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第37話 役割の外で呼ばれる名
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第37話 役割の外で呼ばれる名
朝の庭に、鳥の声が響いていた。
それは合図でも警告でもない。
ただ、朝が来たことを知らせる音だ。
アデリーナ・フォン・グラーフは、窓辺に立ち、その声に耳を澄ませていた。
名前を呼ばれることのない日々が続いている。
それはもう、特別ではなかった。
身支度を整え、廊下に出る。
足取りは軽く、急ぐ理由はない。
「おはようございます」
「ええ、おはよう」
使用人との挨拶は、短い。
だが、どこか温度がある。
執務室に入ると、机の上に置かれていたのは、いつもの共有資料ではなかった。
一枚の、簡素な書付。
差出人は、現場の若い管理官の名だ。
内容は、業務連絡ではない。
――午後、時間があれば少し相談に乗ってほしい。
案件名も、期限もない。
判断を仰ぐ言葉もない。
アデリーナは、その一文をしばらく眺めてから、そっと紙を置いた。
「……相談、ですか」
側近が、後ろから静かに言う。
「判断ではなく?」
「ええ」
アデリーナは、頷いた。
「役割の外で、呼ばれています」
午前中は、いつも通り穏やかに過ぎた。
特に介入することもなく、
誰かが困って駆け込んでくることもない。
だが、心のどこかに、微かな違いがあった。
それは、再び必要とされる不安ではない。
期待を背負う重さでもない。
ただ、選べるという感覚だ。
昼過ぎ、指定された場所へ向かうと、若い管理官が一人、待っていた。
表情には緊張があるが、切迫はしていない。
「お時間、ありがとうございます」
「いいえ」
アデリーナは、静かに答える。
「今日は、どんな話でしょう」
管理官は、少し言葉を探してから、口を開いた。
「……判断を求めたいわけではありません」
「はい」
「ただ、どう考えればいいのか、
整理の仕方を、教えていただけたらと」
その言葉に、アデリーナは小さく息を吐いた。
それは、かつての「助けてください」とは違う。
答えを差し出せ、という要求でもない。
考え方を知りたい。
自分で選ぶための、視点がほしい。
「分かりました」
彼女は、席に腰を下ろした。
「結論は、あなたが出してください。
私は、整理の手順だけ話します」
管理官は、深く頷く。
話は、慎重に進んだ。
選択肢を並べ、
前提を疑い、
何を守り、何を捨てるかを言葉にする。
アデリーナは、答えを示さない。
ただ、問いを置く。
それだけで、管理官の表情は次第に変わっていった。
「……自分で、決められそうです」
「ええ」
アデリーナは、穏やかに答える。
「もう、決めていますよ」
相談は、それで終わった。
感謝の言葉はあったが、
称賛はない。
彼女の名は、功績として語られない。
だが、確かに役に立っていた。
夕刻、執務室に戻ると、側近が静かに言った。
「珍しいですね。
呼ばれるのは」
「ええ」
アデリーナは、少し考えてから答えた。
「でも、悪くありません」
「役割に戻る、とは?」
「違います」
即座に否定する。
「役割の外で、関わっただけです」
それは、線を越えない関わり方だった。
依存を生まない距離。
責任を奪わない助言。
夜。
灯りを落とした部屋で、アデリーナは今日の出来事を思い返していた。
名前を呼ばれた。
だが、それは肩書き付きではなかった。
補佐官としてではない。
判断者としてでもない。
ただ、一人の人間として。
「……この呼ばれ方なら」
小さく呟く。
続いても、いい。
選べるからだ。
断ることも、関わることも。
窓の外では、夜風が静かに吹いている。
その風は、彼女を前に押し出さない。
ただ、背中を冷やす程度の距離で、そこにある。
役割の外で呼ばれる名。
それは、再び縛られる合図ではない。
信頼が、健全な形で芽生えた証だった。
アデリーナ・フォン・グラーフは、目を閉じる。
明日もまた、
呼ばれないかもしれない。
