と受け止められ、次の判断へ進む。

 側近の一人が、別の報告を差し出した。

「人員配置の再調整案ですが、現場責任者から追加の要望がありました」

 地図を広げ、該当箇所を示す。

「輸送量が安定したことで、見回りの頻度を増やしたいとのことです」

 アデリーナは地図を覗き込み、少し考えた。

「見回りを増やすのは賛成ですが、時間帯を固定しない方がいいと思います」

 視線を上げ、穏やかに続ける。

「この地域は、街道が見通しの良い場所と悪い場所が混在しています。
 時間を固定すると、逆に隙を作ることになります」

 側近が頷く。

「確かに……」

 バルトロメウスは一瞬だけ地図に目を落とし、すぐに結論を出した。

「不定期巡回に変更。人員は増やさない」

「承知しました」

 その判断に、誰も異を唱えない。

 執務は、静かだが確実に進んでいく。
 一つの意見が受け入れられ、修正され、形になる。

 アデリーナは、ふと気づいていた。

 ここでは、自分の言葉が「確認される」。
 疑われることも、軽んじられることもない。

 それは、これまで経験したことのない感覚だった。

 昼過ぎ、執務が一段落したところで、側近の一人が控えめに口を開いた。

「……失礼ですが」

 アデリーナは視線を向ける。

「王都で、こうした実務を任されていたのですか?」

 一瞬、間が空いた。

 その問いは、詮索ではなく、純粋な疑問だった。

「……補佐として、必要な範囲で」

 そう答えると、側近は納得したように頷いた。

「道理で」

 それ以上は、何も言われなかった。

 過去を掘り返されることも、評価を過剰にされることもない。
 ただ、今の仕事が見られている。

 それが、ありがたかった。

 夕刻。

 中庭では、兵士たちの訓練が終わり、整列が解かれていた。
 アデリーナが回廊を歩いていると、数人の兵が自然に道を空ける。

「……」

 一瞬、戸惑ったが、誰も彼女を見て笑うことはなかった。
 敬意とも、畏れとも違う。

 ただ、仕事を共にする者としての距離感。

 その夜、公爵邸では簡素な夕食が用意された。
 同席したのは、公爵と数名の側近のみ。

 会話は多くない。
 だが、沈黙が重く感じることもなかった。

 食事の終盤、バルトロメウスがふと口を開いた。

「明日から、報告書の一次整理を任せる」

 唐突なようでいて、唐突ではない言葉。

 アデリーナは、少しだけ驚いた。

「……私で、よろしいのですか」

「他に適任はいない」

 それだけだった。

 過剰な期待も、甘い言葉もない。
 だが、それは明確な信頼だった。

「承知しました」

 そう答えると、公爵はそれ以上何も言わなかった。

 部屋に戻り、灯りを落とす。

 椅子に腰を下ろし、今日一日を思い返す。

 自分の意見が形になり、現場が動き、結果が出る。
 その積み重ねが、少しずつ周囲との関係を変えていく。

「……歯車が、合ってきた」

 小さく呟く。

 王都では、歯車は常に誰かの都合で外されてきた。
 だが、ここでは違う。

 噛み合った歯車は、静かに、確実に回り続ける。

 その中心に、自分がいるという実感が、胸に残った。

 アデリーナは、まだ知らない。

 この歯車の回転が、やがて王都の歪みを浮き彫りにし、
 ローデリヒ王太子に取り返しのつかない差を突きつけることを。

 だが今は、ただ前を見て進むだけでよかった。

 ここでの役割は、確実に、自分の居場所になりつつあった。
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