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15話 王太子との距離
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15話 王太子との距離
王宮の執務棟は、今日も静かだった。
静か、といっても人がいないわけではない。文官が行き交い、侍従が書類を運び、遠くでは扉の開閉する音もする。けれど舞踏会や謁見の間にあるような華やかな騒がしさではなく、必要な音だけが積み重なる静けさだった。
ルヴェリアはその空気が嫌いではなかった。
感情より順序。
見栄より実務。
少なくともここでは、誰がどんな宝石をつけているかより、どの書類がどこへ回るかの方が重要らしい。
それだけで、少しだけ息がしやすい。
「こちらです、ルヴェリア様」
案内の文官に導かれ、いつもの部屋へ入る。
ディルハルトはすでに机に向かっていた。だが今日は一人ではない。部屋の端には市場監督官と財務局の若い官吏が控えており、机の上には回収された金貨の記録、商会の名簿、価格推移表が並んでいる。
ルヴェリアが入ると、ディルハルトは顔を上げた。
「来てくれて助かる」
「お呼び立てに応じただけです」
「その応じる、が助かると言っている」
簡潔な返答だった。
けれど不思議と、それだけで少し肩の力が抜ける。
ディルハルトは周囲へ視線を向けた。
「始めよう。昨日の回収分だ」
机上へ新しい一覧が広げられる。
どの区域から何枚の不審金貨が出たか、そのうちメッキ偽金と確認された比率はどれほどか。数字が整然と並ぶ中で、ルヴェリアはすぐに一点へ目を止めた。
「高級商店街の南側で増えていますね」
市場監督官が頷く。
「はい。特に宝飾商、香油商、織物関係の店で多く見つかっています」
「夜会向けの品が動く区域だわ」
「我々もそう見ています」
ルヴェリアはさらに紙をめくる。
中央市場、河岸、高級商店街。
三つの区域に濃淡の差はあれど、不審金貨は確実に同じ流れに沿っていた。
ディルハルトが机に手を置きながら尋ねる。
「君なら、この三点をどう繋ぐ」
ルヴェリアは少し考え、王都の地図へ歩み寄った。
「高級商店街でまず見栄の消費に使う。高額品なら、受け取る側も多少の違和感を“景気の良さ”で流しやすい」
指先を南側へ滑らせる。
「そこから商人の支払いを通じて河岸へ流れる。河岸は物資と現金が混ざる場所だから、出どころが曖昧になりやすい」
さらに中央市場を示す。
「最後に、中央市場の卸や小売へ落ちる。そうなれば庶民の生活圏まで降りてくる」
部屋の中が静まる。
市場監督官も、財務局の官吏も、黙って地図を見つめていた。
「つまり」
ディルハルトが低く言う。
「贅沢の場で顔を作り、流通の場で正体を薄め、生活の場で定着させる」
「はい」
ルヴェリアは頷く。
「だから厄介なのです。最初の入口がきらびやかであるほど、その先で疑われにくい」
市場監督官が苦い顔になる。
「誰も、宝石店で受け取った金が翌朝にはパンの値段を押し上げるとは思いませんからな」
「でも、実際にはそうなっているわ」
ルヴェリアの声は自然と冷えた。
市場で見た母子の顔が、まだ頭から離れないのだ。
その時、ディルハルトが一枚の報告書を差し出した。
「これは昨夜まとめさせたものだ。ヴォルゼック伯爵家と継続的に取引している商会の一覧」
ルヴェリアは紙を受け取る。
予想はしていた。けれど実際に名前が並ぶと、胸の奥に硬いものが沈んだ。
宝飾商。
香油商。
布商。
倉庫商。
河岸の仲買。
そしていくつかの、表向きの事業内容が曖昧な金融仲介人。
「……多いですね」
「多い」
ディルハルトは短く返す。
「ただし、取引があるだけでは罪にはならない」
「ええ。名門伯爵家なら当然の範囲、と言い逃れできるわ」
「だからこそ、君の見方が要る」
その言葉に、ルヴェリアは報告書から顔を上げた。
ディルハルトはいつものように、余計な飾りのない目で彼女を見ている。
「数字だけでは、ただ広く商いをしている家に見える。だが君は、流れの不自然さを見ている」
「……買い方と、見せ方です」
「そうだ」
そのまっすぐな肯定に、ルヴェリアは一瞬だけ言葉に詰まった。
