働かない令嬢は、すでに幸せです  ――婚約破棄? それより紅茶の時間をください

鷹 綾

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第3話 私は表に出ませんので

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第3話 私は表に出ませんので

 午後の陽射しが差し込む執務室で、父――アーデルハイド公爵は、難しい顔をして書類を睨んでいた。

 その正面に置かれたソファで、私は優雅に紅茶を飲んでいる。
 この配置だけを見ると、まるで私が何か重要な決断を下す立場のようだが、実際は真逆だった。

「……レイラ」

 父は観念したように顔を上げた。

「本当に、何も聞かなくていいのか?」

「ええ」

 即答すると、父は深いため息をついた。

「王宮は混乱している。婚約破棄の件が、思った以上に波紋を広げていてな」

「そうですか」

 興味はなかった。
 正確に言えば、“関わりたくない”。

 前世で嫌というほど学んだのだ。
 混乱している組織に首を突っ込むと、なぜか一番下っ端が全部背負わされる、と。

「レイラ、お前は公爵令嬢だ。沈黙は時に、意思表示と取られる」

「分かっています」

 私はカップを置き、穏やかに微笑んだ。

「だからこそ、言っておきますね。お父様」

 父は身構える。

「私は――表に出ません」

「……それは」

「社交界にも、王宮にも、今後は基本的に顔を出しません」

 執務室に、重い沈黙が落ちた。

 父は、私をじっと見つめる。
 その視線には、心配と戸惑い、そしてわずかな苛立ちが混じっていた。

「……逃げているわけでは、ないんだな?」

「いいえ」

 逃げているのではない。
 戻らないだけだ。

「私は、もう“役割”を背負う気がないだけです」

 公爵令嬢として。
 王太子妃候補として。
 貴族社会の潤滑油として。

 そのどれもが、私にとっては“仕事”だった。

「前世で、十分すぎるほど働きましたから」

 父は眉をひそめたが、否定はしなかった。
 私がどれほど無理をしてきたか――この世界の私も、父は知っている。

「では、領地の件はどうする?」

「専門家に任せてください」

 私はさらりと言う。

「ぶどう園の管理は責任者がいますし、商取引はお父様と商会が把握しています。
 私が口を出す必要、あります?」

「……ない、が」

「それなら、放っておきましょう」

 放置。
 それは怠慢ではなく、選択だ。

 父はしばらく考え込み、やがて苦笑した。

「昔のお前なら、もっと踏み込んでいただろう」

「ええ。昔は」

 ――もう、違う。

「今の私は、“何もしない”と決めました」

 その言葉に、父は思わず笑った。

「公爵令嬢がそれを言うとはな」

「言ったもの勝ちです」

 そう返すと、父は肩をすくめる。

「分かった。では当面、外への対応は私と執事団で引き受けよう」

「ありがとうございます」

 心からの礼だった。

 執務室を出たあと、私は長い廊下を歩きながら、ほっと息を吐く。

 これでいい。
 これがいい。

 無理に関わらない。
 期待に応えない。
 自分を削らない。

 庭に出ると、ぶどう畑の向こうで、使用人たちが忙しなく動いているのが見えた。

「……皆さん、元気ね」

 私はベンチに腰かけ、日陰で本を開く。

 知らなかった。
 私が“何もしない”と決めたことで、周囲が逆に緊張し、勝手に動き始めていることを。

「お嬢様が何もおっしゃらない……ということは……」

 そんな声が、屋敷のどこかで囁かれ始めていることも。

 私はページをめくりながら、ただ思った。

「静かで、平和だわ」

 ――この静けさが、
 これからとんでもない勘違いを生むとも知らずに。
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