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16話 消された職人
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16話 消された職人
王宮を出た後も、ルヴェリアの胸には妙な熱が残っていた。
ディルハルトと向かい合って話していた時間のせいなのか、それとも伯爵家へ繋がる線がいよいよ濃くなってきたせいなのか、自分でもはっきりしない。
ただひとつ確かなのは、もう戻れないところまで来ているということだった。
会計室へ戻ると、エミリアがすぐに立ち上がった。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。追加の報告は来ている?」
「はい。王宮からの使いが一度。あと、河岸の帳場に顔の利く家令からも」
ルヴェリアは手袋を外しながら頷く。
「先に王宮の方を」
エミリアが差し出した紙には、短くこう記されていた。
河岸の鋳造職人の一人が、不審な金属の加工依頼について証言する意向を示した。今夜、王宮側で極秘に接触予定。
その一文を見た瞬間、ルヴェリアの背筋が微かに伸びた。
「職人……」
「とうとう、ですね」
エミリアの声も低い。
「ええ。ここまで来れば、ただの流通経路だけじゃない。作る側の証言になる」
鋳造職人。
それは大きい。
偽金の存在を証明するだけなら、もうできる。だが誰が、どこで、どう作らせたかとなると、現場に近い人間の証言が一気に重みを持つ。
しかも職人は、商会の人間のように帳簿の名義で逃げることが難しい。見たこと、触ったもの、使った型、混ぜた金属。そうした具体の記憶を持っている。
ルヴェリアは紙を机に置いた。
「殿下は今夜、接触なさるつもりなのね」
「そのようです」
「急ぐはずだわ」
急がなければならない。
こちらが辿れるということは、向こうもまた、辿られる危険に気づき始めているはずだから。
その時、二枚目の報告を開いたエミリアが、わずかに顔を曇らせた。
「お嬢様……」
「どうしたの」
「河岸の方の報せですが……」
紙を受け取る。
そこには乱れた筆致で、こう書かれていた。
問題の職人、接触前に姿を消す。工房は荒らされ、同居人は“夜逃げだろう”と証言。だが、近隣では深夜に揉める声を聞いた者あり。
ルヴェリアは数秒、無言だった。
目が紙の上を滑るのに、意味がすぐには頭へ落ちなかった。
そのあとで、静かに理解が追いつく。
「……消されたのね」
エミリアが頷く。
「おそらく」
会計室の空気が、一気に冷えた。
窓の外ではまだ日が高いのに、部屋の中だけ夕方のように沈む。
ルヴェリアはゆっくりと紙を置いた。
怒りとも違う、もっと鋭い感覚が胸の奥を走る。
遅かった、と思った。
接触の予定があったということは、どこかで情報が漏れたのだ。あるいは、向こうがこちらの動きを読むのが、それだけ上手いのかもしれない。
どちらにせよ、相手はもう偽金を流すだけの連中ではない。
証言者を消すことに、躊躇がない。
「殿下へ連絡は?」
「すでに王宮側へ飛ばしています」
「そう」
ルヴェリアは椅子へ腰を下ろした。
職人は怖くなって逃げたのかもしれない、という言い逃れはできる。工房が荒らされていても、借金取りや酔漢の仕業だと言い張ることも可能だろう。
けれど、タイミングができすぎている。
証言する意向を示した直後に、姿を消す。
そんな偶然が続くほど、世の中は甘くない。
エミリアがそっと尋ねた。
「これで、どうなりますか」
「分からないわ。でも一つだけはっきりした」
ルヴェリアは顔を上げる。
「相手は、自分たちの流れを守るためなら人一人消すことも厭わない」
それを口にした瞬間、偽金事件は完全に別の顔を見せた。
これまでも王都を蝕む毒ではあった。
だがどこかで、金と流通の歪みという、冷たい仕組みの話として見ていたところがある。
けれど今は違う。
人が消えた。
それも、おそらくは口を開こうとしたから。
それはもう、経済犯罪だけではない。
「……本当に、汚いわね」
呟いた言葉は、ほとんど独り言だった。
エミリアは何も返さない。
返せないのだろう。
代わりに、机の端へ新しい紙束を寄せた。
「お嬢様、王宮へ向かわれますか」
「ええ。今すぐ」
ルヴェリアは立ち上がった。
こんな時、家で待っている気にはなれない。自分にできることがあるか分からなくても、少なくとも状況は共有すべきだ。