婚約を奪われたあの日から、ずっと自分の感覚を慎重に扱ってきた。怒りに引っ張られていると思われたくなかった。私怨と片づけられたくなかった。
けれどディルハルトは、彼女の慎重さごと見ている。
曖昧な感覚をそのまま信じるのではなく、証拠へ変えようとするところまで含めて。
「ありがとうございます」
思わず漏れたその言葉に、ディルハルトはわずかに首を傾ける。
「礼を言われることか」
「……信じていただいているのだと思いましたので」
一瞬だけ、部屋の空気がやわらいだ気がした。
ディルハルトはほんの少しだけ口元を緩める。
「信じるというより、正しい手順を踏んでいる者を評価しているだけだ」
「十分です」
それは本心だった。
甘い慰めより、よほど胸に残る。
市場監督官たちが退室した後、部屋にはルヴェリアとディルハルトだけが残った。
机の上にはまだ資料が広がっている。
だがさっきまでの公的な空気とは少し違い、張りつめた実務の中に、わずかな呼吸の余地が生まれていた。
ディルハルトは自分で茶器を取り、二人分の茶を注いだ。
侍従を呼ばないのが、この人らしいとルヴェリアは思う。
「少し休め」
差し出された茶杯を受け取りながら、ルヴェリアは目を瞬いた。
「まだ途中では?」
「君は途中でも息をする必要がある」
「殿下に言われるとは思いませんでした」
「私を何だと思っている」
「休まない方だと」
「否定はしない」
そこでようやく、ルヴェリアは少し笑った。
ごく小さな笑みだったが、婚約解消の直後から思えば、自分でも驚くほど自然なものだった。
ディルハルトはそれを見て、何も言わずに茶を一口飲む。
沈黙が落ちる。
だが気まずくはなかった。
不思議な沈黙だった。
無理に会話を埋めなくても崩れない種類のもの。
ルヴェリアは茶杯を見つめながら、ぽつりと言った。
「以前は、こういう部屋で人と落ち着いて話す未来は想像していませんでした」
「以前とは」
「婚約が続いていた頃です」
ディルハルトは黙って続きを待った。
ルヴェリアも、無理に隠す気にはならなかった。
「伯爵家の客間はいつも立派でした。でも、あまり息がつける感じではありませんでした。何を言うかより、何を言わないかの方が大切な空気だったので」
「君には窮屈だっただろうな」
「ええ。少なくとも、私はそう感じていたようです。……当時は、そこまで言葉にできませんでしたけれど」
ディルハルトは静かに頷く。
「違和感は、後になって形を持つことがある」
その言い方に、ルヴェリアは少し驚いた。
「殿下も、そういうことがありますの?」
「ある。政治は特にな」
彼は窓の外へ視線を向けた。
「最初は説明できない不快感でも、後から振り返ると、見過ごしてはいけない綻びだったと分かることがある」
ルヴェリアは、その横顔を見た。
この人は最初から完璧なわけではないのだ、と少しだけ思う。
理屈の人ではある。だが理屈だけの人ではない。形になる前の違和感を、一度は手の中で転がし、待ち、証拠になるまで見続ける辛抱を知っている。
だから、自分の話も拾ってくれるのだろう。
「……殿下と話していると」
ルヴェリアは自分でも少し迷いながら口を開く。
「無理に理解されようとしなくていい気がします」
ディルハルトが視線を戻した。
「それはどういう意味だ」
「言葉にする前から全部を説明しなくても、急かされないという意味です」
彼は少し黙ってから答えた。
「急かして、粗いものを出されても困る」
あまりにも彼らしい返答に、ルヴェリアはまた少し笑った。
「身も蓋もありませんね」
「綺麗な言い方を期待していたか」
「少しだけ」
「期待する相手を間違えている」
その会話が妙におかしくて、ルヴェリアは喉の奥でくすりと笑った。
ほんのわずかなやり取りなのに、胸の奥に張っていたものが少し和らぐ。
近づいている、と思った。
恋だとか、そういう甘い意味ではない。
けれど確かに、距離は変わってきている。
王太子と公爵令嬢という立場のまま。
調査協力者と責任者という関係のまま。
それでも、最初に会った時より、互いの言葉の置き方が少し分かるようになっている。
それがルヴェリアには心地よかった。
ディルハルトは机上の紙を指で軽く整えながら言う。
「君は、伯爵家についてまだ何か持っているな」
ルヴェリアの指先がわずかに止まる。