だが、もし呼ばれたとしても、
それは彼女が選んで応じる、ただの一日になる。
それで、十分だった。
朝の庭に、鳥の声が響いていた。
それは合図でも警告でもない。
ただ、朝が来たことを知らせる音だ。
アデリーナ・フォン・グラーフは、窓辺に立ち、その声に耳を澄ませていた。
名前を呼ばれることのない日々が続いている。
それはもう、特別ではなかった。
身支度を整え、廊下に出る。
足取りは軽く、急ぐ理由はない。
「おはようございます」
「ええ、おはよう」
使用人との挨拶は、短い。
だが、どこか温度がある。
執務室に入ると、机の上に置かれていたのは、いつもの共有資料ではなかった。
一枚の、簡素な書付。
差出人は、現場の若い管理官の名だ。
内容は、業務連絡ではない。
――午後、時間があれば少し相談に乗ってほしい。
案件名も、期限もない。
判断を仰ぐ言葉もない。
アデリーナは、その一文をしばらく眺めてから、そっと紙を置いた。
「……相談、ですか」
側近が、後ろから静かに言う。
「判断ではなく?」
「ええ」
アデリーナは、頷いた。
「役割の外で、呼ばれています」
午前中は、いつも通り穏やかに過ぎた。
特に介入することもなく、
誰かが困って駆け込んでくることもない。
だが、心のどこかに、微かな違いがあった。
それは、再び必要とされる不安ではない。
期待を背負う重さでもない。
ただ、選べるという感覚だ。
昼過ぎ、指定された場所へ向かうと、若い管理官が一人、待っていた。
表情には緊張があるが、切迫はしていない。
「お時間、ありがとうございます」
「いいえ」
アデリーナは、静かに答える。
「今日は、どんな話でしょう」
管理官は、少し言葉を探してから、口を開いた。
「……判断を求めたいわけではありません」
「はい」
「ただ、どう考えればいいのか、
整理の仕方を、教えていただけたらと」
その言葉に、アデリーナは小さく息を吐いた。
それは、かつての「助けてください」とは違う。
答えを差し出せ、という要求でもない。
考え方を知りたい。
自分で選ぶための、視点がほしい。
「分かりました」
彼女は、席に腰を下ろした。
「結論は、あなたが出してください。
私は、整理の手順だけ話します」
管理官は、深く頷く。
話は、慎重に進んだ。
選択肢を並べ、
前提を疑い、
何を守り、何を捨てるかを言葉にする。
アデリーナは、答えを示さない。
ただ、問いを置く。
それだけで、管理官の表情は次第に変わっていった。
「……自分で、決められそうです」
「ええ」
アデリーナは、穏やかに答える。
「もう、決めていますよ」
相談は、それで終わった。
感謝の言葉はあったが、
称賛はない。
彼女の名は、功績として語られない。
だが、確かに役に立っていた。
夕刻、執務室に戻ると、側近が静かに言った。
「珍しいですね。
呼ばれるのは」
「ええ」
アデリーナは、少し考えてから答えた。
「でも、悪くありません」
「役割に戻る、とは?」
「違います」
即座に否定する。
「役割の外で、関わっただけです」
それは、線を越えない関わり方だった。
依存を生まない距離。
責任を奪わない助言。
夜。
灯りを落とした部屋で、アデリーナは今日の出来事を思い返していた。
名前を呼ばれた。
だが、それは肩書き付きではなかった。
補佐官としてではない。
判断者としてでもない。
ただ、一人の人間として。
「……この呼ばれ方なら」
小さく呟く。
続いても、いい。
選べるからだ。
断ることも、関わることも。
窓の外では、夜風が静かに吹いている。
その風は、彼女を前に押し出さない。
ただ、背中を冷やす程度の距離で、そこにある。
役割の外で呼ばれる名。
それは、再び縛られる合図ではない。
信頼が、健全な形で芽生えた証だった。
アデリーナ・フォン・グラーフは、目を閉じる。
明日もまた、
呼ばれないかもしれない。
だが、もし呼ばれたとしても、
それは彼女が選んで応じる、ただの一日になる。
それで、十分だった。
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