31 / 32
31話 偽りではない約束
しおりを挟む
31話 偽りではない約束
判決の翌日、王都は不思議な静けさに包まれていた。
嵐の翌朝のようだった。
建物は変わらない。通りも市場も、石畳も店先も、昨日までと同じ場所にある。けれど、人々の顔だけが違っていた。
ヴォルゼック伯爵家の名を、もう誰も畏れや羨望を込めて口にしない。
あれほど眩しく見えた“金の伯爵家”は、一夜でただの罪人の名になった。
中央市場では、まだ完全ではないものの、品の流れがさらに落ち着きを見せ始めていた。
高級商店街の店々も、ようやく本来の客へ目を向け始めている。河岸では王宮の監督が強まり、倉庫の出入りは以前よりずっと厳しく確認されていた。
王都は傷ついた。
けれど、崩れたままではいない。
本物の流れを取り戻そうと、静かに立ち上がり始めている。
その朝、ルヴェリアは王宮へ呼ばれていた。
呼び出しの文面は簡潔だった。
判決後の整理と、今後の流通再建について話したい。
いかにもディルハルトらしい言い方だった。
判決が出たから終わり、ではない。
崩れた秩序をどう立て直すかまで含めて、ようやく一つの仕事が終わるのだと考えているのだろう。
王宮の執務棟へ入ると、以前より少しだけ空気が軽くなっているのを感じた。
もちろん緊張はある。
摘発と審問を駆け抜けたばかりなのだから当然だ。
それでも、あの張りつめた切迫はもう薄い。
代わりにあるのは、疲労と、わずかな安堵と、次を始めるための静かな集中だった。
いつもの部屋へ通されると、ディルハルトは机ではなく窓辺に立っていた。
王都の屋根越しに、遠くの空を見ている。
ルヴェリアが入ると、彼はすぐに振り返った。
「来てくれて助かる」
「お呼びでしたので」
「そうだな」
それだけのやり取りなのに、以前より柔らかい。
たぶん、二人とも分かっているのだ。
昨日、ようやく一つの決着を見たことを。
ディルハルトは机の上の書類を軽く示した。
「市場再編、河岸の監督強化、偽造印章の再検査、信用の回復。やることはまだ山ほどある」
「でしょうね」
「だが、その前に」
彼は一度言葉を切った。
ルヴェリアは少しだけ首を傾げる。
珍しい間だった。
この人は普段、必要なことを必要な順で話す。迷うような沈黙は滅多に見せない。
「まず、礼を言わなければならない」
ルヴェリアは目を瞬いた。
「礼、ですか」
「君がいなければ、ここまで早く辿り着けなかった」
ディルハルトはまっすぐ言った。
「最初に違和感を拾ったのは君だ。市場の顔を見たのも、金貨の異常を証明したのも、夜会と流通の結びつきを読んだのも、伯爵家の帳簿の綻びを見つけたのも」
その一つ一つが、ルヴェリアにはひどく重く聞こえた。
審問の前にも、判決の前にも、何度か似たことは言われている。
けれど今日は違った。
もう切迫した現場の中ではない。
功績として整理されたうえで、改めて真正面から言われているのだ。
「王国のために、大きな働きをしてくれた」
ルヴェリアはすぐに言葉を返せなかった。
のどの奥が少しだけ詰まる。
婚約を奪われた時、自分に残ったのは、捨てられた女という位置だけだと思っていた。
義母に軽く扱われ、義妹に見下され、元婚約者には都合の悪い女として切られた。
けれど、いま目の前の人は違う。
失ったものではなく、やったことを見ている。
それがどうしようもなく胸に響いた。
「……ありがとうございます」
ようやくそう返すと、ディルハルトはほんの少しだけ表情を和らげた。
「受け取ってくれてよかった」
「受け取らない理由はありません」
「以前より素直だな」
「殿下が何度も言うからです」
その返しに、彼は小さく息をついた。
笑った、というほどではない。
けれど明らかに空気が和らぐ。
ルヴェリアはそこでようやく、自分も少し笑っていることに気づいた。
こんなふうに笑える日が来るとは、少し前の自分は思っていなかった。
ディルハルトは机の端から一枚の文書を取り上げた。