だが今度は身構えなかった。
「あります」
「話せるか」
「少しずつなら」
彼女はそう言って、持参していた封筒を机へ置いた。
婚約中に自分で残していた違和感の覚え書き。
大したものではない。
けれど今なら、この人には渡せると思えた。
「当時は、神経質すぎる自分の気のせいかもしれないと思っていました」
「今は違うと」
「ええ。いま見ると、全部が別の意味に見えてきます」
ディルハルトは封筒へ手を伸ばしたが、すぐには開かなかった。
代わりに、先にルヴェリアを見る。
「君にとって嫌な記録なら、無理はしなくていい」
予想外の一言だった。
ルヴェリアは息をのみ、それから静かに首を振る。
「嫌ではあります」
「……」
「でも、いま必要なのは私の気分ではありませんから」
ディルハルトはしばらく彼女を見ていたが、やがて短く言った。
「そういうところが、君の強さだ」
その瞬間、ルヴェリアは不意に視線を落とした。
真正面からそう言われると、どうにも困る。
強いつもりでやっているわけではない。ただ、立ち止まる方がもっと嫌なだけだ。
「困ります」
つい漏れた声に、ディルハルトが眉を上げる。
「またか」
「ええ、またです」
「褒められ慣れていないと言っていたな」
「そう簡単には慣れません」
「なら、時間をかけるしかない」
さらりと言われ、ルヴェリアは今度こそ言葉を失った。
時間をかける。
調査のことを言っているのかもしれない。
信頼のことかもしれない。
だが、その響きは妙に胸へ残った。
窓の外では、午後の光が少し傾き始めていた。
部屋の中にはまだ書類が山ほどある。偽金の流れは止まっていない。伯爵家の裏を暴くには、まだまだ足りない。
それでも。
ルヴェリアは茶杯を置き、静かに息をついた。
この戦いは、一人でやるものではないのだと、少しずつ実感し始めていた。
奪われた婚約の痛みを抱えたままでも。
怒りが胸に残っていても。
その隣で、冷静に地図を広げ、数字を並べ、一緒に流れを追ってくれる人がいる。
それは思っていた以上に、心を強くした。
ディルハルトが封筒を取り上げる。
「では、続きを始めよう」
「はい」
ルヴェリアは頷いた。
その返事は、最初に王宮へ呼ばれた日のものより、ずっと軽やかだった。
王宮の執務棟は、今日も静かだった。
静か、といっても人がいないわけではない。文官が行き交い、侍従が書類を運び、遠くでは扉の開閉する音もする。けれど舞踏会や謁見の間にあるような華やかな騒がしさではなく、必要な音だけが積み重なる静けさだった。
ルヴェリアはその空気が嫌いではなかった。
感情より順序。
見栄より実務。
少なくともここでは、誰がどんな宝石をつけているかより、どの書類がどこへ回るかの方が重要らしい。
それだけで、少しだけ息がしやすい。
「こちらです、ルヴェリア様」
案内の文官に導かれ、いつもの部屋へ入る。
ディルハルトはすでに机に向かっていた。だが今日は一人ではない。部屋の端には市場監督官と財務局の若い官吏が控えており、机の上には回収された金貨の記録、商会の名簿、価格推移表が並んでいる。
ルヴェリアが入ると、ディルハルトは顔を上げた。
「来てくれて助かる」
「お呼び立てに応じただけです」
「その応じる、が助かると言っている」
簡潔な返答だった。
けれど不思議と、それだけで少し肩の力が抜ける。
ディルハルトは周囲へ視線を向けた。
「始めよう。昨日の回収分だ」
机上へ新しい一覧が広げられる。
どの区域から何枚の不審金貨が出たか、そのうちメッキ偽金と確認された比率はどれほどか。数字が整然と並ぶ中で、ルヴェリアはすぐに一点へ目を止めた。
「高級商店街の南側で増えていますね」
市場監督官が頷く。
「はい。特に宝飾商、香油商、織物関係の店で多く見つかっています」
「夜会向けの品が動く区域だわ」
「我々もそう見ています」
ルヴェリアはさらに紙をめくる。
中央市場、河岸、高級商店街。
三つの区域に濃淡の差はあれど、不審金貨は確実に同じ流れに沿っていた。
ディルハルトが机に手を置きながら尋ねる。
「君なら、この三点をどう繋ぐ」
ルヴェリアは少し考え、王都の地図へ歩み寄った。
「高級商店街でまず見栄の消費に使う。高額品なら、受け取る側も多少の違和感を“景気の良さ”で流しやすい」
