『婚約者に売られましたが、買い戻したのは皇帝でした ――メイド扱いのはずが、なぜか溺愛されています

鷹 綾

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第32話 誰にも言わない皇帝の本音

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第32話 誰にも言わない皇帝の本音

 夜更けの皇城は、昼とは別の顔を持っていた。

 人の気配が消え、回廊を照らす灯りだけが、静かに影を落としている。
 アーシュ・レーシャー皇帝は、執務室の窓辺に立ち、帝都の夜景を見下ろしていた。

(……面倒なことになったな)

 胸中でそう呟きながらも、口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。

 地方の一領主。
 それも、売られ、追放され、皇帝自身が“買い戻した”女。

 当初は、正直に言えば――
 偶然拾っただけだった。

 人身売買の現場に踏み込んだ結果、
 「これは放置できない」と判断し、
 「才能があるなら使うか」と思っただけ。

 情ではない。
 まして、恋でもない。

 ……少なくとも、最初は。


---

「報告は以上です」

 執務机の前で、側近が頭を下げる。

「フェリス・リンクス領地における改革は、
 数値上も、民意の面でも安定しています」

「分かっている」

 皇帝は、短く答えた。

 問題は、そこではない。

「……で?」

 皇帝の低い声に、側近は一瞬だけ言葉を詰まらせた。

「帝都貴族の一部が、
 フェリス殿を“自派に引き入れるべき存在”として
 注視し始めています」

 やはり、か。

 皇帝は、内心で小さく舌打ちした。

(だから、嫌なんだ)

 才能がある者は、すぐに“駒”として扱われる。
 守ろうとすれば、逆に疑われる。

 しかも、フェリスは――
 自覚がないほど、危うい位置に立っている。


---

 側近が、慎重に続ける。

「陛下が、あまりにも庇護なさると、
 “特別な関係ではないか”という臆測も……」

「当然だろう」

 皇帝は、即座に切った。

「私が買い戻した」

 その事実だけで、十分すぎるほどだ。

 側近は、言葉を選ぶ。

「……お気持ちは」

 皇帝は、窓から視線を外し、執務机に戻った。

 そして、誰にも聞かせない声音で、ぽつりと呟く。

「これほどの才能と美貌の持ち主を、
 金で買えると思っていた連中が、
 本当に愚かだ」

 側近は、息を呑んだ。

 皇帝は、気づかないふりをして続ける。

「……いや。
 正確には、愚かでなければ、
 彼女は今、ここにいない」

 そう言って、書類に目を落とす。

 その表情は、冷静な統治者のものだ。

 だが、その胸の奥では、はっきりと分かっている。

(これは、口に出せない)

 奴隷制度を肯定することになる。
 人を“得”で語ることになる。

 皇帝として、
 決して言ってはならない本音。


---

「フェリスは、どう思われますか」

 側近が、慎重に尋ねる。

 皇帝は、即答しなかった。

 しばらく沈黙した後、淡々と言う。

「危険だ」

「……はい」

「だからこそ、手放せない」

 側近は、これ以上踏み込まなかった。

 賢明な判断だ。


---

 皇帝は、再び窓辺に立つ。

 帝都の灯りの向こうに、
 フェリスの領地を思い描く。

 売られた女。
 拾われた存在。

 だが今は――
 自分の足で立ち、選び、拒み、守る女だ。

(……本当に、もうけものだな)

 再び、心の中だけで呟く。

 それは、欲ではない。
 独占でもない。

 ただ――
 帝国にとって、これ以上ない人材だという、
 冷酷なほど正確な評価。

 そして同時に、
 一人の男としての、
 決して表に出せない感情。


---

 机に戻り、皇帝は一通の私信を書く。

> 前に進め。

だが、無理はするな。
君が折れれば、
守れるものも折れる。



 短い文だ。
 余計な言葉は、ない。

 それでいい。

 フェリス・リンクスには、
 甘言も、束縛も、必要ない。

 必要なのは――
 折れないための、距離だけだ。

 アーシュ・レーシャー皇帝は、この夜、改めて理解していた。

 彼女は、
 守るべき存在ではない。

 共に帝国を背負う存在だ。

 だからこそ、
 この本音だけは、
 誰にも言わない。

 皇帝自身にすら、
 許されない本音として、
 胸の奥に封じ込めたまま――。
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