『婚約者に売られましたが、買い戻したのは皇帝でした ――メイド扱いのはずが、なぜか溺愛されています

鷹 綾

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第26話 名が独り歩きする日

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第26話 名が独り歩きする日

 朝の市場は、いつもより騒がしかった。

 フェリス・リンクスが領主館の窓から見下ろすと、人の流れが微妙に滞っているのが分かる。誰もこちらを直接見ない。だが――視線は、確実に集まっていた。

(……来たわね)

 それは、予感ではなく、必然だった。


---

「領主様」

 侍女が、慎重な口調で告げる。

「帝都の新聞が、町に出回り始めています」

 差し出された紙面を、フェリスは静かに受け取った。

 大きな見出し。

> 『人身売買網、帝国全域で摘発開始
― 発端は地方領主フェリス・リンクス』



 紙を持つ指に、力が入る。

 内容は、事実だ。
 誇張も、虚偽もない。

 だが――
 名前が前に出過ぎている。


---

「……これは」

 侍女が言葉を選ぶ。

「英雄視、ですね」

「ええ」

 フェリスは、即座に理解した。

「そして同時に――
 反感も、集めます」

 改革を歓迎する者。
 既得権を失った者。
 沈黙していたが、立場を揺さぶられた者。

 名が広まるということは、
 敵の輪郭も、はっきりするということだ。


---

 昼前。

 急ぎの面会申請が、いくつも届いた。

「近隣領主からの視察要請です」

「商会連合からの協議依頼も」

「……帝都の貴族からも、手紙が」

 フェリスは、すべてに目を通し、整理する。

「今は、受けません」

 即断だった。

「理由は?」

「こちらの都合で」

 それだけで、十分だ。

 今、必要なのは社交ではない。

 足元の安定だ。


---

 午後。

 フェリスは、あえて町を歩いた。

 護衛は最小限。
 隠れない。

 すると、声が飛んでくる。

「領主様!」 「新聞、読みました!」

 若い男が、興奮気味に話しかけてくる。

「本当に、あんな大きなことを……!」

 フェリスは、足を止めた。

「一人でやったわけではありません」

 はっきりと、言う。

「監察局も、兵も、
 そして、証言してくれた人たちがいた」

 周囲が、静かに聞き入る。

「私の名が出ていますが」

 フェリスは、視線を巡らせる。

「功績は、皆のものです」

 その言葉に、ざわめきが起こる。


---

 その夜。

 執務室で、フェリスは深く息を吐いた。

「……疲れましたか」

 侍女が、湯を差し出す。

「少し」

 正直な答えだった。

「名が広まるのは、
 剣を持つのと同じですね」

 侍女が言う。

「振るう覚悟が、要ります」

「ええ」

 フェリスは、湯気の向こうを見つめた。

「でも」

 小さく、しかし確かに言う。

「もう、名を隠す必要はありません」

 売られた少女の名でもない。
 追放された令嬢の名でもない。

 これは――
 自分で築いた名だ。


---

 深夜。

 帝都から、短い私信が届く。

> 名が出たな。
それは、矢面に立った証だ。

だが覚えておけ。
名を守るのは、
剣ではなく、積み重ねだ。



 署名――アーシュ・レーシャー。

 フェリスは、静かに紙を畳んだ。

(……分かっています)

 フェリス・リンクスは、この日、理解した。

 戦いは、
 血と炎だけではない。

 名をどう使い、どう背負うか――
 それもまた、
 領主としての戦いなのだと。

 そしてその戦いは、
 今、確かに始まったばかりなのだと。
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