そして何より、この件を前にして、ディルハルトがどう動くかを知りたかった。
彼なら感情だけで怒鳴ることはない。
だが、怒らないからといって軽く見る人でもない。
王宮へ向かう馬車の中、ルヴェリアは窓の外を見ながら、何度も職人のことを思った。
顔も知らない。
名前も、まだ手元にない。
ただ、証言しようとしたという事実だけがある。
もしかすると、脅されて仕方なく関わっていたのかもしれない。
もしかすると、金に釣られて深入りし、怖くなって抜けたくなったのかもしれない。
どちらにせよ、口を開こうとした瞬間に消された。
それだけで十分だった。
王宮へ着くと、案内の文官の顔もいつもより硬い。
「殿下がすぐにお会いになるそうです」
「やはり、報告は届いているのね」
「はい」
通された部屋には、すでにディルハルトがいた。
机の上には数枚の急報。側近らしい文官が二人控えていたが、ルヴェリアが入るとすぐに下がる。
扉が閉じる。
沈黙の中で、ディルハルトが先に口を開いた。
「来ると思っていた」
「来ます」
ルヴェリアも無駄な前置きはしなかった。
「職人の件、聞きました」
「ああ」
彼の声は平坦だった。
だが平坦だからこそ、底に沈んだ怒りが分かる。
机の上の報告へ視線を落としながら、ディルハルトは続けた。
「工房は荒らされていた。争った跡もある。だが、決定的な血痕は残っていない」
「生きて連れ去られた可能性も」
「ある」
「見つかるでしょうか」
その問いに、ディルハルトは数秒答えなかった。
やがて静かに言う。
「見つける。だが、急がなければならない」
ルヴェリアは頷いた。
それが現実的な答えだ。
希望だけで動く人ではない。だからこそ、その短い言葉の重みがあった。
「こちらの動きが漏れているのでしょうか」
ルヴェリアが尋ねると、ディルハルトは首を横に振る。
「断定はまだ早い。だが少なくとも、向こうはかなり敏感だ。河岸の空気が少し変わっただけで察知できる程度には」
「つまり、末端ではない」
「ああ」
彼は地図の置かれた板へ歩いた。
「流通だけを握っている連中なら、ここまで早く証言者へ手は届かない。製造と運搬と売り捌き、その全部の連絡が近い位置で繋がっている」
ルヴェリアもあとに続く。
その言葉で、伯爵家の影がさらに濃くなった。
表の商会だけでは不可能だ。
これだけの反応速度は、普段から“消す”側の論理で動いている組織でなければ出ない。
「偽造ギルド……」
思わず漏れた言葉に、ディルハルトが視線を向けた。
「君もそこへ辿り着いたか」
「確証はありません。でも、印章偽造や証文改ざんの噂が前からあったのは事実です」
「私も同じ報告を受けている」
二人の視線が地図の上で交錯する。
中央市場。
河岸。
高級商店街。
そこを結ぶ流れの裏に、目に見えない別の道がある。
正規の帳簿には載らず、だが現実には確かに物と金と人が動く道。
ルヴェリアは低く言った。
「伯爵家の裏に、その道があるかもしれません」
「……婚約中に感じた違和感か」
「ええ」
ルヴェリアは封筒に入れて渡した覚え書きのことを思い出す。
まだ全部を精査しきれてはいない。だが今この状況を見ると、あの頃の些細な引っかかりが、ただの気のせいではなかったと強く思う。
ディルハルトは机へ戻り、紙を一枚取り上げた。
「君の覚え書きにあった裏口の導線と、河岸の倉庫からの搬出記録が一つ重なる」
「重なる?」
「伯爵家の管理する倉庫の一部で、夜間の荷動きが不自然だ」
ルヴェリアの胸が詰まる。
やはり。
「でも、まだ夜間搬出だけでは」
「罪にはならない」
ディルハルトが言葉を引き取る。
「だから腹が立つ」
その一言は、これまでで一番、人間らしい響きを持っていた。
ルヴェリアは思わず彼の顔を見た。
彼はいつも抑えている。
理屈の人だ。
だが今は違った。
消された職人への怒りと、証拠の一歩手前で逃げられることへの苛立ちが、確かに滲んでいる。
「殿下」
呼ぶと、ディルハルトはすぐにこちらを見た。
ルヴェリアは少し迷ってから言った。
「……私も腹が立っています」
「分かっている」
「いいえ、たぶん殿下が思うより」
自分でも驚くほど、声が静かだった。
叫びたいわけではない。
泣きたいわけでもない。
ただ、怒りがひどく澄んでいる。
「市場で困っている人たちを見ました。今日のパンを買えない母親も」
ディルハルトは何も言わない。
だが、その沈黙は遮るためのものではなかった。
「それだけでも許せないのに、今度は口を開こうとした人間を消すなんて」
