『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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10話 失われた手応え

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10話 失われた手応え

 王太子は、奇妙な違和感を抱いていた。

 何かが失われた、という感覚ではない。
 正確には――何も起きていないことに、手応えがない。

 婚約破棄は、王太子にとっては一つの決断だった。
 批判も、動揺も、混乱も起きるはずだった。誰かが泣き、誰かが怒り、誰かが責任を問われる。そうして初めて、決断は「出来事」になる。

 だが、今回は違った。

 静かすぎる。

「……本当に、何もないのか?」

 執務室で、王太子は書類を指で叩いた。
 向かいに立つ側近が、慎重に答える。

「はい。ノクティス領は安定しています。新領主の施政も問題ありません。旧令嬢についても……噂は減っています」

「減っている、だと?」

「はい。確証が取れないため、話題として成立しなくなっています」

 王太子は、眉を寄せた。

 怒りも、悲劇も、救済もない。
 誰かが“正しい判断をした”という物語すら生まれていない。

 ――まるで、最初から重要ではなかったかのようだ。

「彼女は……困っていないのか?」

 ぽつりと漏れた言葉に、側近は一瞬だけ沈黙した。

「確認できません。ですが、困窮の兆候はありません」

 その言葉が、王太子の胸に小さく刺さった。

 困っていない。
 助けを求めてもいない。

 つまり、婚約破棄は――彼女の人生に、波紋を残していない。

「……あり得ない」

 王太子は低く呟いた。

 自分は、切ったはずだ。
 選んだはずだ。
 何かを、失わせたはずだ。

 なのに、相手は何も失っていない。

 一方、山の家。

 朝の光が、床を淡く照らしている。
 ファーファは、目を覚ましてからしばらく動かなかった。

 今日は、特に予定がない。

 予定がないという予定は、守る必要もない。

 やがて起き上がり、外に出る。
 箱は、いつも通り置かれている。

「……変わらない」

 それを確認して、中に運ぶ。

 中身を見て、必要な分だけ取り出す。
 残りは棚へ。

 それで、今日の確認は終わりだ。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。
 湯気を眺めながら、ふと思う。

 王都では今頃、誰かが「意味」を探しているだろう。
 自分の選択が正しかったのか。
 誰かが不幸になっているのか。

 だが、ここには意味を要求する声がない。

 意味がない、という状態が、ただ続いている。

 昼前、少しだけ本を読む。
 途中で閉じ、窓の外を見る。

 風が木々を揺らし、影が動く。
 それ以上の出来事はない。

 夕方、薪を足す。
 火は静かに燃える。

 王太子は、その頃もまだ考えていた。

 ――切ったはずの相手が、何も変わらず生きている。

 それは、拒絶よりも、否定よりも、重い。

 失われたのは、彼女ではない。
 自分の決断が、世界に影響を与えるという感覚だった。

 夜、ファーファは灯りを落とし、寝台に横になる。

 今日も、何も起きなかった。
 それが、最も確かな現実だ。

 王太子が感じている空白を、
 彼女は、知ることもなく、静かに眠りについた。
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