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第33話 何も起こらないという出来事
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第33話 何も起こらないという出来事
朝の空気は、昨日とほとんど変わらなかった。
変わらない、という事実に、アデリーナ・フォン・グラーフはもう違和感を覚えない。
以前なら、変化がないこと自体が警告だった。
どこかで問題が隠れているのではないか。
誰かが声を上げられずにいるのではないか。
だが今は違う。
何も起こらないことが、きちんと管理され、維持されている結果だと分かっている。
廊下を歩く足取りは、一定だ。
急ぐ必要も、立ち止まる理由もない。
「おはようございます」
「ええ、おはよう」
挨拶は交わされるが、続く言葉はない。
それが、当たり前になっていた。
執務室に入ると、机の上には数枚の書類が置かれている。
どれも、参考情報だ。
決断を迫るものではない。
「今日も、静かですね」
側近が、少しだけ不思議そうに言う。
「はい」
アデリーナは、頷いた。
「何も起こらない、という出来事が続いています」
それは皮肉でも、冗談でもなかった。
危機は、常に物語を動かす。
だが、平穏は、物語にすらならない。
だからこそ、人は平穏を軽視する。
午前中、彼女は書類に軽く目を通した後、机を離れた。
確認のための確認も、念押しも必要ない。
中庭では、使用人たちがそれぞれの仕事をしている。
誰も慌てていない。
誰も、誰かを探していない。
アデリーナは、その光景をしばらく眺めていた。
かつては、自分が中心にいなければ、
この均衡は保てないと思っていた。
だが現実は違う。
中心が消えても、
均衡は、別の形で保たれる。
昼前、管理官の一人が、報告というより、確認に近い声で言った。
「本日の進捗、予定通りです」
「ありがとうございます」
それだけで会話は終わる。
そこに、判断はない。
依存もない。
ただ、共有があるだけだ。
昼食は、静かな食堂で取った。
食器の音が、必要以上に大きく聞こえるほど、周囲は落ち着いている。
「……本当に、何も起こりませんね」
思わず、独り言が漏れた。
だが、その言葉に、嘆きはない。
何も起こらないということは、
誰かが犠牲になっていないということだ。
午後、執務室に戻ると、窓から入る光が少し傾いていた。
時間が、穏やかに進んでいる。
バルトロメウス・フォン・クレイン公爵からの短い連絡が届く。
問題なし。
特記事項なし。
それは、これ以上ない報告だった。
「……これで、いいのですね」
アデリーナは、小さく息を吐いた。
かつては、
何かを成し遂げなければ価値がないと思っていた。
成果を出し、
評価され、
名前を呼ばれ続けなければならない、と。
だが今は、
何も起こらない一日を、
そのまま肯定できる。
夕刻、空がゆっくりと色を変えていく。
誰かの決断によってではなく、
ただ、時間が流れた結果として。
夜。
灯りを落とした部屋で、アデリーナは椅子に腰を下ろした。
今日一日を思い返す。
事件はなかった。
対立もなかった。
選択を迫られる瞬間もなかった。
それでも、一日は確かに過ぎた。
「……何も起こらない、という出来事」
その言葉は、もう否定的には響かない。
それは、
守られている証であり、
積み重ねの結果であり、
誰かが無理をしていない証拠だ。
物語としては、退屈かもしれない。
だが、生きる時間としては、これ以上なく誠実だ。
アデリーナは、目を閉じた。
明日もまた、
何も起こらないかもしれない。
だが、それでいい。
何も起こらない日々こそが、
彼女がずっと求めていた、
本当の到達点なのだから。
静かな夜の中で、
世界は、今日も無事に終わっていた。
朝の空気は、昨日とほとんど変わらなかった。
変わらない、という事実に、アデリーナ・フォン・グラーフはもう違和感を覚えない。
以前なら、変化がないこと自体が警告だった。
どこかで問題が隠れているのではないか。
誰かが声を上げられずにいるのではないか。
だが今は違う。
何も起こらないことが、きちんと管理され、維持されている結果だと分かっている。
廊下を歩く足取りは、一定だ。
急ぐ必要も、立ち止まる理由もない。
「おはようございます」
「ええ、おはよう」
挨拶は交わされるが、続く言葉はない。
それが、当たり前になっていた。
執務室に入ると、机の上には数枚の書類が置かれている。
どれも、参考情報だ。
決断を迫るものではない。
「今日も、静かですね」
側近が、少しだけ不思議そうに言う。
「はい」
アデリーナは、頷いた。
「何も起こらない、という出来事が続いています」
それは皮肉でも、冗談でもなかった。
危機は、常に物語を動かす。
だが、平穏は、物語にすらならない。
だからこそ、人は平穏を軽視する。
午前中、彼女は書類に軽く目を通した後、机を離れた。
確認のための確認も、念押しも必要ない。
中庭では、使用人たちがそれぞれの仕事をしている。
誰も慌てていない。
誰も、誰かを探していない。
アデリーナは、その光景をしばらく眺めていた。
かつては、自分が中心にいなければ、
この均衡は保てないと思っていた。
だが現実は違う。
中心が消えても、
均衡は、別の形で保たれる。
昼前、管理官の一人が、報告というより、確認に近い声で言った。
「本日の進捗、予定通りです」
「ありがとうございます」
それだけで会話は終わる。
そこに、判断はない。
依存もない。
ただ、共有があるだけだ。
昼食は、静かな食堂で取った。
食器の音が、必要以上に大きく聞こえるほど、周囲は落ち着いている。
「……本当に、何も起こりませんね」
思わず、独り言が漏れた。
だが、その言葉に、嘆きはない。
何も起こらないということは、
誰かが犠牲になっていないということだ。
午後、執務室に戻ると、窓から入る光が少し傾いていた。
時間が、穏やかに進んでいる。
バルトロメウス・フォン・クレイン公爵からの短い連絡が届く。
問題なし。
特記事項なし。
それは、これ以上ない報告だった。
「……これで、いいのですね」
アデリーナは、小さく息を吐いた。
かつては、
何かを成し遂げなければ価値がないと思っていた。
成果を出し、
評価され、
名前を呼ばれ続けなければならない、と。
だが今は、
何も起こらない一日を、
そのまま肯定できる。
夕刻、空がゆっくりと色を変えていく。
誰かの決断によってではなく、
ただ、時間が流れた結果として。
夜。
灯りを落とした部屋で、アデリーナは椅子に腰を下ろした。
今日一日を思い返す。
事件はなかった。
対立もなかった。
選択を迫られる瞬間もなかった。
それでも、一日は確かに過ぎた。
「……何も起こらない、という出来事」
その言葉は、もう否定的には響かない。
それは、
守られている証であり、
積み重ねの結果であり、
誰かが無理をしていない証拠だ。
物語としては、退屈かもしれない。
だが、生きる時間としては、これ以上なく誠実だ。
アデリーナは、目を閉じた。
明日もまた、
何も起こらないかもしれない。
だが、それでいい。
何も起こらない日々こそが、
彼女がずっと求めていた、
本当の到達点なのだから。
静かな夜の中で、
世界は、今日も無事に終わっていた。
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