ルヴェリアは小さく息を吸った。
「……絶対に、逃がしたくありません」
ディルハルトはしばらく彼女を見つめていた。
やがて短く、しかしはっきりと言う。
「逃がさない」
その返答に、ルヴェリアの胸の奥で何かが静かに定まった。
この人は感情的に“必ず報復する”とは言わない。
だが一度そう言ったら、本当にそのための手を打つ人だ。
だから信じられる。
ディルハルトは机の上の新しい書類を開いた。
「予定を変える。受け身では遅い」
「どう動きますか」
「回収だけではなく、流れの上流を押さえる。河岸の倉庫、伯爵家と繋がる商会、そして夜会の招待客の再調査だ」
ルヴェリアもすぐに答える。
「夜会の別室へ通された者たちなら、絞れます」
「頼む」
その“頼む”が、もはや形式ではないことは分かっていた。
二人は再び机へ向かい、書類を広げる。
職人は消えた。
けれど、そのせいで向こうのやり口がよりはっきりした。
隠すだけではない。消す。
それならこちらも、次は消される前に流れを押さえなければならない。
ルヴェリアはペンを手に取りながら、ふと思った。
最初に王宮へ来た頃より、自分はずっと深い場所まで踏み込んでいる。
怖さがないわけではない。
けれど、怖いからやめるという段階は、もう過ぎていた。
ディルハルトが隣で紙を押さえながら言う。
「今日は遅くなる」
「分かっています」
「後悔はしていないか」
不意の問いに、ルヴェリアは手を止めた。
何についての後悔か、説明はいらなかった。
関わったこと。
踏み込んだこと。
婚約者だった男の家を疑う側に立ったこと。
その全部だろう。
「していません」
ルヴェリアは迷わず答えた。
「いま後ろを向く方が、よほど後悔します」
ディルハルトは一度だけ頷いた。
それで十分だった。
部屋の外では、夕方の鐘が遠く鳴り始めていた。
王都は今日も、何食わぬ顔で夜を迎える。
けれどその裏で、ひとりの職人が消えた。
そしてそのことを知る者たちが、静かに牙を研ぎ始めている。
ルヴェリアは書類へ視線を落とし、もう一度だけ心の中で繰り返した。
逃がさない。
その言葉は、もう願いではなく、決意になっていた。
王宮を出た後も、ルヴェリアの胸には妙な熱が残っていた。
ディルハルトと向かい合って話していた時間のせいなのか、それとも伯爵家へ繋がる線がいよいよ濃くなってきたせいなのか、自分でもはっきりしない。
ただひとつ確かなのは、もう戻れないところまで来ているということだった。
会計室へ戻ると、エミリアがすぐに立ち上がった。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。追加の報告は来ている?」
「はい。王宮からの使いが一度。あと、河岸の帳場に顔の利く家令からも」
ルヴェリアは手袋を外しながら頷く。
「先に王宮の方を」
エミリアが差し出した紙には、短くこう記されていた。
河岸の鋳造職人の一人が、不審な金属の加工依頼について証言する意向を示した。今夜、王宮側で極秘に接触予定。
その一文を見た瞬間、ルヴェリアの背筋が微かに伸びた。
「職人……」
「とうとう、ですね」
エミリアの声も低い。
「ええ。ここまで来れば、ただの流通経路だけじゃない。作る側の証言になる」
鋳造職人。
それは大きい。
偽金の存在を証明するだけなら、もうできる。だが誰が、どこで、どう作らせたかとなると、現場に近い人間の証言が一気に重みを持つ。
しかも職人は、商会の人間のように帳簿の名義で逃げることが難しい。見たこと、触ったもの、使った型、混ぜた金属。そうした具体の記憶を持っている。
ルヴェリアは紙を机に置いた。
「殿下は今夜、接触なさるつもりなのね」
「そのようです」
「急ぐはずだわ」
急がなければならない。
こちらが辿れるということは、向こうもまた、辿られる危険に気づき始めているはずだから。
その時、二枚目の報告を開いたエミリアが、わずかに顔を曇らせた。
「お嬢様……」
「どうしたの」
「河岸の方の報せですが……」
紙を受け取る。
そこには乱れた筆致で、こう書かれていた。
問題の職人、接触前に姿を消す。工房は荒らされ、同居人は“夜逃げだろう”と証言。だが、近隣では深夜に揉める声を聞いた者あり。
ルヴェリアは数秒、無言だった。
目が紙の上を滑るのに、意味がすぐには頭へ落ちなかった。
そのあとで、静かに理解が追いつく。
「……消されたのね」
エミリアが頷く。
「おそらく」
会計室の空気が、一気に冷えた。
