婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

文字の大きさ
31 / 39

第32話 何者でもない時間

しおりを挟む
第32話 何者でもない時間

 朝の光は、特別な意味を持たなくなっていた。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、窓辺に立ち、差し込む光をただ受け止める。
 今日もまた、誰かの予定表に名前は載っていない。
 呼び出しも、要請も、期限もない。

 それは、解放だった。

 身支度を終え、廊下を歩く。
 足音は一定で、急ぎも迷いもない。

「おはようございます」

「ええ、おはよう」

 挨拶は交わされるが、続きはない。
 判断を仰ぐ言葉も、相談の前置きも、もう付いてこない。

 執務室に入ると、机は整っていた。
 置かれている書類は、情報としての共有用だ。
 決断を迫るものではない。

「……今日は、読むだけですね」

 側近が、半ば確認するように言う。

「はい」

 アデリーナは、短く答えた。

「読むだけで、十分です」

 かつては、読むことが始まりだった。
 次の指示、次の調整、次の責任へと続く合図。

 だが今は、読むことが終わりになる。

 午前中、彼女は書類に目を通し、必要な箇所に付箋を貼るだけで席を立った。
 誰かに渡す必要も、回覧を急かす必要もない。

 中庭に出ると、風が穏やかに吹いていた。
 花壇の端で、若い使用人が水を撒いている。

「今日は、いい天気ですね」

「ええ。
 作業がはかどります」

 それだけの会話。
 そこに、身分や役割の影はない。

 アデリーナは、しばらく歩き、ベンチに腰を下ろした。
 何を考えるでもなく、ただ、時間が流れるのを感じる。

 何者でもない時間。

 それは、怠惰ではない。
 準備でも、待機でもない。

 ただ、存在している時間だ。

 昼前、管理官の一人が、通りすがりに言った。

「午後の作業、予定通り進みます」

「分かりました」

 それで終わり。
 確認は成立し、会話は完結する。

 誰も、彼女の判断を前提にしていない。
 それが、当たり前になっている。

 昼食は、簡素だった。
 一人で、静かに。

 食事の合間に、ふと思う。

 もし、今、何かを選べと言われたら。
 新しい役割。
 新しい肩書き。
 新しい期待。

 きっと、断るだろう。

 理由は、簡単だ。

 今は、何者でもない時間が、必要だから。

 午後、執務室に戻ると、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵からの短い伝言が届いていた。

 特に問題なし。
 現状維持。

 それだけの文言に、アデリーナは小さく頷いた。

「……十分ですね」

 世界は、彼女に何も求めていない。
 だからこそ、彼女も、世界に何も差し出さなくていい。

 夕刻、空が茜色に染まる頃、彼女は再び中庭に出た。
 一日の終わりを、ただ眺める。

 これまでの人生では、
 終わりは次の始まりの合図だった。

 今日中に決めること。
 明日のために整えること。

 だが今は違う。

 終わりは、ただの終わりだ。

 夜。

 部屋の灯りを落とし、アデリーナは椅子に腰を下ろした。
 静寂は、耳に痛くない。

「……何者でもない、ということ」

 心の中で、その言葉を転がす。

 それは、空っぽではない。
 むしろ、満ちている。

 名前も、役割も、期待も、
 一度すべて脇に置いた場所。

 そこに立って、初めて見える景色がある。

 自分が何をしたいのか。
 何をしないでいたいのか。

 答えは、まだない。
 だが、それでいい。

 今は、問わない時間なのだから。

 窓の外では、夜風が静かに通り過ぎる。
 空白に風が通るように、
 彼女の時間にも、無理のない流れが戻ってきていた。

 何者でもない時間。

 それは、
 これから何者にもなれる可能性を、
 静かに、確かに、守ってくれる時間だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

心配するな、俺の本命は別にいる——冷酷王太子と籠の花嫁

柴田はつみ
恋愛
王国の公爵令嬢セレーネは、家を守るために王太子レオニスとの政略結婚を命じられる。 婚約の儀の日、彼が告げた冷酷な一言——「心配するな。俺の好きな人は別にいる」。 その言葉はセレーネの心を深く傷つけ、王宮での新たな生活は噂と誤解に満ちていく。 好きな人が別にいるはずの彼が、なぜか自分にだけ独占欲を見せる。 嫉妬、疑念、陰謀が渦巻くなかで明らかになる「真実」。 契約から始まった婚約は、やがて運命を変える愛の物語へと変わっていく——。

私ってわがまま傲慢令嬢なんですか?