「王宮として、正式に感謝状と功績記録を出す」
「そこまでしていただかなくても」
「する」
即答だった。
「これは私的な礼ではなく、公的な評価だ」
さすがにそこまで真顔で言われると、ルヴェリアも反論しづらい。
「……承知いたしました」
「あと、流通再建会議にも今後しばらく参加してもらいたい」
「それもですか」
「嫌か」
「嫌ではありません。ただ、思っていたよりしっかり働かされるのだなと」
それを聞いて、今度こそディルハルトは明らかに口元を緩めた。
「いまさら何を言う」
「婚約を奪われた公爵令嬢への再就職先としては、少し過酷です」
「王宮は待遇が悪いか」
「仕事量に対しては悪いかもしれません」
「なら改善を検討しよう」
「本気で仰ってます?」
「半分は」
その半分がどこまで本当なのか分からないところが、この人らしい。
ルヴェリアは小さく息を吐き、机の前の椅子へ腰を下ろした。
するとディルハルトも向かいへ座る。
少しの沈黙が落ちた。
けれど、もう気まずくはない。
あの緊張に満ちた沈黙ではなく、ようやく同じ場所に立てた者同士の静けさだった。
ルヴェリアは窓の外を見ながら、ぽつりと言った。
「昨日、判決が出た時」
「うん」
「終わった、と思いました」
「自然な感想だ」
「でも今朝、起きてから、少し違うと思ったんです」
ディルハルトは黙って続きを待つ。
「終わったというより……ようやく、自分の足で立てる場所に戻ったのだなって」
その言葉は、自分でも少し意外だった。
痛みが消えたわけではない。
妹は裁かれた。
元婚約者も極刑を受けた。
伯爵家は滅びた。
そこには間違いなく傷がある。
けれどそれでも、以前の自分に戻りたいとは思わない。
あの婚約の中にいた自分は、どこか息を潜めていた。
違和感を抱いても飲み込み、神経質だと思われたくなくて、自分の感覚に蓋をしていた。
今の方が、よほどまっすぐ立てている。
ディルハルトが低く言う。
「それは、いいことだ」
「ええ」
「君は、もう誰かに価値を決められる側ではない」
その言葉に、ルヴェリアの胸が静かに揺れた。
価値を決められる側ではない。
まさしくその通りだった。
義母にとって都合のいい娘でも。
義妹に勝ち負けを測られる姉でも。
伯爵家に扱いにくい婚約者として捨てられる女でもない。
いまの自分は、自分の見たものと、選んだことと、成し遂げたことで立っている。
「……殿下」
「何だ」
「私、少しだけ安心しているのかもしれません」
「何に」
「もう、誰かに捨てられることを前提にしなくていいのだと、思えたことに」
言ってから、ルヴェリアは少しだけ視線を落とした。
踏み込みすぎただろうかと思ったのだ。
けれどディルハルトは、すぐには何も言わなかった。
その沈黙が、妙に優しかった。
やがて彼は静かに答える。
「君を捨てるのは、見る目のない者だけだ」
その一言に、ルヴェリアは完全に言葉を失った。
冗談でもなく、慰めでもなく、あまりに真っ直ぐだったからだ。
頬が少し熱くなるのを感じて、思わず視線を逸らす。
「……そういうことを、あまり急に言わないでください」
「急だったか」
「急でした」
「なら覚えておく」
まったく覚えていない顔で言うものだから、ルヴェリアは困ったように笑うしかなかった。
その笑いを見て、ディルハルトの表情もやわらぐ。
それから彼は、机の上に置いてあった小さな箱を手に取った。
王家の紋章が入った、飾り気のない箱だった。
「これは公的なものではない」
ルヴェリアは箱へ目を落とす。
「何ですか」
「開けてくれ」
そっと蓋を開く。
中には、細い金属のペンが納められていた。
派手な宝石はない。
だが材質は良く、手に馴染みそうな、美しい実用品だった。
「……筆記具」
「君には宝石より似合うと思った」
その言葉に、ルヴェリアは思わず笑ってしまった。
「ひどい言い方ですね」
「気に入らないか」
「いいえ」
ルヴェリアはペンを手に取る。