窓の外ではまだ日が高いのに、部屋の中だけ夕方のように沈む。
ルヴェリアはゆっくりと紙を置いた。
怒りとも違う、もっと鋭い感覚が胸の奥を走る。
遅かった、と思った。
接触の予定があったということは、どこかで情報が漏れたのだ。あるいは、向こうがこちらの動きを読むのが、それだけ上手いのかもしれない。
どちらにせよ、相手はもう偽金を流すだけの連中ではない。
証言者を消すことに、躊躇がない。
「殿下へ連絡は?」
「すでに王宮側へ飛ばしています」
「そう」
ルヴェリアは椅子へ腰を下ろした。
職人は怖くなって逃げたのかもしれない、という言い逃れはできる。工房が荒らされていても、借金取りや酔漢の仕業だと言い張ることも可能だろう。
けれど、タイミングができすぎている。
証言する意向を示した直後に、姿を消す。
そんな偶然が続くほど、世の中は甘くない。
エミリアがそっと尋ねた。
「これで、どうなりますか」
「分からないわ。でも一つだけはっきりした」
ルヴェリアは顔を上げる。
「相手は、自分たちの流れを守るためなら人一人消すことも厭わない」
それを口にした瞬間、偽金事件は完全に別の顔を見せた。
これまでも王都を蝕む毒ではあった。
だがどこかで、金と流通の歪みという、冷たい仕組みの話として見ていたところがある。
けれど今は違う。
人が消えた。
それも、おそらくは口を開こうとしたから。
それはもう、経済犯罪だけではない。
「……本当に、汚いわね」
呟いた言葉は、ほとんど独り言だった。
エミリアは何も返さない。
返せないのだろう。
代わりに、机の端へ新しい紙束を寄せた。
「お嬢様、王宮へ向かわれますか」
「ええ。今すぐ」
ルヴェリアは立ち上がった。
こんな時、家で待っている気にはなれない。自分にできることがあるか分からなくても、少なくとも状況は共有すべきだ。
そして何より、この件を前にして、ディルハルトがどう動くかを知りたかった。
彼なら感情だけで怒鳴ることはない。
だが、怒らないからといって軽く見る人でもない。
王宮へ向かう馬車の中、ルヴェリアは窓の外を見ながら、何度も職人のことを思った。
顔も知らない。
名前も、まだ手元にない。
ただ、証言しようとしたという事実だけがある。
もしかすると、脅されて仕方なく関わっていたのかもしれない。
もしかすると、金に釣られて深入りし、怖くなって抜けたくなったのかもしれない。
どちらにせよ、口を開こうとした瞬間に消された。
それだけで十分だった。
王宮へ着くと、案内の文官の顔もいつもより硬い。
「殿下がすぐにお会いになるそうです」
「やはり、報告は届いているのね」
「はい」
通された部屋には、すでにディルハルトがいた。
机の上には数枚の急報。側近らしい文官が二人控えていたが、ルヴェリアが入るとすぐに下がる。
扉が閉じる。
沈黙の中で、ディルハルトが先に口を開いた。
「来ると思っていた」
「来ます」
ルヴェリアも無駄な前置きはしなかった。
「職人の件、聞きました」
「ああ」
彼の声は平坦だった。
だが平坦だからこそ、底に沈んだ怒りが分かる。
机の上の報告へ視線を落としながら、ディルハルトは続けた。
「工房は荒らされていた。争った跡もある。だが、決定的な血痕は残っていない」
「生きて連れ去られた可能性も」
「ある」
「見つかるでしょうか」
その問いに、ディルハルトは数秒答えなかった。
やがて静かに言う。
「見つける。だが、急がなければならない」
ルヴェリアは頷いた。
それが現実的な答えだ。
希望だけで動く人ではない。だからこそ、その短い言葉の重みがあった。
「こちらの動きが漏れているのでしょうか」
ルヴェリアが尋ねると、ディルハルトは首を横に振る。
「断定はまだ早い。だが少なくとも、向こうはかなり敏感だ。河岸の空気が少し変わっただけで察知できる程度には」
「つまり、末端ではない」
「ああ」
彼は地図の置かれた板へ歩いた。
「流通だけを握っている連中なら、ここまで早く証言者へ手は届かない。製造と運搬と売り捌き、その全部の連絡が近い位置で繋がっている」
ルヴェリアもあとに続く。
その言葉で、伯爵家の影がさらに濃くなった。
表の商会だけでは不可能だ。
これだけの反応速度は、普段から“消す”側の論理で動いている組織でなければ出ない。
「偽造ギルド……」
思わず漏れた言葉に、ディルハルトが視線を向けた。
「君もそこへ辿り着いたか」
「確証はありません。でも、印章偽造や証文改ざんの噂が前からあったのは事実です」
