姉の婚約者を奪った義妹は、偽金まみれの恋と一緒に断罪されました

鷹 綾

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31話 偽りではない約束

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31話 偽りではない約束

判決の翌日、王都は不思議な静けさに包まれていた。

嵐の翌朝のようだった。

建物は変わらない。通りも市場も、石畳も店先も、昨日までと同じ場所にある。けれど、人々の顔だけが違っていた。

ヴォルゼック伯爵家の名を、もう誰も畏れや羨望を込めて口にしない。

あれほど眩しく見えた“金の伯爵家”は、一夜でただの罪人の名になった。

中央市場では、まだ完全ではないものの、品の流れがさらに落ち着きを見せ始めていた。

高級商店街の店々も、ようやく本来の客へ目を向け始めている。河岸では王宮の監督が強まり、倉庫の出入りは以前よりずっと厳しく確認されていた。

王都は傷ついた。

けれど、崩れたままではいない。

本物の流れを取り戻そうと、静かに立ち上がり始めている。

その朝、ルヴェリアは王宮へ呼ばれていた。

呼び出しの文面は簡潔だった。

判決後の整理と、今後の流通再建について話したい。

いかにもディルハルトらしい言い方だった。

判決が出たから終わり、ではない。

崩れた秩序をどう立て直すかまで含めて、ようやく一つの仕事が終わるのだと考えているのだろう。

王宮の執務棟へ入ると、以前より少しだけ空気が軽くなっているのを感じた。

もちろん緊張はある。

摘発と審問を駆け抜けたばかりなのだから当然だ。

それでも、あの張りつめた切迫はもう薄い。

代わりにあるのは、疲労と、わずかな安堵と、次を始めるための静かな集中だった。

いつもの部屋へ通されると、ディルハルトは机ではなく窓辺に立っていた。

王都の屋根越しに、遠くの空を見ている。

ルヴェリアが入ると、彼はすぐに振り返った。

「来てくれて助かる」

「お呼びでしたので」

「そうだな」

それだけのやり取りなのに、以前より柔らかい。

たぶん、二人とも分かっているのだ。

昨日、ようやく一つの決着を見たことを。

ディルハルトは机の上の書類を軽く示した。

「市場再編、河岸の監督強化、偽造印章の再検査、信用の回復。やることはまだ山ほどある」

「でしょうね」

「だが、その前に」

彼は一度言葉を切った。

ルヴェリアは少しだけ首を傾げる。

珍しい間だった。

この人は普段、必要なことを必要な順で話す。迷うような沈黙は滅多に見せない。

「まず、礼を言わなければならない」

ルヴェリアは目を瞬いた。

「礼、ですか」

「君がいなければ、ここまで早く辿り着けなかった」

ディルハルトはまっすぐ言った。

「最初に違和感を拾ったのは君だ。市場の顔を見たのも、金貨の異常を証明したのも、夜会と流通の結びつきを読んだのも、伯爵家の帳簿の綻びを見つけたのも」

その一つ一つが、ルヴェリアにはひどく重く聞こえた。

審問の前にも、判決の前にも、何度か似たことは言われている。

けれど今日は違った。

もう切迫した現場の中ではない。

功績として整理されたうえで、改めて真正面から言われているのだ。

「王国のために、大きな働きをしてくれた」

ルヴェリアはすぐに言葉を返せなかった。

のどの奥が少しだけ詰まる。

婚約を奪われた時、自分に残ったのは、捨てられた女という位置だけだと思っていた。

義母に軽く扱われ、義妹に見下され、元婚約者には都合の悪い女として切られた。

けれど、いま目の前の人は違う。

失ったものではなく、やったことを見ている。

それがどうしようもなく胸に響いた。

「……ありがとうございます」

ようやくそう返すと、ディルハルトはほんの少しだけ表情を和らげた。

「受け取ってくれてよかった」

「受け取らない理由はありません」

「以前より素直だな」

「殿下が何度も言うからです」

その返しに、彼は小さく息をついた。

笑った、というほどではない。

けれど明らかに空気が和らぐ。

ルヴェリアはそこでようやく、自分も少し笑っていることに気づいた。

こんなふうに笑える日が来るとは、少し前の自分は思っていなかった。

ディルハルトは机の端から一枚の文書を取り上げた。

「王宮として、正式に感謝状と功績記録を出す」

「そこまでしていただかなくても」

「する」

即答だった。

「これは私的な礼ではなく、公的な評価だ」

さすがにそこまで真顔で言われると、ルヴェリアも反論しづらい。