重すぎず、軽すぎず、ちょうどいい。
飾りではなく、使うためのもの。
たしかに、自分にはよく似合うかもしれない。
「とても嬉しいです」
「そうか」
「ええ。とても」
宝石ではない。
見栄のためでもない。
自分が実際に使うための贈り物。
それがひどく嬉しかった。
オルフィナが欲しがったものとは、きっと正反対だ。
けれど、だからこそ本物だと思えた。
しばらく二人の間に静かな時間が流れた。
やがてディルハルトが姿勢を正す。
その動きで、空気も少し変わる。
ルヴェリアは自然と顔を上げた。
彼の目が、まっすぐこちらを見ている。
さっきまでの柔らかな空気とは少し違う、もっとはっきりした決意を持つ目だった。
「ルヴェリア」
名前を呼ばれる。
それだけで、胸の奥が静かに鳴る。
「はい」
「公的な話は終わった」
「ええ」
「ここからは、私的な話をしたい」
その言葉の意味に気づいた瞬間、ルヴェリアの呼吸が少しだけ浅くなった。
けれど不思議と、逃げたいとは思わない。
むしろ、ここまで来たのだと分かる。
一緒に地図を見て、帳簿を追い、偽金を見抜き、審問をくぐり抜けてきた先に、この人が何を言おうとしているのか。
たぶんもう、分かっている。
ディルハルトは言った。
「私は、君を高く評価している」
ルヴェリアは黙って聞く。
「能力も、判断も、強さもだ。だが、それだけではない」
「……」
「私は君を、一人の女性として敬愛している」
その言葉は、ひどく静かだった。
甘くない。
大げさでもない。
けれど、だからこそ逃げ場のない真剣さがあった。
「今回の件がなかったとしても、いずれ私は君を気にかけただろうと思う」
ルヴェリアは手の中のペンをそっと握る。
「ですが、今回の件を通して、それが確信になった」
「殿下……」
「君がよければ」
そこでディルハルトは、ごく短く息をついた。
珍しいことだった。
この人でも、こういう時には少し緊張するのだと分かって、ルヴェリアは胸が少しだけ熱くなる。
「婚約を前提として、私の隣に立ってほしい」
部屋が静まり返る。
外では王都の音がかすかにするのに、ここだけ別の時間になったようだった。
奪われた婚約とは、まるで違う。
あの時は、家の都合が先にあった。
財が先にあり、見栄が先にあり、その中で自分は“相応しい駒”として置かれていただけだった。
けれど今は違う。
地位もある。
王太子なのだから当然だ。
だがそれ以前に、この人は自分が見たものとやったことを知ったうえで、そこに立ってほしいと言っている。
それがどれほど大きな違いか、ルヴェリアにはよく分かった。
「……それは」
ようやく声を出すと、自分でも少し震えていた。
「責任感からではありませんか」
ディルハルトはすぐに首を横へ振った。
「違う」
即答だった。
「責任なら、公的な感謝で足りる」
その言い方があまりにもこの人らしくて、ルヴェリアは少しだけ笑いそうになる。
でも泣きそうでもあった。
「私は、君だから望んでいる」
その言葉で、最後のためらいがほどけた気がした。
ルヴェリアはゆっくり息を吸い、まっすぐ彼を見る。
「……はい」
たった一言なのに、胸がいっぱいになる。
ディルハルトの目がわずかに和らぐ。
ルヴェリアは続けた。
「私でよければ」
「君がいい」
また、そういうことをさらりと言う。
困る、と思いながらも、今度は少しだけ慣れた自分がいた。
彼は机越しではなく、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
すぐ目の前で立ち止まり、けれど触れはしない。
その距離感が、いまはありがたかった。
急がない。
奪わない。
確かめるように、一歩ずつ来てくれる。
それがこの人だ。
「正式な手順はこれから踏む」
「はい」
「急がせる気はない。だが、私はもう決めている」
「……はい」
「君が隣にいてくれたら嬉しい」
ルヴェリアは目を伏せた。
頬が熱い。
けれど嫌ではない。
