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第10話 戻れぬ距離
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第10話 戻れぬ距離
王都の名が、再び執務室に持ち込まれたのは、午後も深まった頃だった。
クレイン公爵邸の執務棟は、相変わらず静かだった。
書類をめくる音と、羽根ペンが紙を擦る音だけが、淡々と時間を刻んでいる。
アデリーナ・フォン・グラーフは、整理を終えた報告書を一束まとめ、机の端に置いた。
「以上が、本日の一次整理です」
簡潔にそう告げると、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵は短く頷いた。
「確認する」
それだけで、十分だった。
彼女がこの屋敷に来てから、十日あまり。
もはや「元王太子の婚約者」という肩書きは、ここでは何の意味も持たない。
ただ、仕事がある。
判断があり、結果が出る。
その積み重ねが、静かに距離を作っていく。
公爵は、一通の書簡を手に取った。
「王都からだ」
その一言に、側近たちの視線が集まる。
「内容は」
「協力要請」
短く答え、公爵は書簡を机に置いた。
アデリーナは、無意識に背筋を伸ばしていた。
ついに、来たのだと理解したからだ。
「補給体制の助言を求めている。
名目は、近隣領との連携強化」
側近の一人が、鼻で小さく息を吐いた。
「ずいぶん都合のいい話ですね」
バルトロメウスは、感情を交えずに言った。
「こちらの判断次第だ」
その視線が、自然とアデリーナへ向けられる。
意見を求めている。
だが、決定を押しつける気はない。
「……形式的に応じることはできます」
アデリーナは、静かに言葉を選んだ。
「ただし、具体的な改善案を渡す必要はありません。
こちらの内部事情を、向こうに教える理由もありませんから」
「理由は」
「王都は、まだ“何が足りないのか”を理解していない。
理解できていない相手に、答えだけ渡しても、同じ混乱を繰り返します」
淡々とした説明だった。
王都で、何度も見てきた光景。
根本を直さず、対症療法だけを欲しがる姿勢。
バルトロメウスは、しばらく沈黙した後、短く言った。
「その通りだ」
決断は早かった。
「形式的な返書を出す。
こちらは通常業務を続ける」
「承知しました」
側近たちが一斉に動き出す。
その中で、アデリーナは、胸の奥にわずかな感情の揺れを感じていた。
もし、これが少し前だったなら。
王都からの要請に、胸がざわつき、期待と不安が入り混じっていただろう。
だが、今は違う。
そこにあるのは、距離だった。
夕刻。
公爵邸の回廊を歩いていると、外で馬のいななきが聞こえた。
中庭を見ると、伝令らしき騎士が到着している。
また、王都からか。
そう思った瞬間、胸がざわつかない自分に、アデリーナは気づいた。
以前なら、王都の動き一つで、一日中気を取られていた。
だが今は、目の前の仕事の方が、はるかに重要だ。
それが、答えだった。
夜。
執務を終え、自室で簡単な記録をまとめる。
今日の判断、保留した案件、明日の優先事項。
紙に文字を落としながら、ふと、過去の自分を思い出す。
王太子ローデリヒの隣で、常に一歩下がって立っていた自分。
意見は求められても、判断は任されなかった日々。
あの頃は、それが当たり前だと思っていた。
だが今は。
ここでは、判断が積み重なり、結果が残る。
誰かの影になることもない。
「……もう、戻れませんね」
小さく呟いた言葉は、後悔ではなかった。
王都に戻れない、という意味ではない。
あの頃の自分に、もう戻れない、という意味だ。
王都から届く書簡は、確かにこちらを気にしている。
だが、それは追いつこうとしている証拠であって、対等になった証ではない。
距離は、すでに決定的に開いている。
灯りを落とし、窓の外を見る。
国境の夜は静かで、風の音だけが聞こえる。
遠くにある王都の喧騒は、もう想像の中でしか感じられなかった。
アデリーナは、静かに目を閉じる。
追放された令嬢として始まった日々は、
いつの間にか、選ばれる側から、選ぶ側へと立場を変えていた。
そしてその変化は、
王都との間に、もう二度と埋まらない距離を作り出していた。
