婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第30話 選ばない自由

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第30話 選ばない自由

 朝の光が、執務室の床に細い帯を落としていた。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、その光を一瞥してから、机に向かった。
 今日も、急ぎの案件はない。
 判断を仰ぐ書簡も、緊急の要請も届いていない。

 それは、怠慢ではなく、到達だった。

「……本当に、何もありませんね」

 側近が、半ば冗談めかして言う。

「ええ」

 アデリーナは、穏やかに答えた。

「そして、それが問題ではない、という状態です」

 かつてなら、
 “何も起きていない”ことは、彼女にとって不安の種だった。

 自分が必要とされていないのではないか。
 どこかで、誰かが困っているのではないか。

 だが今は、違う。

 何も起きていないという事実を、
 そのまま受け取れる。

 午前中、管理官の一人が、軽い相談を持ってきた。

「この案件ですが、二つの対応案があります」

「あなたは、どちらを選びますか」

「……こちらです」

「理由は」

「基準から外れませんし、
 次に同じことが起きても再現できます」

 アデリーナは、頷いた。

「では、それで」

 それだけで、話は終わる。

 確認も、承認も、指示もない。
 ただ、判断が尊重されただけだ。

 側近が、小さく息を吐く。

「本当に……
 あなたがいなくても、回っていますね」

「はい」

 アデリーナは、否定しなかった。

「それが、正しい形です」

 昼過ぎ、久しぶりに私的な書簡が届いた。

 差出人は、王都に残る知人。
 内容は、こうだ。

 ――今後の進路について、何かお考えはありますか。

 アデリーナは、しばらくその一文を眺めてから、書簡を閉じた。

 進路。

 その言葉は、
 何かを選ばなければならない、という前提を含んでいる。

 次の役割。
 次の立場。
 次の責任。

 だが今の彼女には、
 その前提自体が、少しだけ窮屈に感じられた。

「……選ばない、という選択もありますね」

 独り言のように呟く。

 午後、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が、静かに問いかけた。

「次は、どうする」

 その問いには、圧がなかった。
 期待も、誘導もない。

 ただ、純粋な確認だ。

 アデリーナは、少し考えてから答えた。

「今は、何も選びません」

「理由は」

「選ばなくても、困らないからです」

 公爵は、短く息を吐いた。

「……強くなったな」

「いいえ」

 アデリーナは、首を横に振る。

「軽くなっただけです」

 役割を背負わない。
 期待に応え続けない。
 誰かの未来を代わりに選ばない。

 それは、逃げではない。

 ようやく手に入れた、自由だった。

 夜。

 灯りを落とした部屋で、アデリーナは静かに椅子に腰を下ろした。

 これまでの人生は、
 常に“次”を求められてきた。

 次の判断。
 次の責任。
 次の役割。

 立ち止まることは、許されなかった。

 だが今、
 立ち止まっても、世界は崩れない。

 それどころか、
 自分が動かなくても、
 ちゃんと前へ進んでいる。

「……選ばない自由」

 その言葉を、心の中で繰り返す。

 何者かにならなくていい。
 何かを背負わなくていい。

 必要になったときに、
 初めて選べばいい。

 窓の外では、夜風が静かに吹いている。
 それは、急かす風ではない。

 待つことを許す風だ。

 アデリーナは、目を閉じた。

 選ばない、という選択。
 それは、何も失わない選択だった。

 むしろ、
 これから何にでもなれる余白を、
 そのまま残す選択だった。

 世界は、彼女に何も求めていない。
 だからこそ、彼女は、
 初めて自分のために、生きていける。

 選ばない自由を胸に、
 アデリーナ・フォン・グラーフの時間は、
 静かに、しかし確かに、次へと流れていった。
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