こんなふうに言われることが、まだ少し信じられないだけだ。
しばらくして、彼女は小さく言った。
「私も……」
ディルハルトが待つ。
「私も、殿下と一緒にいると、無理をしなくていい気がします」
それは、今のルヴェリアに言える最大限の言葉だった。
愛しています、と簡単に言えるほど、まだ自分の心を軽く扱えない。
けれど、この人といると呼吸がしやすい。
見誤らなくていい。
捨てられる前提で身構えなくていい。
その安心は、たぶんもう十分に特別だ。
ディルハルトは短く頷く。
「それで十分だ」
その返答に、ルヴェリアはほっとした。
急がせない。
答えを飾らせない。
やはりこの人は、どこまで行ってもこの人なのだ。
窓の外では、夕方の光が少しずつ傾いている。
王都の上に、新しい色が落ちていた。
昨日までの裁きの色ではない。
もっと静かで、確かな色。
ルヴェリアは手の中のペンを見下ろしながら、思った。
これは、奪われた婚約の代わりではない。
失ったものの埋め合わせでもない。
自分の知性と誇りと選択の先で、ようやく自分の手に来た、本物の約束なのだと。
判決の翌日、王都は不思議な静けさに包まれていた。
嵐の翌朝のようだった。
建物は変わらない。通りも市場も、石畳も店先も、昨日までと同じ場所にある。けれど、人々の顔だけが違っていた。
ヴォルゼック伯爵家の名を、もう誰も畏れや羨望を込めて口にしない。
あれほど眩しく見えた“金の伯爵家”は、一夜でただの罪人の名になった。
中央市場では、まだ完全ではないものの、品の流れがさらに落ち着きを見せ始めていた。
高級商店街の店々も、ようやく本来の客へ目を向け始めている。河岸では王宮の監督が強まり、倉庫の出入りは以前よりずっと厳しく確認されていた。
王都は傷ついた。
けれど、崩れたままではいない。
本物の流れを取り戻そうと、静かに立ち上がり始めている。
その朝、ルヴェリアは王宮へ呼ばれていた。
呼び出しの文面は簡潔だった。
判決後の整理と、今後の流通再建について話したい。
いかにもディルハルトらしい言い方だった。
判決が出たから終わり、ではない。
崩れた秩序をどう立て直すかまで含めて、ようやく一つの仕事が終わるのだと考えているのだろう。
王宮の執務棟へ入ると、以前より少しだけ空気が軽くなっているのを感じた。
もちろん緊張はある。
摘発と審問を駆け抜けたばかりなのだから当然だ。
それでも、あの張りつめた切迫はもう薄い。
代わりにあるのは、疲労と、わずかな安堵と、次を始めるための静かな集中だった。
いつもの部屋へ通されると、ディルハルトは机ではなく窓辺に立っていた。
王都の屋根越しに、遠くの空を見ている。
ルヴェリアが入ると、彼はすぐに振り返った。
「来てくれて助かる」
「お呼びでしたので」
「そうだな」
それだけのやり取りなのに、以前より柔らかい。
たぶん、二人とも分かっているのだ。
昨日、ようやく一つの決着を見たことを。
ディルハルトは机の上の書類を軽く示した。
「市場再編、河岸の監督強化、偽造印章の再検査、信用の回復。やることはまだ山ほどある」
「でしょうね」
「だが、その前に」
彼は一度言葉を切った。
ルヴェリアは少しだけ首を傾げる。
珍しい間だった。
この人は普段、必要なことを必要な順で話す。迷うような沈黙は滅多に見せない。
「まず、礼を言わなければならない」
ルヴェリアは目を瞬いた。
「礼、ですか」
「君がいなければ、ここまで早く辿り着けなかった」
ディルハルトはまっすぐ言った。
「最初に違和感を拾ったのは君だ。市場の顔を見たのも、金貨の異常を証明したのも、夜会と流通の結びつきを読んだのも、伯爵家の帳簿の綻びを見つけたのも」
その一つ一つが、ルヴェリアにはひどく重く聞こえた。
審問の前にも、判決の前にも、何度か似たことは言われている。
けれど今日は違った。
もう切迫した現場の中ではない。
功績として整理されたうえで、改めて真正面から言われているのだ。
