婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第29話 空白に風が通る

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第29話 空白に風が通る

 朝の空気が、いつもより軽く感じられた。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、窓を開けたまま、しばらく外を眺めていた。
 雲の流れは穏やかで、遠くから聞こえる人の声も、どこか落ち着いている。

 王都との関係が整理され、
 王太子という存在が、完全に過去へと退いた今、
 世界は驚くほど静かだった。

 それは、嵐の前触れではない。
 余計なものが消えたあとの、澄んだ静けさだった。

 執務室に入ると、机の上には報告書が整然と並んでいる。
 急ぎの案件はない。
 判断を仰ぐ要請もない。

「……今日は、珍しいですね」

 側近が、少しだけ肩の力を抜いた声で言う。

「ええ」

 アデリーナは、穏やかに頷いた。

「空白が、ちゃんと空白として残っています」

 これまでの彼女なら、
 その空白を埋めようとしただろう。

 何かしなければならない。
 誰かを助けなければならない。
 役に立たなければならない。

 だが今は違う。

 空白は、埋めるためにあるのではない。
 風を通すためにある。

 昼前、管理官の一人が報告に来た。

「新任の担当者が、基準の読み込みを終えました」

「質問は」

「いくつか。
 ですが、自分で答えを探しています」

 アデリーナは、その言葉に小さく微笑んだ。

「良い兆候ですね」

 誰かに聞く前に、自分で考える。
 それが、当たり前になりつつある。

 彼女がここに来た理由は、
 その当たり前を作ることだった。

 午後、久しぶりに時間が空いた。

 アデリーナは、執務室を離れ、中庭を歩いた。
 花壇の手入れをしている使用人が、軽く会釈をする。

「お加減はいかがですか」

「ええ、とても」

 そのやり取りに、役割はない。
 期待も、評価もない。

 ただの、人と人の会話だ。

 それが、少しだけ新鮮だった。

 夕刻、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が、珍しく雑談を持ちかけてきた。

「最近、忙しくないな」

「そうですね」

「退屈か」

 アデリーナは、少し考えてから答えた。

「いいえ。
 やっと、余裕ができました」

 余裕とは、
 何もしない時間ではない。

 選べる時間だ。

 夜。

 灯りを落とした部屋で、アデリーナは椅子に腰を下ろし、静かに目を閉じた。

 かつて、彼女の人生は、
 誰かの都合で埋め尽くされていた。

 婚約者として。
 補佐官として。
 必要とされる存在として。

 だが今、そのすべてが消え、
 代わりに、空白が残っている。

 不安は、ない。

 空白に、風が通っているのが分かるからだ。

 新しい選択。
 新しい関係。
 まだ名付けられていない未来。

 それらが、
 この余白に、静かに入り込んでくる。

「……悪くないですね」

 誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

 役割を失ったのではない。
 役割を選べる場所に、辿り着いただけだ。

 空白は、終わりではない。
 始まりの前触れだ。

 夜風が、カーテンを揺らす。

 アデリーナは、その風を拒まず、ただ受け入れていた。

 これから先、
 何を選ぶかは、まだ決めていない。

 だが、それでいい。

 空白に風が通る限り、
 彼女の時間は、確かに前へ進んでいるのだから。
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