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第3話: 家族の冷たい視線と孤独の夜
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第3話: 家族の冷たい視線と孤独の夜
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、私の部屋を薄く照らしていた。昨夜の出来事が夢だったらいいのに――そう思って目を閉じ直すが、すぐに現実が襲ってくる。頰に残る涙の跡、腫れたまぶた、そして胸の奥に巣食う重い痛み。すべてが、あの王宮の大ホールでの惨劇を思い出させる。
ベッドから起き上がる気力すら湧かない。私はそのまま毛布にくるまり、昨日のルークス殿下の言葉を何度も反芻した。
「エルカミーノは完璧な令嬢だが、私の心を動かすものはなかった」
完璧すぎるのが悪いと言われた。幼い頃から叩き込まれた礼儀作法、舞踏、語学、刺繍、政略学――すべてが無駄だったと。殿下の隣に立つために、どれだけ自分を磨いてきたか。それなのに、平民の聖女一人に、すべてを奪われた。
ノックの音が響いた。侍女のマリアの声が、控えめに続く。
「エルカミーノ様、お目覚めでしょうか? お父様とお母様が、朝食の席でお待ちです」
私は返事をせず、黙ったままだった。マリアは少し間を置いて、再び声をかける。
「……お身体が心配です。何かお持ちしましょうか?」
その優しさが、かえって胸を締めつけた。私はようやく掠れた声で答えた。
「……いいわ、マリア。少しだけ、時間をちょうだい」
マリアはそれ以上何も言わず、静かに去っていった。部屋に再び静寂が戻る。私はゆっくりと起き上がり、鏡台の前に座った。鏡に映る自分は、ひどい有様だった。目は真っ赤に腫れ、髪は乱れ、顔色は青白い。完璧な令嬢の面影はどこにもない。
それでも、私は冷たい水で顔を洗い、髪を整え、シンプルなドレスに着替えた。公爵家の長女として、最低限の体裁は保たなければならない。廊下に出ると、使用人たちが私を見ると慌てて視線を逸らす。昨夜の噂は、もう屋敷中に広がっているのだろう。
食堂に入ると、父上と母上が長テーブルの上座に座っていた。父上は新聞を広げたまま顔を上げず、母上は私を見て小さく息を呑んだ。
「おはよう、エルカミーノ」母上が、か細い声で言った。
私は黙って席に着き、頭を下げた。テーブルの上には、いつも通りの豪華な朝食が並んでいるが、誰も手をつけていない。重い沈黙が続く。
やがて、父上が新聞を畳み、厳しい声で口を開いた。
「昨夜のことは、すでに王都中に知れ渡っている。王太子殿下の婚約破棄――しかも、公衆の面前でだ。公爵家の名に泥を塗ったのは誰だ?」
その言葉に、私は顔を上げられなかった。父上の目は怒りに燃え、失望に満ちている。
「申し訳ございません、父上……」私は震える声で答えた。
「申し訳ないで済む話ではない!」父上がテーブルを叩く。皿が鳴り、母上がびくりと肩を震わせた。「我がエルカミーノ家は、三百年続く名門だ。お前は長女として、王太子妃となるべく育てられてきた。それが、平民の娘一人に取って代わられただと? お前の努力は一体何だったのだ!」
父上の言葉は、鋭い刃のように私の心を切り裂いた。私は唇を噛みしめ、涙を堪える。
「父上、どうかお鎮めください……」母上が、父上をなだめようとするが、父上は手を振り払う。
「鎮められるものか! 王宮からの正式な通達も届くだろう。公爵家の立場が、どうなるか――お前は考えたことがあるのか?」
私は俯いたまま、ただ耐えるしかなかった。父上の怒りは当然だ。私自身が一番、悔しくてたまらないのだから。
食事が終わると、父上は立ち上がり、私に冷たく告げた。
「お前はしばらく、屋敷に閉じこもっていろ。外に出ることは許さん。恥をさらすな」
それだけ言い残して、父上は書斎へ向かった。母上は私の隣に座り、そっと手を握ってくれた。
「エルカミーノ……辛かったわね。お母様も、信じられないわ」