「王国のために、大きな働きをしてくれた」
ルヴェリアはすぐに言葉を返せなかった。
のどの奥が少しだけ詰まる。
婚約を奪われた時、自分に残ったのは、捨てられた女という位置だけだと思っていた。
義母に軽く扱われ、義妹に見下され、元婚約者には都合の悪い女として切られた。
けれど、いま目の前の人は違う。
失ったものではなく、やったことを見ている。
それがどうしようもなく胸に響いた。
「……ありがとうございます」
ようやくそう返すと、ディルハルトはほんの少しだけ表情を和らげた。
「受け取ってくれてよかった」
「受け取らない理由はありません」
「以前より素直だな」
「殿下が何度も言うからです」
その返しに、彼は小さく息をついた。
笑った、というほどではない。
けれど明らかに空気が和らぐ。
ルヴェリアはそこでようやく、自分も少し笑っていることに気づいた。
こんなふうに笑える日が来るとは、少し前の自分は思っていなかった。
ディルハルトは机の端から一枚の文書を取り上げた。
「王宮として、正式に感謝状と功績記録を出す」
「そこまでしていただかなくても」
「する」
即答だった。
「これは私的な礼ではなく、公的な評価だ」
さすがにそこまで真顔で言われると、ルヴェリアも反論しづらい。
「……承知いたしました」
「あと、流通再建会議にも今後しばらく参加してもらいたい」
「それもですか」
「嫌か」
「嫌ではありません。ただ、思っていたよりしっかり働かされるのだなと」
それを聞いて、今度こそディルハルトは明らかに口元を緩めた。
「いまさら何を言う」
「婚約を奪われた公爵令嬢への再就職先としては、少し過酷です」
「王宮は待遇が悪いか」
「仕事量に対しては悪いかもしれません」
「なら改善を検討しよう」
「本気で仰ってます?」
「半分は」
その半分がどこまで本当なのか分からないところが、この人らしい。
ルヴェリアは小さく息を吐き、机の前の椅子へ腰を下ろした。
するとディルハルトも向かいへ座る。
少しの沈黙が落ちた。
けれど、もう気まずくはない。
あの緊張に満ちた沈黙ではなく、ようやく同じ場所に立てた者同士の静けさだった。
ルヴェリアは窓の外を見ながら、ぽつりと言った。
「昨日、判決が出た時」
「うん」
「終わった、と思いました」
「自然な感想だ」
「でも今朝、起きてから、少し違うと思ったんです」
ディルハルトは黙って続きを待つ。
「終わったというより……ようやく、自分の足で立てる場所に戻ったのだなって」
その言葉は、自分でも少し意外だった。
痛みが消えたわけではない。
妹は裁かれた。
元婚約者も極刑を受けた。
伯爵家は滅びた。
そこには間違いなく傷がある。
けれどそれでも、以前の自分に戻りたいとは思わない。
あの婚約の中にいた自分は、どこか息を潜めていた。
違和感を抱いても飲み込み、神経質だと思われたくなくて、自分の感覚に蓋をしていた。
今の方が、よほどまっすぐ立てている。
ディルハルトが低く言う。
「それは、いいことだ」
「ええ」
「君は、もう誰かに価値を決められる側ではない」
その言葉に、ルヴェリアの胸が静かに揺れた。
価値を決められる側ではない。
まさしくその通りだった。
義母にとって都合のいい娘でも。
義妹に勝ち負けを測られる姉でも。
伯爵家に扱いにくい婚約者として捨てられる女でもない。
いまの自分は、自分の見たものと、選んだことと、成し遂げたことで立っている。
「……殿下」
「何だ」
「私、少しだけ安心しているのかもしれません」
「何に」
「もう、誰かに捨てられることを前提にしなくていいのだと、思えたことに」
言ってから、ルヴェリアは少しだけ視線を落とした。
踏み込みすぎただろうかと思ったのだ。
けれどディルハルトは、すぐには何も言わなかった。
その沈黙が、妙に優しかった。
やがて彼は静かに答える。
「君を捨てるのは、見る目のない者だけだ」
その一言に、ルヴェリアは完全に言葉を失った。