「……承知いたしました」

「あと、流通再建会議にも今後しばらく参加してもらいたい」

「それもですか」

「嫌か」

「嫌ではありません。ただ、思っていたよりしっかり働かされるのだなと」

それを聞いて、今度こそディルハルトは明らかに口元を緩めた。

「いまさら何を言う」

「婚約を奪われた公爵令嬢への再就職先としては、少し過酷です」

「王宮は待遇が悪いか」

「仕事量に対しては悪いかもしれません」

「なら改善を検討しよう」

「本気で仰ってます?」

「半分は」

その半分がどこまで本当なのか分からないところが、この人らしい。

ルヴェリアは小さく息を吐き、机の前の椅子へ腰を下ろした。

するとディルハルトも向かいへ座る。

少しの沈黙が落ちた。

けれど、もう気まずくはない。

あの緊張に満ちた沈黙ではなく、ようやく同じ場所に立てた者同士の静けさだった。

ルヴェリアは窓の外を見ながら、ぽつりと言った。

「昨日、判決が出た時」

「うん」

「終わった、と思いました」

「自然な感想だ」

「でも今朝、起きてから、少し違うと思ったんです」

ディルハルトは黙って続きを待つ。

「終わったというより……ようやく、自分の足で立てる場所に戻ったのだなって」

その言葉は、自分でも少し意外だった。

痛みが消えたわけではない。

妹は裁かれた。

元婚約者も極刑を受けた。

伯爵家は滅びた。

そこには間違いなく傷がある。

けれどそれでも、以前の自分に戻りたいとは思わない。

あの婚約の中にいた自分は、どこか息を潜めていた。

違和感を抱いても飲み込み、神経質だと思われたくなくて、自分の感覚に蓋をしていた。

今の方が、よほどまっすぐ立てている。

ディルハルトが低く言う。

「それは、いいことだ」

「ええ」

「君は、もう誰かに価値を決められる側ではない」

その言葉に、ルヴェリアの胸が静かに揺れた。

価値を決められる側ではない。

まさしくその通りだった。

義母にとって都合のいい娘でも。

義妹に勝ち負けを測られる姉でも。

伯爵家に扱いにくい婚約者として捨てられる女でもない。

いまの自分は、自分の見たものと、選んだことと、成し遂げたことで立っている。

「……殿下」

「何だ」

「私、少しだけ安心しているのかもしれません」

「何に」

「もう、誰かに捨てられることを前提にしなくていいのだと、思えたことに」

言ってから、ルヴェリアは少しだけ視線を落とした。

踏み込みすぎただろうかと思ったのだ。

けれどディルハルトは、すぐには何も言わなかった。

その沈黙が、妙に優しかった。

やがて彼は静かに答える。

「君を捨てるのは、見る目のない者だけだ」

その一言に、ルヴェリアは完全に言葉を失った。

冗談でもなく、慰めでもなく、あまりに真っ直ぐだったからだ。

頬が少し熱くなるのを感じて、思わず視線を逸らす。

「……そういうことを、あまり急に言わないでください」

「急だったか」

「急でした」

「なら覚えておく」

まったく覚えていない顔で言うものだから、ルヴェリアは困ったように笑うしかなかった。

その笑いを見て、ディルハルトの表情もやわらぐ。

それから彼は、机の上に置いてあった小さな箱を手に取った。

王家の紋章が入った、飾り気のない箱だった。

「これは公的なものではない」

ルヴェリアは箱へ目を落とす。

「何ですか」

「開けてくれ」

そっと蓋を開く。

中には、細い金属のペンが納められていた。

派手な宝石はない。

だが材質は良く、手に馴染みそうな、美しい実用品だった。

「……筆記具」

「君には宝石より似合うと思った」

その言葉に、ルヴェリアは思わず笑ってしまった。

「ひどい言い方ですね」

「気に入らないか」

「いいえ」

ルヴェリアはペンを手に取る。

重すぎず、軽すぎず、ちょうどいい。

飾りではなく、使うためのもの。

たしかに、自分にはよく似合うかもしれない。

「とても嬉しいです」

「そうか」

「ええ。とても」

宝石ではない。

見栄のためでもない。

自分が実際に使うための贈り物。

それがひどく嬉しかった。

オルフィナが欲しがったものとは、きっと正反対だ。

けれど、だからこそ本物だと思えた。

しばらく二人の間に静かな時間が流れた。

やがてディルハルトが姿勢を正す。

その動きで、空気も少し変わる。

ルヴェリアは自然と顔を上げた。

彼の目が、まっすぐこちらを見ている。

さっきまでの柔らかな空気とは少し違う、もっとはっきりした決意を持つ目だった。

「ルヴェリア」

