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第35話 それでも、残るもの
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第35話 それでも、残るもの
朝の空気は、昨日と変わらず穏やかだった。
アデリーナ・フォン・グラーフは、窓辺に立ち、遠くの景色を眺めながら、ゆっくりと呼吸を整えていた。
何かを断った翌日というのは、いつも少しだけ心が揺れるものだ。
判断が正しかったのか。
本当に、何もしないことが最善だったのか。
だが、その揺れは、不安というより余韻に近い。
執務室に入ると、机の上はいつも通り整っていた。
新しい要請はない。
昨日の返書に対する反応も、まだ届いていない。
「……静かですね」
側近が、周囲を見渡しながら言う。
「ええ」
アデリーナは、頷いた。
「拒絶したからといって、
世界が揺れるわけではありません」
それが、今の現実だった。
彼女が何かを断っても、
誰かが慌てて走り回ることはない。
代わりに、別の誰かが考え、話し合い、決めている。
それは、少しだけ寂しく、
同時に、とても健全だった。
午前中、管理官の一人が、軽く頭を下げて通り過ぎる。
「昨日の件、問題なく進んでいます」
「そうですか」
それ以上の言葉は交わされない。
感謝も、称賛もない。
だが、滞りもない。
アデリーナは、その背中を見送りながら思う。
自分が築いたものは、
自分がいなくても、ちゃんと使われている。
昼前、久しぶりに王都から追加の連絡が入った。
断りへの返答だ。
内容は簡潔だった。
理解した。
現体制で検討を進める。
それだけ。
怒りも、落胆も、説得もない。
「……拍子抜けするほど、あっさりしていますね」
側近が言う。
「ええ」
アデリーナは、穏やかに答えた。
「それでいいのです」
自分が断ったことで、
誰かが困り果てるなら、
それは断るべきではなかった。
だが、世界は普通に回っている。
つまり、彼女の判断は、
必要以上でも、不足でもなかった。
午後、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が、珍しく長めの時間、部屋に滞在した。
「……君が離れてから、
皆、よく考えるようになった」
「それは、良いことですね」
「最初は、不安もあった。
だが今は、違う」
公爵は、窓の外を一瞥する。
「誰かに任せる、という感覚を、
ようやく理解し始めている」
アデリーナは、その言葉を胸の中で噛みしめた。
「……それなら、私は、もう役目を終えています」
「そうだな」
短い肯定だった。
それで、十分だった。
夕刻。
アデリーナは一人で庭を歩きながら、足元の小石を軽く蹴った。
音は小さく、すぐに消える。
自分がここにいた証も、
やがては、同じように薄れていくのだろう。
だが、不安はない。
「……それでも、残るもの」
小さく呟く。
名前は残らなくてもいい。
功績が語られなくてもいい。
残るのは、
考える習慣。
判断を分け合う仕組み。
誰か一人に寄りかからない、当たり前。
それらは、
彼女が手放した後も、確かにそこにある。
夜。
灯りを落とした部屋で、アデリーナは椅子に腰を下ろし、今日一日を思い返した。
大きな出来事はなかった。
誰かを救ったわけでも、
何かを変えたわけでもない。
だが、何も起こらなかったという事実が、
確かに積み重なっている。
「……悪くないですね」
静かに、そう思う。
世界は、彼女を必要としなくなった。
だが、それは、彼女が無価値になったという意味ではない。
必要とされない世界を作った、という意味だ。
それでも、残るものは残る。
彼女が触れた場所。
彼女が整えた流れ。
彼女が、手放すことを選んだ結果。
それらは、
今日もどこかで、静かに機能している。
アデリーナ・フォン・グラーフは、目を閉じた。
役割は終わった。
だが、すべてが消えたわけではない。
それでも、残るものがある。
それで、十分だった。
朝の空気は、昨日と変わらず穏やかだった。
アデリーナ・フォン・グラーフは、窓辺に立ち、遠くの景色を眺めながら、ゆっくりと呼吸を整えていた。
何かを断った翌日というのは、いつも少しだけ心が揺れるものだ。
判断が正しかったのか。
本当に、何もしないことが最善だったのか。
だが、その揺れは、不安というより余韻に近い。
執務室に入ると、机の上はいつも通り整っていた。
新しい要請はない。
昨日の返書に対する反応も、まだ届いていない。
「……静かですね」
側近が、周囲を見渡しながら言う。
「ええ」
アデリーナは、頷いた。
「拒絶したからといって、
世界が揺れるわけではありません」
それが、今の現実だった。
彼女が何かを断っても、
誰かが慌てて走り回ることはない。
代わりに、別の誰かが考え、話し合い、決めている。
それは、少しだけ寂しく、
同時に、とても健全だった。
午前中、管理官の一人が、軽く頭を下げて通り過ぎる。
「昨日の件、問題なく進んでいます」
「そうですか」
それ以上の言葉は交わされない。
感謝も、称賛もない。
だが、滞りもない。
アデリーナは、その背中を見送りながら思う。
自分が築いたものは、
自分がいなくても、ちゃんと使われている。
昼前、久しぶりに王都から追加の連絡が入った。
断りへの返答だ。
内容は簡潔だった。
理解した。
現体制で検討を進める。
それだけ。
怒りも、落胆も、説得もない。
「……拍子抜けするほど、あっさりしていますね」
側近が言う。
「ええ」
アデリーナは、穏やかに答えた。
「それでいいのです」
自分が断ったことで、
誰かが困り果てるなら、
それは断るべきではなかった。
だが、世界は普通に回っている。
つまり、彼女の判断は、
必要以上でも、不足でもなかった。
午後、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が、珍しく長めの時間、部屋に滞在した。
「……君が離れてから、
皆、よく考えるようになった」
「それは、良いことですね」
「最初は、不安もあった。
だが今は、違う」
公爵は、窓の外を一瞥する。
「誰かに任せる、という感覚を、
ようやく理解し始めている」
アデリーナは、その言葉を胸の中で噛みしめた。
「……それなら、私は、もう役目を終えています」
「そうだな」
短い肯定だった。
それで、十分だった。
夕刻。
アデリーナは一人で庭を歩きながら、足元の小石を軽く蹴った。
音は小さく、すぐに消える。
自分がここにいた証も、
やがては、同じように薄れていくのだろう。
だが、不安はない。
「……それでも、残るもの」
小さく呟く。
名前は残らなくてもいい。
功績が語られなくてもいい。
残るのは、
考える習慣。
判断を分け合う仕組み。
誰か一人に寄りかからない、当たり前。
それらは、
彼女が手放した後も、確かにそこにある。
夜。
灯りを落とした部屋で、アデリーナは椅子に腰を下ろし、今日一日を思い返した。
大きな出来事はなかった。
誰かを救ったわけでも、
何かを変えたわけでもない。
だが、何も起こらなかったという事実が、
確かに積み重なっている。
「……悪くないですね」
静かに、そう思う。
世界は、彼女を必要としなくなった。
だが、それは、彼女が無価値になったという意味ではない。
必要とされない世界を作った、という意味だ。
それでも、残るものは残る。
彼女が触れた場所。
彼女が整えた流れ。
彼女が、手放すことを選んだ結果。
それらは、
今日もどこかで、静かに機能している。
アデリーナ・フォン・グラーフは、目を閉じた。
役割は終わった。
だが、すべてが消えたわけではない。
それでも、残るものがある。
それで、十分だった。
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