冗談でもなく、慰めでもなく、あまりに真っ直ぐだったからだ。
頬が少し熱くなるのを感じて、思わず視線を逸らす。
「……そういうことを、あまり急に言わないでください」
「急だったか」
「急でした」
「なら覚えておく」
まったく覚えていない顔で言うものだから、ルヴェリアは困ったように笑うしかなかった。
その笑いを見て、ディルハルトの表情もやわらぐ。
それから彼は、机の上に置いてあった小さな箱を手に取った。
王家の紋章が入った、飾り気のない箱だった。
「これは公的なものではない」
ルヴェリアは箱へ目を落とす。
「何ですか」
「開けてくれ」
そっと蓋を開く。
中には、細い金属のペンが納められていた。
派手な宝石はない。
だが材質は良く、手に馴染みそうな、美しい実用品だった。
「……筆記具」
「君には宝石より似合うと思った」
その言葉に、ルヴェリアは思わず笑ってしまった。
「ひどい言い方ですね」
「気に入らないか」
「いいえ」
ルヴェリアはペンを手に取る。
重すぎず、軽すぎず、ちょうどいい。
飾りではなく、使うためのもの。
たしかに、自分にはよく似合うかもしれない。
「とても嬉しいです」
「そうか」
「ええ。とても」
宝石ではない。
見栄のためでもない。
自分が実際に使うための贈り物。
それがひどく嬉しかった。
オルフィナが欲しがったものとは、きっと正反対だ。
けれど、だからこそ本物だと思えた。
しばらく二人の間に静かな時間が流れた。
やがてディルハルトが姿勢を正す。
その動きで、空気も少し変わる。
ルヴェリアは自然と顔を上げた。
彼の目が、まっすぐこちらを見ている。
さっきまでの柔らかな空気とは少し違う、もっとはっきりした決意を持つ目だった。
「ルヴェリア」
名前を呼ばれる。
それだけで、胸の奥が静かに鳴る。
「はい」
「公的な話は終わった」
「ええ」
「ここからは、私的な話をしたい」
その言葉の意味に気づいた瞬間、ルヴェリアの呼吸が少しだけ浅くなった。
けれど不思議と、逃げたいとは思わない。
むしろ、ここまで来たのだと分かる。
一緒に地図を見て、帳簿を追い、偽金を見抜き、審問をくぐり抜けてきた先に、この人が何を言おうとしているのか。
たぶんもう、分かっている。
ディルハルトは言った。
「私は、君を高く評価している」
ルヴェリアは黙って聞く。
「能力も、判断も、強さもだ。だが、それだけではない」
「……」
「私は君を、一人の女性として敬愛している」
その言葉は、ひどく静かだった。
甘くない。
大げさでもない。
けれど、だからこそ逃げ場のない真剣さがあった。
「今回の件がなかったとしても、いずれ私は君を気にかけただろうと思う」
ルヴェリアは手の中のペンをそっと握る。
「ですが、今回の件を通して、それが確信になった」
「殿下……」
「君がよければ」
そこでディルハルトは、ごく短く息をついた。
珍しいことだった。
この人でも、こういう時には少し緊張するのだと分かって、ルヴェリアは胸が少しだけ熱くなる。
「婚約を前提として、私の隣に立ってほしい」
部屋が静まり返る。
外では王都の音がかすかにするのに、ここだけ別の時間になったようだった。
奪われた婚約とは、まるで違う。
あの時は、家の都合が先にあった。
財が先にあり、見栄が先にあり、その中で自分は“相応しい駒”として置かれていただけだった。
けれど今は違う。
地位もある。
王太子なのだから当然だ。
だがそれ以前に、この人は自分が見たものとやったことを知ったうえで、そこに立ってほしいと言っている。
それがどれほど大きな違いか、ルヴェリアにはよく分かった。
「……それは」
ようやく声を出すと、自分でも少し震えていた。
「責任感からではありませんか」
ディルハルトはすぐに首を横へ振った。
「違う」
即答だった。
「責任なら、公的な感謝で足りる」
その言い方があまりにもこの人らしくて、ルヴェリアは少しだけ笑いそうになる。
でも泣きそうでもあった。
