婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第8話 届き始めた噂

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第8話 届き始めた噂

 クレイン公爵邸に、ひときわ慌ただしい朝が訪れていた。

 執務棟の廊下を行き交う足音が、いつもより多い。報告書を抱えた兵士や文官が次々と出入りし、低く抑えた声で言葉を交わしている。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、机に向かいながら、その空気の変化を肌で感じていた。

 報告書の一次整理を任されてから、数日が経つ。
 彼女の仕事は、内容を読み解き、要点をまとめ、優先順位をつけることだった。

 派手さはない。
 だが、ここを誤れば、現場の判断が遅れ、被害が広がる。

 慎重に、だが迷わず。
 紙の上の情報を、現実の動きへと繋げていく。

「……この件は、優先度を上げた方がいい」

 そう呟きながら、赤い印を一つ付ける。

 その直後、扉がノックされた。

「入れ」

 答えると、若い文官が顔を覗かせた。

「失礼します。こちら、北部からの追加報告です」

 差し出された書類に目を通し、アデリーナは眉をわずかに寄せた。

「輸送量は安定していますが、周辺村落で物価が動いていますね」

「はい。商人たちが、少し様子を見始めているようで」

 アデリーナは頷いた。

「補給が安定すると、今度は価格操作が起きやすくなります。
 この段階で放置すると、住民の不満に繋がります」

 文官は、驚いたように目を瞬かせた。

「……そこまで、見ておられるとは」

「予兆です。今なら、まだ対処できます」

 言い切ると、彼女は書類をまとめ直した。

 それを抱え、執務室へ向かう。

 扉を叩くと、すぐに返事があった。

「入れ」

 中では、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が、地図を前に側近と話し合っていた。

「報告があります」

 そう切り出すと、公爵は短く頷いた。

「聞く」

 アデリーナは、手短に状況を説明する。
 補給の安定による副作用、商人の動き、放置した場合のリスク。

「対策としては」

 そう続け、彼女は具体案を提示した。

「一時的に公的倉庫を開放し、価格の基準を示すこと。
 加えて、取引情報を開示すれば、過度な吊り上げは抑えられます」

 沈黙が落ちる。

 側近の一人が、静かに息を吐いた。

「そこまで、想定していなかった……」

 バルトロメウスは、短く結論を出した。

「実行する」

 即断だった。

「通達を準備しろ。
 倉庫の管理者には、私から伝える」

「承知しました」

 側近たちが動き出す。

 アデリーナは、一礼して執務室を後にした。

 廊下を歩きながら、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。

 自分の判断が、領地全体に影響を与える。
 それを、当たり前のように任されている。

 それは、信頼以外の何ものでもなかった。

 昼過ぎ。

 中庭を横切っていると、数人の使用人が小声で話しているのが耳に入った。

「最近、仕事がやりやすくなったと思わない?」

「ええ。通達も分かりやすいし、判断が早い」

「……あの方が来てからよね」

 視線が、ちらりとアデリーナに向けられる。

 だが、慌てて逸らされることはなかった。
 噂話の視線ではない。

 どこか、確かめるような眼差し。

 アデリーナは、何も言わずに通り過ぎた。

 噂は、止めようとして止まるものではない。
 だが、ここではそれが、悪意を帯びていない。

 それが、分かっていた。

 夕刻。

 再び執務室に呼ばれた。

「王都からの連絡だ」

 バルトロメウスは、一通の書簡を机に置いた。

 差出人を見た瞬間、アデリーナの胸がわずかにざわつく。

 王宮。

 具体的な名前は書かれていない。
 だが、そこに込められた意図は、想像に難くなかった。

「最近、こちらの動きが早すぎる、と」

 公爵は淡々と読み上げる。

「理由を探っている」

 アデリーナは、静かに頷いた。

「……気づき始めたのですね」

「遅いくらいだ」

 短い言葉だったが、そこには揺るぎのない自信があった。

「こちらは、通常の領政をしているだけだ。
 後ろ暗いことはない」

 そう言い切り、彼はアデリーナを見た。

「お前の名は出ていない」

 一瞬、安堵が胸をよぎる。

「だが、時間の問題だろう」

 その言葉に、アデリーナは否定しなかった。

 いつかは、王都に知られる。
 自分が、ここで何をしているのか。

「……構いません」

 そう答えた声は、意外なほど落ち着いていた。

「ここでやっていることに、恥じる点はありません」

 バルトロメウスは、わずかに目を細めた。

「その覚悟があるなら、十分だ」

 それ以上、何も言われなかった。

 夜。

 部屋に戻り、窓の外を見つめる。
 国境に近いこの地では、空が広く、星が近い。

 王都にいた頃は、見上げる余裕すらなかった。

 ――噂が、届き始めている。

 それは、恐れるべきものではない。
 自分が、確かに何かを動かしている証だ。

 アデリーナは、静かに目を閉じた。

 追放された令嬢として始まった日々は、
 いつの間にか、領地を支える歯車の一つへと姿を変えていた。

 そしてその歯車の回転は、
 確実に、王都の中心へと近づきつつあった。
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