婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第39話 戻らない場所、進まない決意

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第39話 戻らない場所、進まない決意

 朝の空は、雲ひとつなく澄んでいた。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、珍しく早い時間に目を覚ましていた。
 理由はない。
 ただ、目が覚めただけだ。

 窓を開けると、空気はひんやりとしていて、肺の奥まで澄んでいく。
 季節は、確実に次へ進んでいる。

「……時間は、止まりませんね」

 誰に向けるでもなく、そう呟いた。

 身支度を整え、朝食を取る。
 味はいつも通りだ。
 特別な感想は浮かばない。

 だが、その「いつも通り」が、今は少しだけ違って見えた。

 食後、アデリーナは書簡の束に目を通していた。
 多くは報告。
 いくつかは確認。

 そして、その中に一通、異質なものが混じっていた。

 差出人は、王都。
 宛名は、彼女個人。

 内容は短い。

 ――近く、旧体制に関する整理が正式に完了する。
 ――念のため、確認しておきたい事項がある。

 それだけ。

 復帰の要請ではない。
 協力の依頼でもない。

 ただ、過去に関わった者としての、最後の確認。

 アデリーナは、書簡を机に置き、しばらく動かなかった。

 胸の奥に、微かな引っ掛かりが生まれる。

「……戻る、わけではない」

 そう、言葉にしてみる。

 戻らない。
 もう、あの場所には。

 だが、関係を断ち切るわけでもない。

 それが、今の自分の立ち位置だ。

 午前中、側近に書簡を見せる。

「形式的なものですね」

「ええ」

 アデリーナは、静かに頷いた。

「返答は、簡潔で構いません」

「関与は、最小限に?」

「はい」

 側近は、それ以上何も言わなかった。
 その沈黙が、彼女には心地よい。

 理解されている。

 昼過ぎ、アデリーナは庭の端にある古い石畳まで足を伸ばした。
 そこは、かつて頻繁に通っていた場所だ。

 判断に迷ったとき。
 決断を迫られたとき。

 ここで歩きながら、思考を整理していた。

 だが、今日は違う。

 立ち止まり、周囲を見渡す。

 木々は成長し、視界は少し変わっている。
 同じ場所でも、同じ景色ではない。

「……戻らない場所、ですね」

 懐かしさはある。
 だが、未練はない。

 夕刻、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が訪ねてきた。
 彼は、書簡の存在をすでに知っていたようだった。

「王都から、連絡があったそうだな」

「はい」

「行くのか」

 その問いに、アデリーナは即答しなかった。

 少しだけ、間を置く。

「……行きません」

 公爵は、頷くだけだった。

「理由は、聞かない」

「助かります」

 彼女は、静かに続ける。

「確認には、応じます。
 ですが、現地に立つ必要はありません」

「境界は、守るということか」

「ええ」

 進まない、という決意。
 それは、停滞ではない。

 自分が進まない場所を、はっきりさせること。

 それもまた、選択だ。

 夜。

 灯りを落とした部屋で、アデリーナは机に向かい、返書を書いていた。
 言葉は少なく、感情は入れない。

 関与は限定的に。
 現体制を尊重する。
 必要な確認事項のみ、書面で対応する。

 それだけ。

 書き終え、封をする。

 胸の中に、静かな確信があった。

 もう、戻らない。
 だが、逃げてもいない。

 過去を否定せず、
 未来に縛られず、
 今の位置に立つ。

「……これで、いい」

 窓の外を見ると、夜空に月が浮かんでいた。
 満ちてもいない。
 欠けてもいない。

 途中の形。

 それが、今の自分だ。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、目を閉じた。

 明日、物語は終わる。
 だが、それは結末ではない。

 戻らない場所を背に、
 進まないと決めた場所を見極め、
 彼女は、ただそこに在る。

 それが、彼女の選んだ生き方だった。
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