姉の婚約者を奪った義妹は、偽金まみれの恋と一緒に断罪されました

鷹 綾

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12話 貧しくなる街

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12話 貧しくなる街

その朝、ルヴェリアはいつもより早く屋敷を出た。

王宮へ向かう前に、もう一度だけ自分の目で市場を見ておきたかったのだ。記録の数字は確かに真実を語る。けれど、数字だけでは見えないものもある。

人の顔だ。

困窮は、帳簿の上ではただの増減に見える。だが実際には、買うのを諦めた手つきや、値札を見た時の沈黙や、いつもより少ない荷物の重さになって表れる。

王都の朝は冷えていた。

春が来たとはいえ、風にはまだ冬の名残がある。そんな空気の中、市場の通りには重い色が漂っていた。

活気がないわけではない。

むしろ人は多い。

だがそれは、賑わいというより焦りだった。

「今日は卵がもう上がったの?」

「朝のうちに買っておかないと昼にはなくなるわよ」

「昨日よりまた高いじゃないか……」

声はあちこちから聞こえる。

ひそひそとしたものもあれば、怒気を含んだものもある。

ルヴェリアは護衛を離しすぎない程度に距離を取り、エミリアと並んで市場の中へ入った。

まず足を止めたのは、いつも人の多いパン屋の前だった。

数日前にも見かけた店だ。今日も列ができている。だが前よりも空気が悪い。並んでいる客の表情に余裕がない。

焼き上がった丸パンが籠に運ばれるたび、視線が一斉にそこへ集まる。

まるで奪い合いの一歩手前だ。

「一人二つまでです!」

店主が大声で言っていた。

「昨日もそう言っただろう! 全員に行き渡るようにしないと困るんだ!」

列の中ほどで、中年の女がかすれた声を上げる。

「二つじゃ足りないのよ。うちは子どもが三人いるんだから」

「分かってる! でも小麦の値が上がってるんだ、これ以上焼いてもこっちが赤字だ!」

ルヴェリアはそのやり取りを黙って見つめた。

ただ価格が上がっているだけではない。

量まで制限が始まっている。

それが日々の食卓に直結する品で起きているのが、何より重かった。

「お嬢様」

エミリアが小声で言う。

「あちらを」

視線を向けると、列から少し離れた場所で、若い母親らしい女が小さな子どもを抱いて立っていた。

子どもは眠そうに母親の肩へ顔を埋めている。

女はパン屋の値札を見て、それから財布の中身を確かめ、何度も指で数えていた。

結局、列には並ばないまま立ち尽くしている。

ルヴェリアはゆっくり近づいた。

「買わないの?」

驚いた女が振り返り、ルヴェリアの身なりを見て慌てて頭を下げる。

「す、すみません……」

「謝らなくていいわ。足りないの?」

女はしばらく口をつぐんだが、やがて観念したように小さく答えた。

「昨日の値段なら買えたんです。でも、今日は……あと少し足りなくて」

抱かれた子どもがうとうとしながら、母親の服を掴んでいる。

その小さな指を見た瞬間、ルヴェリアの胸の奥が重く沈んだ。

ただの値上がりではない。

昨日まで買えたものが、今日には買えない。

それは生活の線が一段、確かに削られたということだ。

ルヴェリアはエミリアへ視線を送り、小さく頷く。

エミリアは何も聞かずに財布を取り出し、足りない分を女の手にそっと握らせた。

「これは」

女が目を見開く。

「返さなくていいわ」

ルヴェリアは静かに言う。

「ただし、今日だけの話ではないでしょうね」

女は唇を噛み、俯いた。

「……油も、石鹸も、少しずつ高くなってて。主人の稼ぎは変わらないのに、何を削ればいいのか分からなくて」

その言葉に嘘はなかった。

疲れ切った声だった。

感謝より先に、どうやって明日をやりくりするかで頭がいっぱいなのだろう。

ルヴェリアはそれ以上何も言わず、その場を離れた。

少し歩くと、今度は布商の前で老婦人が店主と押し問答していた。

「前はこの値段で二反は買えたよ」

「分かってます、奥様。でも仕入れが……」

「下着用の布まで上がるなんて、どういうことだい」

「私だって好きで上げてるんじゃないんですよ!」

店主の声にも苛立ちと疲労が混ざっていた。

その苛立ちは客に向けられているようで、実際にはもっと別の場所へ向けられている。

説明のつかない値上がり。

得体の知れない“景気の良さ”。

真面目に商売する者ほど、それに振り回されている。

ルヴェリアは店の奥に並ぶ粗布を見た。

本来なら贅沢と無縁の、生活のための布だ。

それすら高くなっている。

つまり、偽金の毒はもう完全に庶民の領域まで降りてきている。

