姉の婚約者を奪った義妹は、偽金まみれの恋と一緒に断罪されました

鷹 綾

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29話 判決前夜

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29話 判決前夜

公開審問を終えた王都は、奇妙な静けさに包まれていた。

賑わいが消えたわけではない。市場には相変わらず人が行き交い、河岸では荷の積み下ろしも行われている。高級商店街の店も、表向きはいつも通り扉を開けていた。

けれど、その空気の底が変わっていた。

誰もが少し声を潜めている。

少しだけ周囲を見てから話す。

そして、ヴォルゼック伯爵家の名を出す時だけは、ひどく慎重になる。

偽金事件はもう、噂ではなくなったのだ。

伯爵家は押さえられ、偽造ギルドとの結びつきも公になり、公開審問ではゼルカインがオルフィナを切り捨てた。

そこまで明るみに出れば、王都中が理解する。

あれほど華やかだったものが、実は泥の上の輝きだったのだと。

その日の夕方、ルヴェリアは久しぶりに王都の市場へ足を運んでいた。

もちろん、以前のように一人で様子を見に来たわけではない。王宮の監督官が同行し、値下がりが始まった品目の確認と、偽金回収後の市場の動きを見るためだ。

だがルヴェリアにとっては、それ以上の意味があった。

ここがすべての始まりだったからだ。

最初に違和感を覚えた場所。

パンの値札に戸惑う母親を見た場所。

石鹸を前に立ち尽くす老人を見た場所。

あの時から比べれば、市場の空気は確かに少し変わっている。

「今日は丸パンが少し戻りました」

店主がそう言う。

「まだ前の値には届きませんが、昨日よりはずっとましです」

別の油屋でも、同じような声を聞いた。

「変な大口買いが止まりましたからね。ようやく、普通の客に回せる量が増えました」

“普通の客”。

その言葉が、ルヴェリアにはひどく重く響いた。

これまで“普通の客”が後回しにされていたのだ。

見栄で物を積み上げる者が先に取り、日々の暮らしに必要な者があとへ押しやられていた。

それがようやく少し戻り始めている。

完全ではない。

けれど兆しはある。

それだけで、胸の奥に張りつめていたものが少しだけ緩んだ。

市場監督官が横で言う。

「王宮の回収策と流通整理が効いてきています。河岸の押さえが成功したのが大きい」

「そうでしょうね」

ルヴェリアは頷いた。

「本当に必要なところへ、物が戻り始めているわ」

「はい」

「まだ時間はかかるでしょうけれど」

「ええ。ただ、少なくとももう、あの勢いで王都中へ偽金が流れることはありません」

その返答に、ルヴェリアはゆっくりと息を吐いた。

それで十分だった。

判決はまだ出ていない。

伯爵家も、偽造ギルドも、義妹も、まだ“罪人”として正式に裁かれてはいない。

けれど王都の流れは、ようやく正常へ向かい始めている。

それだけで、自分がやってきたことが無駄ではなかったと分かる。

王宮へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。

執務棟の一室には、もうディルハルトがいた。

窓辺に立ち、王都の夕景を見ている。

振り返った時の表情はいつも通り落ち着いていたが、審問の前まであった硬さが少しだけ薄れているように見えた。

「戻ったか」

「ええ」

「どうだった」

ルヴェリアは外套を外しながら答える。

「まだ完全ではありません。でも、少しずつ戻っています」

「そうか」

「パンも、油も、石鹸も。前よりはましでした」

ディルハルトは短く頷いた。

その頷きだけで、彼にもその報告が必要だったのだと分かる。

証拠を押さえることと、実際に民の生活が持ち直すことは別だ。

どれほど立派な摘発でも、暮らしが良くならなければ意味がない。

この人は、そこまで見ている。

だからこそルヴェリアも、今日の市場の空気をきちんと伝えたかった。

机の上には、判決前の最終整理と思われる書類が積まれていた。

伯爵家の押収物一覧。

証言の整理。

責任の区分。

文面はまだ仮のものだろうが、もう大枠は決まっているはずだ。

ルヴェリアがそれを見ていると、ディルハルトが淡々と言った。

「判決は明日だ」

「はい」

「大筋は固まった。伯爵一族、偽造ギルド幹部、主要な関係者には極刑が相当という判断で動いている」

ルヴェリアは静かにその言葉を受け止めた。

やはりそうなる。

そこに驚きはない。

偽金で市場を乱し、証文まで偽造し、証人を消し、義妹まで殺そうとした。

そこまでやって、軽い処分で済むはずがない。

「オルフィナは」

そう問うと、ディルハルトは一瞬だけ間を置いた。

「主犯ではない。だが、違和感と不正の一端を認識した後も、積極的に流通拡大へ加担したと見られている」

