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第9話 名前を呼ばれぬまま
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第9話 名前を呼ばれぬまま
朝の霧が、まだ庭を覆っていた。
クレイン公爵邸の執務棟では、すでに灯りが入り、静かな動きが始まっている。
アデリーナ・フォン・グラーフは、書類の束を抱え、廊下を歩いていた。
最近、この時間帯にすれ違う顔ぶれが増えた。
兵士、文官、管理官。
彼らは皆、軽く会釈をし、余計な言葉を交わさず、それぞれの持ち場へ向かう。
名前を呼ばれることは、ほとんどない。
だが、呼ばれなくても、彼女が何をしているかは、誰もが知っていた。
執務室に入ると、すでに数名の側近が集まっていた。
机の上には、王都周辺から集められた情報が並んでいる。
「こちらが、昨夜届いた報告です」
一人がそう言って差し出した書類に、アデリーナは目を通した。
王都の市場価格。
近隣諸侯の動向。
そして、王宮内部の小さな混乱。
どれも、表向きには些細な変化だ。
だが、積み重なれば、確実に歪みになる。
「……連動していますね」
自然と、声が漏れた。
「補給の遅れと、価格の不安定化。
王都側の対応が後手に回っています」
側近の一人が、静かに頷く。
「こちらが動くたびに、向こうの綻びが見えるようになってきました」
その言葉に、アデリーナは否定も肯定もしなかった。
ここで起きているのは、勝負ではない。
ただ、機能している組織と、そうでない組織の差が、浮き彫りになっているだけだ。
バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が、地図を指でなぞりながら口を開く。
「王都は、こちらの名を探っている」
短い報告だった。
「だが、まだ特定には至っていない」
アデリーナは、ゆっくりと息を吸った。
「……私の名前は」
「出ていない」
即答だった。
「向こうは、組織としての動きを見ている。
誰か一人の働きだとは、まだ考えていない」
それを聞いて、胸の奥に複雑な感情が生まれる。
安堵と、わずかな違和感。
自分の存在が、まだ影に隠れていること。
それは、安全でもあり、同時に、距離を示してもいた。
昼前。
アデリーナは、補給管理室で現場責任者と打ち合わせをしていた。
「今月分の配分ですが、南側は余裕があります。
北側は、天候次第で変動が出るでしょう」
「予備は、どの程度残せますか」
「一割ほどなら」
短いやり取りが、無駄なく続く。
誰も、彼女に遠慮しない。
必要な質問が投げられ、必要な答えが返る。
それだけで、仕事は進んでいく。
打ち合わせが終わり、廊下へ出たときだった。
「……あの」
背後から、控えめな声がかかる。
振り返ると、若い兵士が立っていた。
どこか緊張した面持ちだ。
「何だ」
そう答えると、兵士は一瞬言葉に詰まり、やがて意を決したように口を開いた。
「最近、補給が安定しています。
その……以前より、現場が楽になりました」
それだけ言って、深く頭を下げる。
名前を呼ばれることはなかった。
だが、感謝の意図は、十分すぎるほど伝わってきた。
「……それは、よかったです」
アデリーナは、静かに答えた。
兵士は安堵したように頷き、去っていく。
その背中を見送りながら、彼女は思った。
評価は、もう十分だ。
必要なのは、肩書きでも称賛でもない。
こうして、現場が回っていること。
それが、何よりの証明だった。
夕刻、再び執務室。
公爵は、一通の書簡を読み終え、机に置いた。
「王都から、追加の問い合わせだ」
「……具体的には」
「補給体制と、決裁速度について」
アデリーナは、わずかに眉を動かした。
「理由を探している、ということですね」
「そうだ」
バルトロメウスは、彼女を見た。
「だが、答える必要はない。
こちらは、通常業務をしているだけだ」
その言葉に、強い意志が感じられた。
誰かを売るつもりはない。
誰かを盾にするつもりもない。
ただ、結果で示す。
それが、この公爵のやり方だった。
夜。
アデリーナは、自室で一日の記録をまとめていた。
数字、判断、修正点。
書き終えたところで、ふと手が止まる。
自分は、まだ名前を呼ばれていない。
だが、確実に、ここに必要とされている。
それは、王都で求めていた承認とは、まったく違う形だった。
「……悪くないですね」
小さく呟き、灯りを落とす。
名前を呼ばれぬまま、歯車として回り続ける。
だが、その歯車は、もはや誰にも無視できないほどの力を持ち始めていた。
そしてその回転は、