「お嬢様」

エミリアの声がさらに低くなる。

「向こうをご覧ください」

市場の端、小さな油屋の前で、男が店主へ詰め寄っていた。

「昨日と同じ量を頼んだだけだぞ!」

「だから、その値で出せないって言ってるんだ!」

「うちは飯屋なんだよ! 油がなきゃ商売にならない!」

「こっちだって回ってこないんだ、どうしろって言う!」

怒鳴り声。

油屋の棚は半分ほど空いている。

食用油もまた、生活と商売の両方を支える品だ。そこが詰まれば、食堂の値段も上がり、街の飯そのものが苦しくなる。

ルヴェリアは足を止めたまま、ゆっくり息を吐いた。

ここまで来ると、もはや王都全体がじわじわ締め上げられているようだった。

一部の者だけが軽い金を湯水のように使う。

その余波で、本当に必要なものを買う側が押し出される。

王都の中心で、誰かが見せびらかしのために金を撒くたびに、その陰では今日の食事を削られる者が出る。

あまりにも胸が悪い仕組みだった。

「……オルフィナ様は」

エミリアが言いかけて、口を閉ざした。

ルヴェリアは苦く笑う。

「ええ。たぶん、ここまで繋がっているとは思っていないでしょうね」

「知ればやめるでしょうか」

その問いに、ルヴェリアは少し考えた。

それから首を横に振る。

「いいえ」

「……」

「知っても、自分には関係ないと思うだけよ。あの子はそういう子だもの」

言葉にすると、思った以上に冷たく響いた。

けれど、事実だった。

幼い頃からそうだった。

自分が欲しいものが先にあり、それを手に入れた後で誰かが困るとしても、痛みが想像の中で止まる。

“かわいそう”とは言える。

でも、その次の手は止まらない。

今ならなおさらだ。

ゼルカインに愛されていると信じ、財に酔い、自分が勝者だと思っている今のオルフィナが、パンを買えない母親の話を聞いて手を止めるとは思えなかった。

市場をさらに進むと、小さな石鹸店の前に人だかりができていた。

どうやら店主が、値上げを告げたところらしい。

「汚れ物も洗えないじゃないか」

「前の倍って何だよ!」

「そんなに払えるわけないだろ!」

石鹸は贅沢品ではない。

洗濯し、体を洗い、生活を清潔に保つためのものだ。

その価格まで跳ね上がれば、最初に削られるのは衛生だ。貧しい者から、少しずつ健康を失っていく。

ルヴェリアは店先の荒れた声を聞きながら、静かに拳を握った。

偽金がただ経済を乱しているだけではないことが、これでよく分かる。

これは暮らしを傷つける。

人の dignity を削る。

数字にすれば物価上昇かもしれない。

けれど現実には、体を洗う回数、食べる量、灯りをともす時間、そういう小さな生活の輪郭が失われていくのだ。

「お嬢様、そろそろお時間が」

王宮への約束を思い出し、エミリアが控えめに告げる。

ルヴェリアは一度、市場全体を振り返った。

荷車の音。

値札を見て沈黙する人。

足早に通り過ぎる者。

怒鳴る店主。

子を抱く母親。

そのどれもが、今朝の王都の真実だった。

華やかな夜会も、きらびやかな宝石も、この光景の前ではただの悪趣味にしか見えない。

ルヴェリアは低く言った。

「これで十分だわ」

「はい」

「もう、単なる“気になること”では済まない」

彼女はそのまま馬車へ向かった。

乗り込んでからも、しばらく窓の外から目を離せなかった。

王都は表向き、まだ普通の顔をしている。

けれど内部では、見えにくい毒が確実に回っている。

その毒の起点に、婚約者を奪った義妹と、その婚約者の家がいるかもしれない。

そこまで来ると、もはや個人的な感情だけでは片づけられない。

これは止めなければならないものだ。

王宮へ向かう石畳の道で、ルヴェリアはようやく視線を前へ戻した。

「エミリア」

「はい」

「今日、殿下には市場で見たことも全部話すわ」

「はい」

「数字だけではなく、人の顔も」

エミリアは静かに頷いた。

ルヴェリアは膝の上で手を組む。

婚約を奪われた時、胸に残ったのは悔しさだった。

けれど今、そこにあるのはもっと冷たく、もっと強いものだった。

怒りだ。

ただし自分に向けられた裏切りへの怒りではない。

見せびらかしのために撒かれた金が、今日のパンを奪うことへの怒り。

誰かの虚栄が、別の誰かの生活を削っていることへの怒り。

その感情は、不思議なほどルヴェリアをまっすぐにした。

泣いている暇はない。

痛みに沈んでいる暇もない。

あまりにも不愉快で、あまりにも許しがたいからこそ、彼女はもう前へ進くしかなかった。
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