母上の声は優しかったが、その目には同情と――どこか、私への失望も混じっていた。私は小さく首を振る。
「ありがとう、母上。でも……私、大丈夫です」
嘘だった。全く大丈夫じゃない。でも、母上の前でこれ以上弱さを見せたくなかった。
部屋に戻ると、私は再びベッドに倒れ込んだ。誰も味方はいない。家族でさえ、私を責め、失望している。ルークス殿下は私を捨て、アルトゥーラは勝ち誇り、王都の貴族たちは嘲笑っている。
私は一人だ。完全に、一人。
涙が再び溢れ出す。枕を握りしめ、声を殺して泣いた。どれだけ泣いても、痛みは消えない。むしろ、どんどん深くなっていく。
――もう、疲れた。
そう思った瞬間、前世の記憶がまたフラッシュバックした。
現代日本で、私は三十歳手前の普通のOLだった。会社では真面目に働き、上司に褒められることもあったけど、恋人はおらず、休日は一人でカフェ巡りやコスメ集めを楽しむだけの日々。友達はいたけど、深い付き合いはなかった。結局、誰にも必要とされず、交通事故で死んだ。
それが、私の本当の人生だったのかもしれない。この世界で転生して、貴族の令嬢として生まれ変わったのに――結局、また誰にも必要とされない。
でも、違う。
突然、頭の中で何かが弾けた。
――違う。私はまだ、終わっていない。
前世の知識が、鮮明に蘇る。スキンケアの成分知識、ハーブの効能、簡単な化学反応、さらにはビジネスアイデア。現代の常識が、この中世風の王国では革命的なものになる。
私はゆっくりと体を起こした。涙を拭い、鏡を見る。そこに映る自分は、まだ若い。美しい。賢い。そして――自由になれる。
家族が見放そうと、ルークス殿下が捨てようと、もう関係ない。私は、私自身のために生きる。
「復讐なんて、したくない」私は小さく呟いた。「ただ、私らしく生きるだけ」
その決意が、心に小さな火を灯した。まだ弱々しい火だけど、消えない火。
窓の外を見ると、朝の陽光が庭園を照らしている。新しい一日が始まる。
私は立ち上がり、机に向かった。引き出しから紙とペンを取り出し、メモを始めた。
――まず、ハーブを集めて。次に、簡単なリップクリームを作ってみる。それから……
孤独の夜は終わった。これから、私の逆転が始まる。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、私の部屋を薄く照らしていた。昨夜の出来事が夢だったらいいのに――そう思って目を閉じ直すが、すぐに現実が襲ってくる。頰に残る涙の跡、腫れたまぶた、そして胸の奥に巣食う重い痛み。すべてが、あの王宮の大ホールでの惨劇を思い出させる。
ベッドから起き上がる気力すら湧かない。私はそのまま毛布にくるまり、昨日のルークス殿下の言葉を何度も反芻した。
「エルカミーノは完璧な令嬢だが、私の心を動かすものはなかった」
完璧すぎるのが悪いと言われた。幼い頃から叩き込まれた礼儀作法、舞踏、語学、刺繍、政略学――すべてが無駄だったと。殿下の隣に立つために、どれだけ自分を磨いてきたか。それなのに、平民の聖女一人に、すべてを奪われた。
ノックの音が響いた。侍女のマリアの声が、控えめに続く。
「エルカミーノ様、お目覚めでしょうか? お父様とお母様が、朝食の席でお待ちです」
私は返事をせず、黙ったままだった。マリアは少し間を置いて、再び声をかける。
「……お身体が心配です。何かお持ちしましょうか?」
その優しさが、かえって胸を締めつけた。私はようやく掠れた声で答えた。
「……いいわ、マリア。少しだけ、時間をちょうだい」
マリアはそれ以上何も言わず、静かに去っていった。部屋に再び静寂が戻る。私はゆっくりと起き上がり、鏡台の前に座った。鏡に映る自分は、ひどい有様だった。目は真っ赤に腫れ、髪は乱れ、顔色は青白い。完璧な令嬢の面影はどこにもない。
それでも、私は冷たい水で顔を洗い、髪を整え、シンプルなドレスに着替えた。公爵家の長女として、最低限の体裁は保たなければならない。廊下に出ると、使用人たちが私を見ると慌てて視線を逸らす。昨夜の噂は、もう屋敷中に広がっているのだろう。
