『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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9話 何も起きないという事実

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9話 何も起きないという事実

 季節が、ひとつ進んだ。

 山の色が少し変わり、朝の空気が前より澄んでいる。ファーファは、目が覚めてからもしばらく寝台にいた。起きなければならない理由がない。だから、起きない。

 ――問題がない。

 それが、ここでの基準だった。

 しばらくして起き上がり、外套を羽織って扉を開ける。今日も、箱は置かれている。定位置に、定間隔で。ずれることなく。

 中身は保存食と乾燥野菜、油、塩。布と、季節用の小物がひとつ。量は少しだけ調整されていた。必要以上ではないが、足りないこともない。

 ファーファは箱を中へ運び、必要な分だけ取り出して棚に置いた。残りは、そのまま。数は数えない。計算もしない。足りなくなるまで、気にしない。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。椅子に座り、湯気を眺める。思考は、特に進まない。

 ――今日も、何も起きない。

 それでいい。

 王都では、今日も会議が開かれているはずだ。問題が起きていないことを、問題として扱うための会議。確認、照会、可能性の洗い出し。言葉だけが増えていく。

 だが、そのどれもが、ここには届かない。

 午前中、ファーファは本を読んだ。途中で閉じ、外を見て、また開く。集中しているわけではない。時間を潰しているわけでもない。ただ、そこにある行為をしているだけだ。

 昼になり、簡単な食事を取る。量は控えめ。誰に見せるわけでもないから、盛り付けに意味はない。洗い物をし、また座る。

 午後、少しだけ外を歩く。山道を下ることはしない。家の周囲を一回りするだけ。足元の草が伸び、石の位置が変わっていないことを確認する。

 確認は、それだけで十分だった。

 夕方、風が冷たくなる。室内に戻り、薪を足す。火は静かに燃え、音も立てない。

 王都では、噂がひとつ、静かに消えた。

 ――彼女は、助けを求めていないらしい。

 誰かが言い、誰かが否定し、結局、確かめられないまま話題は次へ移る。噂は、確証が得られないものから先に、飽きられる。

 “何も起きない”という事実は、最も噂に向かない。

 山の家で、ファーファは椅子に座り、窓の外を見ていた。雲が流れ、光が移る。それだけだ。

 生きているかどうか。
 困っているかどうか。
 後悔しているかどうか。

 それらを、誰かが確認したがる理由が、分からなかった。

 生きている。
 困っていない。
 後悔もしていない。

 それ以上の説明は、必要だろうか。

 夜になり、灯りを落とす。寝台に横になり、目を閉じる。

 今日も、何も起きなかった。
 事件も、救済も、奇跡も。

 ただ、生活が続いただけだ。

 ――それが、いちばん確かな事実だった。

 ファーファ・ノクティスは、その事実の中で、静かに眠りについた。
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