婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第36話 静かに変わる距離

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第36話 静かに変わる距離

 朝の空気は、わずかに湿り気を帯びていた。

 季節が、確実に移ろっている。
 それは、誰かの判断によるものではなく、時間が積み重なった結果だ。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、窓を少しだけ開け、その空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 冷たさはない。
 だが、以前よりも、確かに違う匂いがする。

「……変わりましたね」

 独り言は、誰にも届かない。

 執務室に向かう廊下は、相変わらず静かだった。
 だが、そこで交わされる視線や、足取りには、微妙な変化がある。

 以前は、遠慮と緊張。
 今は、自然な距離。

「おはようございます」

「ええ、おはよう」

 使用人の挨拶に、必要以上の敬意はない。
 それを、失礼だと感じることもない。

 ただ、同じ空間にいる人間同士のやり取りだ。

 執務室に入ると、机の上には今日の共有資料が置かれていた。
 決裁印を求める書類は、もうない。

「本日の進捗です」

 側近が、淡々と説明する。

「問題は」

「特にありません。
 いくつか判断が分かれましたが、すでに合意済みです」

「そうですか」

 それだけで、会話は終わる。

 確認はする。
 だが、介入はしない。

 その距離感が、今は心地よかった。

 午前中、アデリーナは執務室を離れ、敷地内をゆっくりと歩いた。
 特に目的はない。

 ただ、歩く。

 訓練場の脇では、若い兵士たちが交代の準備をしていた。
 指示を出す者も、受ける者も、落ち着いている。

 彼女が近くを通っても、誰も姿勢を正さない。
 だが、それは無視ではない。

 必要以上に意識しない、という選択だ。

「……距離が、変わりましたね」

 その言葉は、責めでも嘆きでもない。

 彼女自身が、そう望んだ距離だった。

 昼前、思いがけず一通の書簡が届いた。

 差出人は、かつて王都で共に働いていた文官。
 短い近況報告と、こう締めくくられていた。

 ――最近は、あなたの名前を出さずに話が進むことが増えました。

 アデリーナは、その一文を静かに読み返した。

 責める調子ではない。
 どこか、報告に近い。

「……そうですか」

 声に出して、そう呟く。

 それは、寂しさではない。
 むしろ、確かな手応えだった。

 午後、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が、いつもより遅い時間に姿を見せた。

「最近、どうだ」

「特に変わりありません」

「それが、変化だな」

 公爵の言葉に、アデリーナは小さく笑った。

「はい。
 私も、そう思います」

 彼女は、少しだけ言葉を続ける。

「距離が変わると、
 見えるものも、変わりますね」

「何が見える」

「……自分の輪郭です」

 誰かの期待に応えているとき、
 自分の形は、常に他人基準だった。

 役に立つか。
 必要か。
 正しいか。

 だが今は、
 誰かの判断の外側に立っている。

 その場所で、ようやく分かる。

 自分は、何を好み、
 何を嫌い、
 どこまでなら踏み込めるのか。

 夜。

 部屋に戻ったアデリーナは、灯りを落とし、椅子に腰を下ろした。
 今日一日を思い返す。

 誰とも深い話はしていない。
 何かを決めたわけでもない。

 それでも、心は静かだった。

「……近すぎても、遠すぎても、駄目なのですね」

 距離は、測るものではない。
 自然に、変わるものだ。

 無理に縮めれば、依存になる。
 無理に離れれば、断絶になる。

 今の距離は、
 そのどちらでもない。

 関わらないわけではない。
 だが、縛られもしない。

 窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしている。
 音は小さく、心を乱さない。

 アデリーナは、目を閉じた。

 静かに変わる距離。
 それは、別れでも、孤立でもない。

 互いが自分の足で立ったまま、
 必要なときに、必要なだけ関われる位置。

 その距離に、ようやく辿り着いたのだと、
 彼女は静かに理解していた。

 明日もまた、
 世界は大きくは変わらないだろう。

 だが、その「変わらなさ」の中で、
 距離だけは、少しずつ、正しい場所へと整っていく。

 それで、十分だった。
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