食堂に入ると、父上と母上が長テーブルの上座に座っていた。父上は新聞を広げたまま顔を上げず、母上は私を見て小さく息を呑んだ。
「おはよう、エルカミーノ」母上が、か細い声で言った。
私は黙って席に着き、頭を下げた。テーブルの上には、いつも通りの豪華な朝食が並んでいるが、誰も手をつけていない。重い沈黙が続く。
やがて、父上が新聞を畳み、厳しい声で口を開いた。
「昨夜のことは、すでに王都中に知れ渡っている。王太子殿下の婚約破棄――しかも、公衆の面前でだ。公爵家の名に泥を塗ったのは誰だ?」
その言葉に、私は顔を上げられなかった。父上の目は怒りに燃え、失望に満ちている。
「申し訳ございません、父上……」私は震える声で答えた。
「申し訳ないで済む話ではない!」父上がテーブルを叩く。皿が鳴り、母上がびくりと肩を震わせた。「我がエルカミーノ家は、三百年続く名門だ。お前は長女として、王太子妃となるべく育てられてきた。それが、平民の娘一人に取って代わられただと? お前の努力は一体何だったのだ!」
父上の言葉は、鋭い刃のように私の心を切り裂いた。私は唇を噛みしめ、涙を堪える。
「父上、どうかお鎮めください……」母上が、父上をなだめようとするが、父上は手を振り払う。
「鎮められるものか! 王宮からの正式な通達も届くだろう。公爵家の立場が、どうなるか――お前は考えたことがあるのか?」
私は俯いたまま、ただ耐えるしかなかった。父上の怒りは当然だ。私自身が一番、悔しくてたまらないのだから。
食事が終わると、父上は立ち上がり、私に冷たく告げた。
「お前はしばらく、屋敷に閉じこもっていろ。外に出ることは許さん。恥をさらすな」
それだけ言い残して、父上は書斎へ向かった。母上は私の隣に座り、そっと手を握ってくれた。
「エルカミーノ……辛かったわね。お母様も、信じられないわ」
母上の声は優しかったが、その目には同情と――どこか、私への失望も混じっていた。私は小さく首を振る。
「ありがとう、母上。でも……私、大丈夫です」
嘘だった。全く大丈夫じゃない。でも、母上の前でこれ以上弱さを見せたくなかった。
部屋に戻ると、私は再びベッドに倒れ込んだ。誰も味方はいない。家族でさえ、私を責め、失望している。ルークス殿下は私を捨て、アルトゥーラは勝ち誇り、王都の貴族たちは嘲笑っている。
私は一人だ。完全に、一人。
涙が再び溢れ出す。枕を握りしめ、声を殺して泣いた。どれだけ泣いても、痛みは消えない。むしろ、どんどん深くなっていく。
――もう、疲れた。
そう思った瞬間、前世の記憶がまたフラッシュバックした。
現代日本で、私は三十歳手前の普通のOLだった。会社では真面目に働き、上司に褒められることもあったけど、恋人はおらず、休日は一人でカフェ巡りやコスメ集めを楽しむだけの日々。友達はいたけど、深い付き合いはなかった。結局、誰にも必要とされず、交通事故で死んだ。
それが、私の本当の人生だったのかもしれない。この世界で転生して、貴族の令嬢として生まれ変わったのに――結局、また誰にも必要とされない。
でも、違う。
突然、頭の中で何かが弾けた。
――違う。私はまだ、終わっていない。
前世の知識が、鮮明に蘇る。スキンケアの成分知識、ハーブの効能、簡単な化学反応、さらにはビジネスアイデア。現代の常識が、この中世風の王国では革命的なものになる。
私はゆっくりと体を起こした。涙を拭い、鏡を見る。そこに映る自分は、まだ若い。美しい。賢い。そして――自由になれる。
家族が見放そうと、ルークス殿下が捨てようと、もう関係ない。私は、私自身のために生きる。
「復讐なんて、したくない」私は小さく呟いた。「ただ、私らしく生きるだけ」
その決意が、心に小さな火を灯した。まだ弱々しい火だけど、消えない火。
窓の外を見ると、朝の陽光が庭園を照らしている。新しい一日が始まる。
私は立ち上がり、机に向かった。引き出しから紙とペンを取り出し、メモを始めた。
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