婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第38話 選ばれない自由

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第38話 選ばれない自由

 朝は、静かに始まった。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、いつもより少し遅く目を覚ました。
 誰かに急かされる予定はない。
 今日、彼女が必ず応じなければならない用件もなかった。

 窓を開けると、風がゆるやかに流れ込んでくる。
 冷たすぎず、暖かすぎず。
 ただ、そこにある空気だ。

「……何もない朝、ですね」

 そう口にしてみると、不思議と心が軽くなる。

 身支度を終え、軽く食事を済ませたあと、アデリーナは執務室ではなく、書庫へ向かった。
 仕事のためではない。
 純粋に、読みたいものがあっただけだ。

 棚から一冊を取り出し、椅子に腰を下ろす。
 内容は、実務とも政治とも関係のない、古い紀行録。

 ページをめくる音だけが、室内に響く。

 かつての彼女であれば、こんな時間に罪悪感を覚えていたかもしれない。
 自分が何かをしていない間に、どこかで問題が起きているのではないか。
 判断を待つ声が、積み上がっているのではないか。

 だが、今は違う。

 何も起きていないことを、信じられる。

 昼前、使用人が控えめに声をかけてきた。

「本日は、来客の予定はございません」

「そうですか」

 それだけで、会話は終わる。

 予定がないことを、わざわざ確認する必要もない。
 だが、こうして言葉にされると、改めて実感する。

 今日は、選ばれない日だ。

 午後、庭を歩いていると、遠くで誰かが話し合っている声が聞こえた。
 内容は聞き取れない。
 だが、声の調子から、切迫したものではないと分かる。

 彼女は、歩みを止めなかった。

 以前なら、足を向けていたかもしれない。
 助けが必要かもしれない。
 意見を求められているかもしれない。

 だが、今日は違う。

「……選ばれない、というのは」

 歩きながら、考える。

 拒絶ではない。
 無視でもない。

 ただ、その場に立つ必要がなかっただけだ。

 夕方、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵と、廊下ですれ違った。
 互いに足を止めることはない。

「今日は、静かだな」

 すれ違いざまに、彼が言う。

「ええ」

 アデリーナは、少しだけ微笑んだ。

「良い一日です」

 それ以上の言葉は交わされない。
 だが、その短いやり取りで、十分だった。

 夜。

 部屋に戻り、灯りを落としたアデリーナは、椅子に深く腰を下ろした。
 一日を振り返る。

 何も決めていない。
 誰にも助言していない。
 名を呼ばれることもなかった。

 だが、空虚ではない。

 むしろ、満ちている。

「……選ばれない自由」

 かつては、選ばれることだけが価値だと思っていた。
 必要とされること。
 頼られること。
 判断を委ねられること。

 それらを失えば、何も残らないと。

 だが今は分かる。

 選ばれない日があるからこそ、
 選ばれる日を、引き受けるかどうかを選べる。

 すべてに応じる人生は、自由ではない。
 すべてを拒む人生も、また違う。

 選ばれないという状態は、
 その中間にある、静かな自由だった。

 窓の外では、夜空が広がっている。
 星は多くもなく、少なくもない。

 特別な光はない。
 だが、見上げれば、確かにそこにある。

 アデリーナは、目を閉じた。

 明日、呼ばれるかもしれない。
 呼ばれないかもしれない。

 どちらでもいい。

 選ばれない今日を、穏やかに過ごせたのなら、
 それだけで、この一日は価値がある。

 選ばれない自由は、
 彼女が長い時間をかけて手に入れた、
 何より確かな居場所だった。
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