「私は、君だから望んでいる」
その言葉で、最後のためらいがほどけた気がした。
ルヴェリアはゆっくり息を吸い、まっすぐ彼を見る。
「……はい」
たった一言なのに、胸がいっぱいになる。
ディルハルトの目がわずかに和らぐ。
ルヴェリアは続けた。
「私でよければ」
「君がいい」
また、そういうことをさらりと言う。
困る、と思いながらも、今度は少しだけ慣れた自分がいた。
彼は机越しではなく、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
すぐ目の前で立ち止まり、けれど触れはしない。
その距離感が、いまはありがたかった。
急がない。
奪わない。
確かめるように、一歩ずつ来てくれる。
それがこの人だ。
「正式な手順はこれから踏む」
「はい」
「急がせる気はない。だが、私はもう決めている」
「……はい」
「君が隣にいてくれたら嬉しい」
ルヴェリアは目を伏せた。
頬が熱い。
けれど嫌ではない。
こんなふうに言われることが、まだ少し信じられないだけだ。
しばらくして、彼女は小さく言った。
「私も……」
ディルハルトが待つ。
「私も、殿下と一緒にいると、無理をしなくていい気がします」
それは、今のルヴェリアに言える最大限の言葉だった。
愛しています、と簡単に言えるほど、まだ自分の心を軽く扱えない。
けれど、この人といると呼吸がしやすい。
見誤らなくていい。
捨てられる前提で身構えなくていい。
その安心は、たぶんもう十分に特別だ。
ディルハルトは短く頷く。
「それで十分だ」
その返答に、ルヴェリアはほっとした。
急がせない。
答えを飾らせない。
やはりこの人は、どこまで行ってもこの人なのだ。
窓の外では、夕方の光が少しずつ傾いている。
王都の上に、新しい色が落ちていた。
昨日までの裁きの色ではない。
もっと静かで、確かな色。
ルヴェリアは手の中のペンを見下ろしながら、思った。
これは、奪われた婚約の代わりではない。
失ったものの埋め合わせでもない。
自分の知性と誇りと選択の先で、ようやく自分の手に来た、本物の約束なのだと。
7
あなたにおすすめの小説
報われない恋の行方〜いつかあなたは私だけを見てくれますか〜
矢野りと
恋愛
『少しだけ私に時間をくれないだろうか……』
彼はいつだって誠実な婚約者だった。
嘘はつかず私に自分の気持ちを打ち明け、学園にいる間だけ想い人のこともその目に映したいと告げた。
『想いを告げることはしない。ただ見ていたいんだ。どうか、許して欲しい』
『……分かりました、ロイド様』
私は彼に恋をしていた。だから、嫌われたくなくて……それを許した。
結婚後、彼は約束通りその瞳に私だけを映してくれ嬉しかった。彼は誠実な夫となり、私は幸せな妻になれた。
なのに、ある日――彼の瞳に映るのはまた二人になっていた……。
※この作品の設定は架空のものです。
※お話の内容があわないは時はそっと閉じてくださいませ。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
【完結】婚約破棄はしたいけれど傍にいてほしいなんて言われましても、私は貴方の母親ではありません
すだもみぢ
恋愛
「彼女は私のことを好きなんだって。だから君とは婚約解消しようと思う」
他の女性に言い寄られて舞い上がり、10年続いた婚約を一方的に解消してきた王太子。
今まで婚約者だと思うからこそ、彼のフォローもアドバイスもしていたけれど、まだそれを当たり前のように求めてくる彼に驚けば。
「君とは結婚しないけれど、ずっと私の側にいて助けてくれるんだろう?」
貴方は私を母親だとでも思っているのでしょうか。正直気持ち悪いんですけれど。
王妃様も「あの子のためを思って我慢して」としか言わないし。
あんな男となんてもう結婚したくないから我慢するのも嫌だし、非難されるのもイヤ。なんとかうまいこと立ち回って幸せになるんだから!