指先を南側へ滑らせる。
「そこから商人の支払いを通じて河岸へ流れる。河岸は物資と現金が混ざる場所だから、出どころが曖昧になりやすい」
さらに中央市場を示す。
「最後に、中央市場の卸や小売へ落ちる。そうなれば庶民の生活圏まで降りてくる」
部屋の中が静まる。
市場監督官も、財務局の官吏も、黙って地図を見つめていた。
「つまり」
ディルハルトが低く言う。
「贅沢の場で顔を作り、流通の場で正体を薄め、生活の場で定着させる」
「はい」
ルヴェリアは頷く。
「だから厄介なのです。最初の入口がきらびやかであるほど、その先で疑われにくい」
市場監督官が苦い顔になる。
「誰も、宝石店で受け取った金が翌朝にはパンの値段を押し上げるとは思いませんからな」
「でも、実際にはそうなっているわ」
ルヴェリアの声は自然と冷えた。
市場で見た母子の顔が、まだ頭から離れないのだ。
その時、ディルハルトが一枚の報告書を差し出した。
「これは昨夜まとめさせたものだ。ヴォルゼック伯爵家と継続的に取引している商会の一覧」
ルヴェリアは紙を受け取る。
予想はしていた。けれど実際に名前が並ぶと、胸の奥に硬いものが沈んだ。
宝飾商。
香油商。
布商。
倉庫商。
河岸の仲買。
そしていくつかの、表向きの事業内容が曖昧な金融仲介人。
「……多いですね」
「多い」
ディルハルトは短く返す。
「ただし、取引があるだけでは罪にはならない」
「ええ。名門伯爵家なら当然の範囲、と言い逃れできるわ」
「だからこそ、君の見方が要る」
その言葉に、ルヴェリアは報告書から顔を上げた。
ディルハルトはいつものように、余計な飾りのない目で彼女を見ている。
「数字だけでは、ただ広く商いをしている家に見える。だが君は、流れの不自然さを見ている」
「……買い方と、見せ方です」
「そうだ」
そのまっすぐな肯定に、ルヴェリアは一瞬だけ言葉に詰まった。
婚約を奪われたあの日から、ずっと自分の感覚を慎重に扱ってきた。怒りに引っ張られていると思われたくなかった。私怨と片づけられたくなかった。
けれどディルハルトは、彼女の慎重さごと見ている。
曖昧な感覚をそのまま信じるのではなく、証拠へ変えようとするところまで含めて。
「ありがとうございます」
思わず漏れたその言葉に、ディルハルトはわずかに首を傾ける。
「礼を言われることか」
「……信じていただいているのだと思いましたので」
一瞬だけ、部屋の空気がやわらいだ気がした。
ディルハルトはほんの少しだけ口元を緩める。
「信じるというより、正しい手順を踏んでいる者を評価しているだけだ」
「十分です」
それは本心だった。
甘い慰めより、よほど胸に残る。
市場監督官たちが退室した後、部屋にはルヴェリアとディルハルトだけが残った。
机の上にはまだ資料が広がっている。
だがさっきまでの公的な空気とは少し違い、張りつめた実務の中に、わずかな呼吸の余地が生まれていた。
ディルハルトは自分で茶器を取り、二人分の茶を注いだ。
侍従を呼ばないのが、この人らしいとルヴェリアは思う。
「少し休め」
差し出された茶杯を受け取りながら、ルヴェリアは目を瞬いた。
「まだ途中では?」
「君は途中でも息をする必要がある」
「殿下に言われるとは思いませんでした」
「私を何だと思っている」
「休まない方だと」
「否定はしない」
そこでようやく、ルヴェリアは少し笑った。
ごく小さな笑みだったが、婚約解消の直後から思えば、自分でも驚くほど自然なものだった。
ディルハルトはそれを見て、何も言わずに茶を一口飲む。
沈黙が落ちる。
だが気まずくはなかった。
不思議な沈黙だった。
無理に会話を埋めなくても崩れない種類のもの。
ルヴェリアは茶杯を見つめながら、ぽつりと言った。
「以前は、こういう部屋で人と落ち着いて話す未来は想像していませんでした」
「以前とは」
「婚約が続いていた頃です」
ディルハルトは黙って続きを待った。
ルヴェリアも、無理に隠す気にはならなかった。
「伯爵家の客間はいつも立派でした。でも、あまり息がつける感じではありませんでした。何を言うかより、何を言わないかの方が大切な空気だったので」
「君には窮屈だっただろうな」
「ええ。少なくとも、私はそう感じていたようです。……当時は、そこまで言葉にできませんでしたけれど」