ローデリヒ王太子が、どれほど手を伸ばそうとも。
王都の名が、再び執務室に持ち込まれたのは、午後も深まった頃だった。
クレイン公爵邸の執務棟は、相変わらず静かだった。
書類をめくる音と、羽根ペンが紙を擦る音だけが、淡々と時間を刻んでいる。
アデリーナ・フォン・グラーフは、整理を終えた報告書を一束まとめ、机の端に置いた。
「以上が、本日の一次整理です」
簡潔にそう告げると、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵は短く頷いた。
「確認する」
それだけで、十分だった。
彼女がこの屋敷に来てから、十日あまり。
もはや「元王太子の婚約者」という肩書きは、ここでは何の意味も持たない。
ただ、仕事がある。
判断があり、結果が出る。
その積み重ねが、静かに距離を作っていく。
公爵は、一通の書簡を手に取った。
「王都からだ」
その一言に、側近たちの視線が集まる。
「内容は」
「協力要請」
短く答え、公爵は書簡を机に置いた。
アデリーナは、無意識に背筋を伸ばしていた。
ついに、来たのだと理解したからだ。
「補給体制の助言を求めている。
名目は、近隣領との連携強化」
側近の一人が、鼻で小さく息を吐いた。
「ずいぶん都合のいい話ですね」
バルトロメウスは、感情を交えずに言った。
「こちらの判断次第だ」
その視線が、自然とアデリーナへ向けられる。
意見を求めている。
だが、決定を押しつける気はない。
「……形式的に応じることはできます」
アデリーナは、静かに言葉を選んだ。
「ただし、具体的な改善案を渡す必要はありません。
こちらの内部事情を、向こうに教える理由もありませんから」
「理由は」
「王都は、まだ“何が足りないのか”を理解していない。
理解できていない相手に、答えだけ渡しても、同じ混乱を繰り返します」
淡々とした説明だった。
王都で、何度も見てきた光景。
根本を直さず、対症療法だけを欲しがる姿勢。
バルトロメウスは、しばらく沈黙した後、短く言った。
「その通りだ」
決断は早かった。
「形式的な返書を出す。
こちらは通常業務を続ける」
「承知しました」
側近たちが一斉に動き出す。
その中で、アデリーナは、胸の奥にわずかな感情の揺れを感じていた。
もし、これが少し前だったなら。
王都からの要請に、胸がざわつき、期待と不安が入り混じっていただろう。
だが、今は違う。
そこにあるのは、距離だった。
夕刻。
公爵邸の回廊を歩いていると、外で馬のいななきが聞こえた。
中庭を見ると、伝令らしき騎士が到着している。
また、王都からか。
そう思った瞬間、胸がざわつかない自分に、アデリーナは気づいた。
以前なら、王都の動き一つで、一日中気を取られていた。
だが今は、目の前の仕事の方が、はるかに重要だ。
それが、答えだった。
夜。
執務を終え、自室で簡単な記録をまとめる。
今日の判断、保留した案件、明日の優先事項。
紙に文字を落としながら、ふと、過去の自分を思い出す。
王太子ローデリヒの隣で、常に一歩下がって立っていた自分。
意見は求められても、判断は任されなかった日々。
あの頃は、それが当たり前だと思っていた。
だが今は。
ここでは、判断が積み重なり、結果が残る。
誰かの影になることもない。
「……もう、戻れませんね」
小さく呟いた言葉は、後悔ではなかった。
王都に戻れない、という意味ではない。
あの頃の自分に、もう戻れない、という意味だ。
王都から届く書簡は、確かにこちらを気にしている。
だが、それは追いつこうとしている証拠であって、対等になった証ではない。
距離は、すでに決定的に開いている。
灯りを落とし、窓の外を見る。
国境の夜は静かで、風の音だけが聞こえる。
遠くにある王都の喧騒は、もう想像の中でしか感じられなかった。
アデリーナは、静かに目を閉じる。
追放された令嬢として始まった日々は、
いつの間にか、選ばれる側から、選ぶ側へと立場を変えていた。
そしてその変化は、
王都との間に、もう二度と埋まらない距離を作り出していた。
ローデリヒ王太子が、どれほど手を伸ばそうとも。
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