「ええ」

「つまり、甘い判決にはならない」

ルヴェリアは目を伏せた。

覚悟していた答えだ。

義妹を庇うつもりはない。

けれど、その名が正式な処罰の文脈で語られると、やはり胸のどこかが少し軋む。

ただ、その痛みは迷いではなかった。

あの子は知っていた。

知ったうえで選んだ。

それを見誤らないと決めたのは、自分自身だ。

ディルハルトはルヴェリアの顔を見て、声の調子を少しだけ落とした。

「無理に平気な顔をしなくていい」

その言葉に、ルヴェリアは少し驚いたように彼を見た。

「平気な顔をしていましたか」

「している」

「……そうですか」

「だが、平気である必要はない」

短い言葉だった。

それでも、妙に胸へ沁みた。

ルヴェリアは椅子へ座り、静かに息をつく。

「つらくないと言えば、嘘になります」

「だろうな」

「でも」

彼女は顔を上げた。

「つらいからといって、見なかったことにはできません」

ディルハルトは頷く。

「それでいい」

その“それでいい”が、ルヴェリアには何よりありがたかった。

無理に強くあれとも言わない。

甘く庇いもしない。

ただ、今の自分の立ち位置を、そのまま認めてくれる。

それがどれほど救いになるか、最近のルヴェリアは少しずつ知り始めていた。

窓の外では、夕焼けが王都の屋根を赤く染めていた。

審問室の冷たい石壁の中にいた時とは違う、少し柔らかな光だった。

ディルハルトは机の端の茶器へ手を伸ばし、二人分の茶を注いだ。

もう侍従を呼ばないことにも、ルヴェリアは慣れていた。

差し出された杯を受け取りながら、彼女はぽつりと言う。

「市場を見て、少しだけ安心しました」

「何に」

「ようやく、ちゃんと戻せるかもしれないと」

「戻す」

「ええ。全部を元通りにはできなくても、少なくとも、奪われたままにはしないで済むかもしれないって」

ディルハルトはしばらく黙って茶を飲んだ。

それから静かに言う。

「君がいたからだ」

また、そういうことを言う。

ルヴェリアは困ったように視線を落とした。

「まだ慣れません」

「何度も言ったな」

「ええ。何度も困ります」

その返しに、ディルハルトの口元がほんの少し和らいだ。

「では、困るたびに慣れてもらうしかない」

「横暴ですね」

「王太子だからな」

その、あまりにも淡々とした冗談に、ルヴェリアは思わず小さく笑った。

笑ってから、自分でも少し驚く。

こんな前夜に。

判決を控え、伯爵家も義妹も明日には正式な裁きへ向かうという夜に。

それでもこうして少し笑えるのは、たぶん隣の人が必要以上に重くしないからだ。

静かに受け止めて、必要なところだけ支えて、余計な感傷で濁さない。

それがどれだけありがたいか、ルヴェリアはもう分かっていた。

「殿下」

「何だ」

「……ありがとうございます」

ディルハルトはすぐには答えなかった。

少ししてから、いつものように簡潔に言う。

「礼を言われる筋ではない」

「それでもです」

「そうか」

それだけ。

それなのに、十分だった。

少しの沈黙のあと、ルヴェリアはふと尋ねる。

「明日の判決で、全部終わると思いますか」

ディルハルトは窓の外へ視線を向けた。

「終わりはしない」

「ええ」

「伯爵家が崩れれば、別の者が空いた場所を狙う。偽造ギルドも根までは一度で刈れないかもしれない」

「そうでしょうね」

「だが」

彼は視線を戻す。

「少なくとも、“何をしても金で押し流せる”と思っていた者たちには、きちんと届く」

その言葉に、ルヴェリアは静かに頷いた。

それでいいのだと思う。

明日の判決は、終わりというより、線を引くためのものだ。

ここまでは許されない。

ここから先へ進めば、地位も金も名家も守ってはくれない。

その線を、王都の全員に見せるための。

「そうですね」

ルヴェリアは茶杯を置いた。

「それで十分です」

夜は少しずつ深くなっていく。

王都では今ごろ、貴族たちが小声で明日の判決を予想し、商人たちが伯爵家との関係を必死に切り離し、オルフィナは保護施設の寝台で泣き疲れているのだろう。

そしてゼルカインは、おそらく最後まで自分だけが助かる筋を探している。

けれどもう、夜は明日へ向かっている。

逃げ場のない朝へ。

ルヴェリアは窓の外の最後の光を見ながら、静かに思った。

奪われた婚約の痛みから始まったものが、いつの間にかもっと大きなものになっていた。

王都の暮らし。

偽金の流れ。

家の腐敗。

義妹の欲。

そして、その全部を見誤らずに立ち続ける自分自身のこと。

判決前夜は、終わりを待つ夜ではなかった。

ようやく、自分が何を守ろうとしていたのかをはっきり知る夜だった。
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