婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第40話 それでも、私の時間は続く

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第40話 それでも、私の時間は続く

 朝は、いつもと変わらず訪れた。

 特別な鐘も鳴らなければ、誰かが慌ただしく駆け込んでくることもない。
 アデリーナ・フォン・グラーフは、静かに目を覚まし、天井を見上げていた。

 終わりの日だと意識すると、もっと劇的な気分になるものだと思っていた。
 だが、胸の内にあるのは、不思議なほど穏やかな感覚だった。

「……終わる、というより」

 小さく息を吐く。

「一区切り、ですね」

 窓を開けると、朝の光が差し込んでくる。
 冷たさの残る空気が、部屋を満たす。

 それは、何かを奪う風ではない。
 ただ、今日が始まったことを知らせるだけの風だ。

 身支度を整え、朝食を取る。
 味は、昨日と同じ。
 だが、その「同じ」が、今日は少し愛おしい。

 食後、アデリーナは机に向かい、残っていた最後の書類に目を通した。
 返答を求められていた確認事項。
 すでに用意していた文章を、改めて読み返す。

 言葉は簡潔で、感情は抑えられている。
 それでいい。

 書類に署名し、封をする。
 それが、彼女がこの立場で行う、最後の作業だった。

「終わりました」

 側近にそう告げると、相手は一瞬だけ言葉を探し、やがて静かに頭を下げた。

「長い間、お疲れさまでした」

「……ええ」

 アデリーナは、微笑む。

「あなた方のおかげです」

 感謝は、誇張せず、飾らず。
 それでも、確かに本心だった。

 午前中、彼女は執務室を出て、屋敷の中をゆっくりと歩いた。
 目的はない。

 ただ、これまで通ってきた場所を、もう一度、自分の足で確かめたかった。

 廊下。
 階段。
 中庭。

 どこも、変わらない。
 だが、同じではない。

 ここで悩み、ここで迷い、ここで決めてきた。
 その積み重ねが、今の静けさを作っている。

 昼過ぎ、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が訪ねてきた。
 彼は、何も言わず、ただ隣に立った。

「今日だな」

「はい」

「……そうか」

 それ以上、言葉は続かない。
 だが、沈黙は重くない。

「私は、これからどうすると思いますか」

 アデリーナが、ふと尋ねる。

 公爵は、少し考えてから答えた。

「特別なことは、しないだろうな」

「正解です」

 彼女は、くすりと笑った。

「本を読み、歩き、考えて、
 時々、誰かと話す」

「それで?」

「それで、十分です」

 大きな使命も、派手な役割もない。
 だが、自分の時間がある。

 それは、何よりの贅沢だった。

 夕方、庭に出ると、空がゆっくりと色を変えていく。
 昼と夜の境目。

 終わりと始まりが、混ざり合う時間。

 アデリーナは、ベンチに腰を下ろし、その空を眺めていた。

 思い返せば、多くの選択をしてきた。
 正しい選択ばかりではなかっただろう。

 それでも、今ここにいる。

 後悔はない。
 未練もない。

 ただ、静かな納得がある。

「……それでも」

 小さく呟く。

「私の時間は、続く」

 役割が終わっても、
 物語が一区切りを迎えても、
 生きる時間が終わるわけではない。

 選ばれない日も、
 呼ばれない夜も、
 それらすべてが、自分の人生だ。

 夜。

 部屋に戻り、灯りを落とす。
 窓の外には、星が瞬いている。

 特別な光ではない。
 だが、確かに、そこにある。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、目を閉じた。

 終わったものは、終わった。
 戻らない場所も、進まない決意も、すべて受け入れた。

 そして、これから先は、
 誰のためでもない、
 自分自身の時間。

 それでも、時間は続く。

 静かに、確かに、
 彼女の歩幅で。
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