「私も同じ報告を受けている」
二人の視線が地図の上で交錯する。
中央市場。
河岸。
高級商店街。
そこを結ぶ流れの裏に、目に見えない別の道がある。
正規の帳簿には載らず、だが現実には確かに物と金と人が動く道。
ルヴェリアは低く言った。
「伯爵家の裏に、その道があるかもしれません」
「……婚約中に感じた違和感か」
「ええ」
ルヴェリアは封筒に入れて渡した覚え書きのことを思い出す。
まだ全部を精査しきれてはいない。だが今この状況を見ると、あの頃の些細な引っかかりが、ただの気のせいではなかったと強く思う。
ディルハルトは机へ戻り、紙を一枚取り上げた。
「君の覚え書きにあった裏口の導線と、河岸の倉庫からの搬出記録が一つ重なる」
「重なる?」
「伯爵家の管理する倉庫の一部で、夜間の荷動きが不自然だ」
ルヴェリアの胸が詰まる。
やはり。
「でも、まだ夜間搬出だけでは」
「罪にはならない」
ディルハルトが言葉を引き取る。
「だから腹が立つ」
その一言は、これまでで一番、人間らしい響きを持っていた。
ルヴェリアは思わず彼の顔を見た。
彼はいつも抑えている。
理屈の人だ。
だが今は違った。
消された職人への怒りと、証拠の一歩手前で逃げられることへの苛立ちが、確かに滲んでいる。
「殿下」
呼ぶと、ディルハルトはすぐにこちらを見た。
ルヴェリアは少し迷ってから言った。
「……私も腹が立っています」
「分かっている」
「いいえ、たぶん殿下が思うより」
自分でも驚くほど、声が静かだった。
叫びたいわけではない。
泣きたいわけでもない。
ただ、怒りがひどく澄んでいる。
「市場で困っている人たちを見ました。今日のパンを買えない母親も」
ディルハルトは何も言わない。
だが、その沈黙は遮るためのものではなかった。
「それだけでも許せないのに、今度は口を開こうとした人間を消すなんて」
ルヴェリアは小さく息を吸った。
「……絶対に、逃がしたくありません」
ディルハルトはしばらく彼女を見つめていた。
やがて短く、しかしはっきりと言う。
「逃がさない」
その返答に、ルヴェリアの胸の奥で何かが静かに定まった。
この人は感情的に“必ず報復する”とは言わない。
だが一度そう言ったら、本当にそのための手を打つ人だ。
だから信じられる。
ディルハルトは机の上の新しい書類を開いた。
「予定を変える。受け身では遅い」
「どう動きますか」
「回収だけではなく、流れの上流を押さえる。河岸の倉庫、伯爵家と繋がる商会、そして夜会の招待客の再調査だ」
ルヴェリアもすぐに答える。
「夜会の別室へ通された者たちなら、絞れます」
「頼む」
その“頼む”が、もはや形式ではないことは分かっていた。
二人は再び机へ向かい、書類を広げる。
職人は消えた。
けれど、そのせいで向こうのやり口がよりはっきりした。
隠すだけではない。消す。
それならこちらも、次は消される前に流れを押さえなければならない。
ルヴェリアはペンを手に取りながら、ふと思った。
最初に王宮へ来た頃より、自分はずっと深い場所まで踏み込んでいる。
怖さがないわけではない。
けれど、怖いからやめるという段階は、もう過ぎていた。
ディルハルトが隣で紙を押さえながら言う。
「今日は遅くなる」
「分かっています」
「後悔はしていないか」
不意の問いに、ルヴェリアは手を止めた。
何についての後悔か、説明はいらなかった。
関わったこと。
踏み込んだこと。
婚約者だった男の家を疑う側に立ったこと。
その全部だろう。
「していません」
ルヴェリアは迷わず答えた。
「いま後ろを向く方が、よほど後悔します」
ディルハルトは一度だけ頷いた。
それで十分だった。
部屋の外では、夕方の鐘が遠く鳴り始めていた。
王都は今日も、何食わぬ顔で夜を迎える。
けれどその裏で、ひとりの職人が消えた。
そしてそのことを知る者たちが、静かに牙を研ぎ始めている。
ルヴェリアは書類へ視線を落とし、もう一度だけ心の中で繰り返した。
逃がさない。
その言葉は、もう願いではなく、決意になっていた。
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他サイトでも掲載中です。
コメントありがとうございます。
タグのコメディに反対意見が多かったので修正しました。
必ず完結させますので、よろしくお願いします。
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