働かない令嬢は、すでに幸せです  ――婚約破棄? それより紅茶の時間をください

鷹 綾

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第8話 沈黙は戦略ではありません

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第8話 沈黙は戦略ではありません

 ――事態は、私の知らないところで着実に“進化”していた。

 朝食の席。
 私は紅茶を一口含み、静かにパンをちぎっていた。

「……本日のご予定ですが」

 マーガレットが、いつもより少し慎重な口調で切り出す。

「午前中は“自主報告会”、午後は“判断仰ぎ不要案件の確認”、夜は“お嬢様不在でも進行可能な計画の最終調整”となっております」

「ちょっと待って」

 情報量が多すぎる。

「それ、私は何をするの?」

「お嬢様は……ご同席なさるだけで結構です」

 それはもう、参加していないのと同義では?

 報告会と称された集まりには、農園、加工場、商会、物流、それぞれの責任者が揃っていた。だが、誰一人として私に指示を仰ごうとはしない。

「では、前回決めた方針に基づき、こちらで判断しました」 「問題があれば後ほど報告いたします」 「最終責任は我々が負いますので」

 ……待って。

「それ、私に聞かなくていいの?」

 思わず口を挟むと、全員が一斉に背筋を伸ばした。

「もちろんですとも、お嬢様!」

「“何も言わない”という方針が、最も高度な判断だと理解しております」

 違う。
 それは、私が面倒だから黙っているだけ。

「お嬢様は、全体を見渡す立場。細部に口を出さないことで、我々の判断力を引き上げてくださっているのです」

 誰かがそう言い、全員が深く頷いた。

(……怖)

 午後、父に呼び出された。

「お前、何か新しい統治理論でも広めたか?」

「してない」

「ではなぜ、領内で“レイラ流・静的統治”などという言葉が使われ始めている?」

 聞きたくなかった。

「『指示しないことで、責任と裁量を現場に委ねる』……だそうだ」

「それ、完全に後付けよね?」

「だが成果は出ている」

 父はため息をついた。

「問題はな……お前が“何もしない”こと自体が、もう“特別な意味”を持ってしまっている点だ」

 夜。
 私は自室で、あのノートを開いた。

『私は、何も言っていない』

 その下に、追記する。

『本当に何もしていない』

 さらに、念押しで。

『戦略ではない』

 ……が。

 翌日、そのノートが回覧資料として写し取られていた。

「お嬢様の自己戒律文書です」 「短く、力強い。指導者の覚悟が伝わります」

 誰が許可した。

「お嬢様」

 マーガレットが、真剣な顔で言う。

「“沈黙は戦略ではありません”というお言葉……とても深いですわ」

「それ、今書いたばかりなのだけど」

「はい。でも皆、“沈黙をも戦略としない覚悟”だと解釈しております」

 私は、天井を見上げた。

 婚約破棄されたとき。
 王太子に何も言い返さなかったあの日。

 あれは、感情的になりたくなかっただけ。
 面倒だっただけ。

 それが今や――

「お嬢様は、“動かないことで世界を動かす方”なのですね」

 ……違う。

 でも、訂正するのも、もう遅い気がした。

 私は紅茶を飲み干し、静かに呟く。

「……次は、何が起きるのかしら」

 その問いに答える者はいない。

 だが確実に言えるのは――
 私は今日も、何もしていないのに、すべてが前に進んでいるということだけだった。
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