〈完結〉だってあなたは彼女が好きでしょう?
ごろごろみかん。
恋愛
「だってあなたは彼女が好きでしょう?」
その言葉に、私の婚約者は頷いて答えた。
「うん。僕は彼女を愛している。もちろん、きみのことも」
【完結】好きでもない私とは婚約解消してください
里音
恋愛
騎士団にいる彼はとても一途で誠実な人物だ。初恋で恋人だった幼なじみが家のために他家へ嫁いで行ってもまだ彼女を思い新たな恋人を作ることをしないと有名だ。私も憧れていた1人だった。
そんな彼との婚約が成立した。それは彼の行動で私が傷を負ったからだ。傷は残らないのに責任感からの婚約ではあるが、彼はプロポーズをしてくれた。その瞬間憧れが好きになっていた。
婚約して6ヶ月、接点のほとんどない2人だが少しずつ距離も縮まり幸せな日々を送っていた。と思っていたのに、彼の元恋人が離婚をして帰ってくる話を聞いて彼が私との婚約を「最悪だ」と後悔しているのを聞いてしまった。
私のことを愛していなかった貴方へ
矢野りと
恋愛
婚約者の心には愛する女性がいた。
でも貴族の婚姻とは家と家を繋ぐのが目的だからそれも仕方がないことだと承知して婚姻を結んだ。私だって彼を愛して婚姻を結んだ訳ではないのだから。
でも穏やかな結婚生活が私と彼の間に愛を芽生えさせ、いつしか永遠の愛を誓うようになる。
だがそんな幸せな生活は突然終わりを告げてしまう。
夫のかつての想い人が現れてから私は彼の本心を知ってしまい…。
*設定はゆるいです。
壊れた心はそのままで ~騙したのは貴方?それとも私?~
志波 連
恋愛
バージル王国の公爵令嬢として、優しい両親と兄に慈しまれ美しい淑女に育ったリリア・サザーランドは、貴族女子学園を卒業してすぐに、ジェラルド・パーシモン侯爵令息と結婚した。
政略結婚ではあったものの、二人はお互いを信頼し愛を深めていった。
社交界でも仲睦まじい夫婦として有名だった二人は、マーガレットという娘も授かり、順風満帆な生活を送っていた。
ある日、学生時代の友人と旅行に行った先でリリアは夫が自分でない女性と、夫にそっくりな男の子、そして娘のマーガレットと仲よく食事をしている場面に遭遇する。
ショックを受けて立ち去るリリアと、追いすがるジェラルド。
一緒にいた子供は確かにジェラルドの子供だったが、これには深い事情があるようで……。
リリアの心をなんとか取り戻そうと友人に相談していた時、リリアがバルコニーから転落したという知らせが飛び込んだ。
ジェラルドとマーガレットは、リリアの心を取り戻す決心をする。
そして関係者が頭を寄せ合って、ある破天荒な計画を遂行するのだった。
王家までも巻き込んだその作戦とは……。
他サイトでも掲載中です。
コメントありがとうございます。
タグのコメディに反対意見が多かったので修正しました。
必ず完結させますので、よろしくお願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる