婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第34話 何かをしない決断

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第34話 何かをしない決断

 朝の空気に、わずかな変化が混じっていた。

 それは不穏さではない。
 騒ぎの予兆でもない。

 ただ、「何かが起こり得る状態」が戻ってきた、という感覚だった。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、窓辺に立ち、外を眺めながらその感覚を確かめていた。
 風は穏やかで、雲の流れもゆっくりだ。

 だが、世界は静止しているわけではない。

 執務室に入ると、机の上には一通の書簡が置かれていた。
 封は、すでに開かれている。

 王都からの提案だった。

 内容は簡潔で、しかし重い。

 ――新たな諮問機関の設立にあたり、助言役として関与してほしい。

 アデリーナは、文面を最後まで読み、静かに紙を机に置いた。

「……来ましたね」

 側近が、声を落として言う。

「はい」

 アデリーナは、頷いた。

「いずれは、と思っていました」

 完全な沈黙は、永遠には続かない。
 整った組織は、やがて余力を見つけ、
 次の改善点を探し始める。

 そのとき、
 過去に仕組みを整えた人物の名前が、
 再び浮上するのは、自然な流れだ。

「どうされますか」

 問いかけには、期待も不安も混じっていた。

 アデリーナは、すぐには答えなかった。
 書簡を指でなぞり、しばらく考える。

 助言役。
 諮問機関。

 肩書きは軽そうに見えるが、
 実態は、再び「判断の中心」に近づく役割だ。

 意見を求められ、
 方向性を示し、
 最終的な責任は曖昧なまま、影響力だけが残る。

 かつての自分が、
 最も長く縛られていた立場だった。

「……お断りします」

 答えは、静かだった。

 側近が、目を見開く。

「よろしいのですか」

「はい」

 アデリーナは、迷いなく言った。

「今の体制は、
 私が関与しなくても、考え、選び、修正できます」

 それは、信頼でもあり、距離でもあった。

 昼前、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が、その件について口を開いた。

「理由は、聞かせてもらえるか」

「もちろんです」

 アデリーナは、少し言葉を選びながら答える。

「必要とされているのは、
 私個人の判断ではありません」

「では、何だ」

「“過去に判断した誰か”という象徴です」

 公爵は、わずかに眉を動かした。

「それを引き受ければ、
 また、人は考えることをやめます」

 正確には、
 考える前に、誰かの意見を待つようになる。

「それは、もう戻りたくない形です」

 沈黙が落ちる。

 公爵は、しばらく考え込んだ後、短く言った。

「……分かった」

 それ以上、何も言わなかった。

 午後、正式な返書が送られた。
 丁寧に、しかし明確に。

 関与しない。
 助言もしない。
 現体制を信頼している。

 その一文一文は、
 責任放棄ではなく、
 責任の所在を明確にするためのものだった。

 夕刻、アデリーナは一人で中庭を歩いた。

 何かをしない、という決断は、
 何かをするよりも、時に重い。

 手を伸ばせば、影響を与えられる。
 声を上げれば、流れを変えられる。

 それでも、あえて何もしない。

 それは、無関心ではない。
 諦めでもない。

 信じて、任せるという選択だ。

「……難しいですね」

 独り言が、風に溶ける。

 自分が動かないことで、
 誰かが動き出す。

 自分が口を出さないことで、
 誰かが考え続ける。

 それを、最後まで見届ける覚悟が、
 今の彼女には必要だった。

 夜。

 灯りを落とした部屋で、アデリーナは静かに目を閉じた。

 今日、何かをする機会はあった。
 再び、役割を得る道もあった。

 だが、選ばなかった。

 何かをしない決断。

 それは、
 自分が不要だからではない。

 自分が必要なくなった世界を、
 ちゃんと完成させるための決断だ。

 明日も、
 世界は彼女を呼ばないかもしれない。

 だが、それでいい。

 彼女が何かをしないことで、
 世界が自分の足で立っているなら。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、
 静かな満足とともに、
 その夜を迎えていた。

 何かをしない。
 それもまた、確かな選択だった。
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