ディルハルトは静かに頷く。
「違和感は、後になって形を持つことがある」
その言い方に、ルヴェリアは少し驚いた。
「殿下も、そういうことがありますの?」
「ある。政治は特にな」
彼は窓の外へ視線を向けた。
「最初は説明できない不快感でも、後から振り返ると、見過ごしてはいけない綻びだったと分かることがある」
ルヴェリアは、その横顔を見た。
この人は最初から完璧なわけではないのだ、と少しだけ思う。
理屈の人ではある。だが理屈だけの人ではない。形になる前の違和感を、一度は手の中で転がし、待ち、証拠になるまで見続ける辛抱を知っている。
だから、自分の話も拾ってくれるのだろう。
「……殿下と話していると」
ルヴェリアは自分でも少し迷いながら口を開く。
「無理に理解されようとしなくていい気がします」
ディルハルトが視線を戻した。
「それはどういう意味だ」
「言葉にする前から全部を説明しなくても、急かされないという意味です」
彼は少し黙ってから答えた。
「急かして、粗いものを出されても困る」
あまりにも彼らしい返答に、ルヴェリアはまた少し笑った。
「身も蓋もありませんね」
「綺麗な言い方を期待していたか」
「少しだけ」
「期待する相手を間違えている」
その会話が妙におかしくて、ルヴェリアは喉の奥でくすりと笑った。
ほんのわずかなやり取りなのに、胸の奥に張っていたものが少し和らぐ。
近づいている、と思った。
恋だとか、そういう甘い意味ではない。
けれど確かに、距離は変わってきている。
王太子と公爵令嬢という立場のまま。
調査協力者と責任者という関係のまま。
それでも、最初に会った時より、互いの言葉の置き方が少し分かるようになっている。
それがルヴェリアには心地よかった。
ディルハルトは机上の紙を指で軽く整えながら言う。
「君は、伯爵家についてまだ何か持っているな」
ルヴェリアの指先がわずかに止まる。
だが今度は身構えなかった。
「あります」
「話せるか」
「少しずつなら」
彼女はそう言って、持参していた封筒を机へ置いた。
婚約中に自分で残していた違和感の覚え書き。
大したものではない。
けれど今なら、この人には渡せると思えた。
「当時は、神経質すぎる自分の気のせいかもしれないと思っていました」
「今は違うと」
「ええ。いま見ると、全部が別の意味に見えてきます」
ディルハルトは封筒へ手を伸ばしたが、すぐには開かなかった。
代わりに、先にルヴェリアを見る。
「君にとって嫌な記録なら、無理はしなくていい」
予想外の一言だった。
ルヴェリアは息をのみ、それから静かに首を振る。
「嫌ではあります」
「……」
「でも、いま必要なのは私の気分ではありませんから」
ディルハルトはしばらく彼女を見ていたが、やがて短く言った。
「そういうところが、君の強さだ」
その瞬間、ルヴェリアは不意に視線を落とした。
真正面からそう言われると、どうにも困る。
強いつもりでやっているわけではない。ただ、立ち止まる方がもっと嫌なだけだ。
「困ります」
つい漏れた声に、ディルハルトが眉を上げる。
「またか」
「ええ、またです」
「褒められ慣れていないと言っていたな」
「そう簡単には慣れません」
「なら、時間をかけるしかない」
さらりと言われ、ルヴェリアは今度こそ言葉を失った。
時間をかける。
調査のことを言っているのかもしれない。
信頼のことかもしれない。
だが、その響きは妙に胸へ残った。
窓の外では、午後の光が少し傾き始めていた。
部屋の中にはまだ書類が山ほどある。偽金の流れは止まっていない。伯爵家の裏を暴くには、まだまだ足りない。
それでも。
ルヴェリアは茶杯を置き、静かに息をついた。
この戦いは、一人でやるものではないのだと、少しずつ実感し始めていた。
奪われた婚約の痛みを抱えたままでも。
怒りが胸に残っていても。
その隣で、冷静に地図を広げ、数字を並べ、一緒に流れを追ってくれる人がいる。
それは思っていた以上に、心を強くした。
ディルハルトが封筒を取り上げる。
「では、続きを始めよう」
「はい」
ルヴェリアは頷いた。
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