名前を呼ばれる。

それだけで、胸の奥が静かに鳴る。

「はい」

「公的な話は終わった」

「ええ」

「ここからは、私的な話をしたい」

その言葉の意味に気づいた瞬間、ルヴェリアの呼吸が少しだけ浅くなった。

けれど不思議と、逃げたいとは思わない。

むしろ、ここまで来たのだと分かる。

一緒に地図を見て、帳簿を追い、偽金を見抜き、審問をくぐり抜けてきた先に、この人が何を言おうとしているのか。

たぶんもう、分かっている。

ディルハルトは言った。

「私は、君を高く評価している」

ルヴェリアは黙って聞く。

「能力も、判断も、強さもだ。だが、それだけではない」

「……」

「私は君を、一人の女性として敬愛している」

その言葉は、ひどく静かだった。

甘くない。

大げさでもない。

けれど、だからこそ逃げ場のない真剣さがあった。

「今回の件がなかったとしても、いずれ私は君を気にかけただろうと思う」

ルヴェリアは手の中のペンをそっと握る。

「ですが、今回の件を通して、それが確信になった」

「殿下……」

「君がよければ」

そこでディルハルトは、ごく短く息をついた。

珍しいことだった。

この人でも、こういう時には少し緊張するのだと分かって、ルヴェリアは胸が少しだけ熱くなる。

「婚約を前提として、私の隣に立ってほしい」

部屋が静まり返る。

外では王都の音がかすかにするのに、ここだけ別の時間になったようだった。

奪われた婚約とは、まるで違う。

あの時は、家の都合が先にあった。

財が先にあり、見栄が先にあり、その中で自分は“相応しい駒”として置かれていただけだった。

けれど今は違う。

地位もある。

王太子なのだから当然だ。

だがそれ以前に、この人は自分が見たものとやったことを知ったうえで、そこに立ってほしいと言っている。

それがどれほど大きな違いか、ルヴェリアにはよく分かった。

「……それは」

ようやく声を出すと、自分でも少し震えていた。

「責任感からではありませんか」

ディルハルトはすぐに首を横へ振った。

「違う」

即答だった。

「責任なら、公的な感謝で足りる」

その言い方があまりにもこの人らしくて、ルヴェリアは少しだけ笑いそうになる。

でも泣きそうでもあった。

「私は、君だから望んでいる」

その言葉で、最後のためらいがほどけた気がした。

ルヴェリアはゆっくり息を吸い、まっすぐ彼を見る。

「……はい」

たった一言なのに、胸がいっぱいになる。

ディルハルトの目がわずかに和らぐ。

ルヴェリアは続けた。

「私でよければ」

「君がいい」

また、そういうことをさらりと言う。

困る、と思いながらも、今度は少しだけ慣れた自分がいた。

彼は机越しではなく、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

すぐ目の前で立ち止まり、けれど触れはしない。

その距離感が、いまはありがたかった。

急がない。

奪わない。

確かめるように、一歩ずつ来てくれる。

それがこの人だ。

「正式な手順はこれから踏む」

「はい」

「急がせる気はない。だが、私はもう決めている」

「……はい」

「君が隣にいてくれたら嬉しい」

ルヴェリアは目を伏せた。

頬が熱い。

けれど嫌ではない。

こんなふうに言われることが、まだ少し信じられないだけだ。

しばらくして、彼女は小さく言った。

「私も……」

ディルハルトが待つ。

「私も、殿下と一緒にいると、無理をしなくていい気がします」

それは、今のルヴェリアに言える最大限の言葉だった。

愛しています、と簡単に言えるほど、まだ自分の心を軽く扱えない。

けれど、この人といると呼吸がしやすい。

見誤らなくていい。

捨てられる前提で身構えなくていい。

その安心は、たぶんもう十分に特別だ。

ディルハルトは短く頷く。

「それで十分だ」

その返答に、ルヴェリアはほっとした。

急がせない。

答えを飾らせない。

やはりこの人は、どこまで行ってもこの人なのだ。

窓の外では、夕方の光が少しずつ傾いている。

王都の上に、新しい色が落ちていた。

昨日までの裁きの色ではない。

もっと静かで、確かな色。

ルヴェリアは手の中のペンを見下ろしながら、思った。

これは、奪われた婚約の代わりではない。

失ったものの埋め合わせでもない。

自分の知性と誇りと選択の先で、ようやく自分の手に来た、本物の約束なのだと。
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