静かに、確実に、王都の中枢へと影を伸ばしていく。
ローデリヒ王太子が、まだその名を知らぬまま。
朝の霧が、まだ庭を覆っていた。
クレイン公爵邸の執務棟では、すでに灯りが入り、静かな動きが始まっている。
アデリーナ・フォン・グラーフは、書類の束を抱え、廊下を歩いていた。
最近、この時間帯にすれ違う顔ぶれが増えた。
兵士、文官、管理官。
彼らは皆、軽く会釈をし、余計な言葉を交わさず、それぞれの持ち場へ向かう。
名前を呼ばれることは、ほとんどない。
だが、呼ばれなくても、彼女が何をしているかは、誰もが知っていた。
執務室に入ると、すでに数名の側近が集まっていた。
机の上には、王都周辺から集められた情報が並んでいる。
「こちらが、昨夜届いた報告です」
一人がそう言って差し出した書類に、アデリーナは目を通した。
王都の市場価格。
近隣諸侯の動向。
そして、王宮内部の小さな混乱。
どれも、表向きには些細な変化だ。
だが、積み重なれば、確実に歪みになる。
「……連動していますね」
自然と、声が漏れた。
「補給の遅れと、価格の不安定化。
王都側の対応が後手に回っています」
側近の一人が、静かに頷く。
「こちらが動くたびに、向こうの綻びが見えるようになってきました」
その言葉に、アデリーナは否定も肯定もしなかった。
ここで起きているのは、勝負ではない。
ただ、機能している組織と、そうでない組織の差が、浮き彫りになっているだけだ。
バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が、地図を指でなぞりながら口を開く。
「王都は、こちらの名を探っている」
短い報告だった。
「だが、まだ特定には至っていない」
アデリーナは、ゆっくりと息を吸った。
「……私の名前は」
「出ていない」
即答だった。
「向こうは、組織としての動きを見ている。
誰か一人の働きだとは、まだ考えていない」
それを聞いて、胸の奥に複雑な感情が生まれる。
安堵と、わずかな違和感。
自分の存在が、まだ影に隠れていること。
それは、安全でもあり、同時に、距離を示してもいた。
昼前。
アデリーナは、補給管理室で現場責任者と打ち合わせをしていた。
「今月分の配分ですが、南側は余裕があります。
北側は、天候次第で変動が出るでしょう」
「予備は、どの程度残せますか」
「一割ほどなら」
短いやり取りが、無駄なく続く。
誰も、彼女に遠慮しない。
必要な質問が投げられ、必要な答えが返る。
それだけで、仕事は進んでいく。
打ち合わせが終わり、廊下へ出たときだった。
「……あの」
背後から、控えめな声がかかる。
振り返ると、若い兵士が立っていた。
どこか緊張した面持ちだ。
「何だ」
そう答えると、兵士は一瞬言葉に詰まり、やがて意を決したように口を開いた。
「最近、補給が安定しています。
その……以前より、現場が楽になりました」
それだけ言って、深く頭を下げる。
名前を呼ばれることはなかった。
だが、感謝の意図は、十分すぎるほど伝わってきた。
「……それは、よかったです」
アデリーナは、静かに答えた。
兵士は安堵したように頷き、去っていく。
その背中を見送りながら、彼女は思った。
評価は、もう十分だ。
必要なのは、肩書きでも称賛でもない。
こうして、現場が回っていること。
それが、何よりの証明だった。
夕刻、再び執務室。
公爵は、一通の書簡を読み終え、机に置いた。
「王都から、追加の問い合わせだ」
「……具体的には」
「補給体制と、決裁速度について」
アデリーナは、わずかに眉を動かした。
「理由を探している、ということですね」
「そうだ」
バルトロメウスは、彼女を見た。
「だが、答える必要はない。
こちらは、通常業務をしているだけだ」
その言葉に、強い意志が感じられた。
誰かを売るつもりはない。
誰かを盾にするつもりもない。
ただ、結果で示す。
それが、この公爵のやり方だった。
夜。
アデリーナは、自室で一日の記録をまとめていた。
数字、判断、修正点。
書き終えたところで、ふと手が止まる。
自分は、まだ名前を呼ばれていない。
だが、確実に、ここに必要とされている。
それは、王都で求めていた承認とは、まったく違う形だった。
「……悪くないですね」
小さく呟き、灯りを落とす。
名前を呼ばれぬまま、歯車として回り続ける。
だが、その歯車は、もはや誰にも無視できないほどの力を持ち始めていた。
そしてその回転は、
静かに、確実に、王都の中枢へと影を伸ばしていく。
ローデリヒ王太子が、まだその名を知らぬまま。
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