山科ひさき
恋愛
政略的に結ばれた婚約とはいえ、婚約者のアランとはそれなりにうまくやれていると思っていた。けれどある日、メアリはアランが自分のことを「わがままで傲慢」だと友人に話している場面に居合わせてしまう。話を聞いていると、なぜかアランはこの婚約がメアリのわがままで結ばれたものだと誤解しているようで……。

新婚初夜に『白い結婚にしてほしい』と言われたので論理的に詰めたら夫が泣きました

ささい
恋愛
「愛人がいるから、白い結婚にしてほしい」 政略結婚の初夜にそう告げた夫ルーファス。 妻カレンの反応は—— 「それ、契約不履行ですよね?」 「あなたの感情論、論理的に破綻してますよ?」 泣き落としは通じない。 そして初夜の翌朝、夫は泣いていた。 逃げ道は全部塞がれ、気づけば毎日論破されていた。 これは、論破され続けた夫がなぜか幸せになる話。

せめて、淑女らしく~お飾りの妻だと思っていました

藍田ひびき
恋愛
「最初に言っておく。俺の愛を求めるようなことはしないで欲しい」  リュシエンヌは婚約者のオーバン・ルヴェリエ伯爵からそう告げられる。不本意であっても傷物令嬢であるリュシエンヌには、もう後はない。 「お飾りの妻でも構わないわ。淑女らしく務めてみせましょう」  そうしてオーバンへ嫁いだリュシエンヌは正妻としての務めを精力的にこなし、徐々に夫の態度も軟化していく。しかしそこにオーバンと第三王女が恋仲であるという噂を聞かされて……? ※ なろうにも投稿しています。

【完結】恋人にしたい人と結婚したい人とは別だよね?―――激しく同意するので別れましょう

冬馬亮
恋愛
「恋人にしたい人と結婚したい人とは別だよね?」 セシリエの婚約者、イアーゴはそう言った。 少し離れた後ろの席で、婚約者にその台詞を聞かれているとも知らずに。 ※たぶん全部で15〜20話くらいの予定です。 さくさく進みます。

旦那様、本当によろしいのですか?【完結】

翔千
恋愛
ロロビア王国、アークライド公爵家の娘ロザリア・ミラ・アークライドは夫のファーガスと結婚し、順風満帆の結婚生活・・・・・とは言い難い生活を送って来た。 なかなか子供を授かれず、夫はいつしかロザリアにに無関心なり、義母には子供が授からないことを責められていた。 そんな毎日をロザリアは笑顔で受け流していた。そんな、ある日、 「今日から愛しのサンドラがこの屋敷に住むから、お前は出て行け」 突然夫にそう告げられた。 夫の隣には豊満ボディの美人さんと嘲るように笑う義母。 理由も理不尽。だが、ロザリアは、 「旦那様、本当によろしいのですか?」 そういつもの微笑みを浮かべていた。

〖完結〗終着駅のパッセージ

苺迷音
恋愛
分厚い眼鏡と、ひっつめた髪を毛糸帽で覆う女性・カレン。 彼女はとある想いを胸に北へ向かう蒸気機関車に乗っていた。 王都から離れてゆく車窓を眺めながら、カレンは夫と婚姻してから三年という長い時間を振り返る。 その間、夫が帰宅したのは数えるほどだった。 ※ご覧いただけましたらとても嬉しいです。よろしくお願いいたします。

《本編完結》あの人を綺麗さっぱり忘れる方法

本見りん
恋愛
メラニー アイスナー子爵令嬢はある日婚約者ディートマーから『婚約破棄』を言い渡される。  ショックで落ち込み、彼と婚約者として過ごした日々を思い出して涙していた───が。  ……あれ? 私ってずっと虐げられてない? 彼からはずっと嫌な目にあった思い出しかないんだけど!?  やっと自分が虐げられていたと気付き目が覚めたメラニー。  しかも両親も昔からディートマーに騙されている為、両親の説得から始めなければならない。  そしてこの王国ではかつて王子がやらかした『婚約破棄騒動』の為に、世間では『婚約破棄、ダメ、絶対』な風潮がある。    自分の思うようにする為に手段を選ばないだろう元婚約者ディートマーから、メラニーは無事自由を勝ち取る事が出来るのだろうか……。

処理中です...