35 / 42
第三十四話 信用が沈黙する夜
しおりを挟む
第三十四話 信用が沈黙する夜
王都の夜は、以前と変わらぬ静けさを取り戻していた。
街路を照らす灯り、巡回する騎士の足音、閉じられた店の扉。そのすべてが、秩序の回復を物語っている。だが、その静けさを「安心」と呼べる者は、もうほとんどいなかった。
誰もが理解している。
これは平穏ではない。
緊張が沈殿しただけだと。
王城では、夜の執務が常態化していた。
新王フィリップは、机に広げられた報告書を一つずつ確認している。地方貴族の動向、交易量の変化、教会からの要望、そして――沈黙。
かつてなら、些細な出来事でも即座に上がってきた情報が、今は途切れがちだった。
「……返事が、遅いな」
独り言のように呟く。
それは不手際ではない。
意図的な沈黙だ。
地方の諸侯は、王家の次の一手を見極めようとしている。積極的に反抗するわけでもなく、全面的に従うわけでもない。ただ、判断を保留している。
それが意味するのは一つ。
――信用が、まだ回復していない。
王は理解していた。信頼とは、宣言で戻るものではない。時間と、積み重ねと、そして失敗しない実績によってしか取り戻せない。
「焦れば、終わる」
それが、彼が自分に課した唯一の戒めだった。
同じ頃、貴族院では非公式の会合が続いていた。
議題に上がるのは、もはや王太子事件そのものではない。その「後始末」が、どこまで終わったのかという点だ。
「聖女の件は、完全に沈静化したと見ていい」
「ええ。だが、“忘れられた”わけではない」
ある侯爵の言葉に、周囲が頷く。
今回の騒動で、最も深く刻まれたのは、怒りでも恐怖でもない。
不信だ。
王家は、感情によって国を揺るがせる。
教会は、奇跡を理由に政治へ踏み込める。
貴族は、いつでも切り捨てられる可能性がある。
その前提が、一度、共有されてしまった。
だからこそ、誰も軽々しく口を開かない。沈黙は、反抗ではなく、警戒の形だった。
一方、エノー公爵領。
アリエノールのもとには、ここ数日で異様な数の書簡が届いていた。正式な同盟提案ではない。問い合わせでも、要望でもない。
「今後の方針について、一度意見を伺えれば」
そういった、曖昧な文面ばかりだ。
彼女はそれらを読み、すぐに返事を出すことはしなかった。
「沈黙は、最も分かりやすい返答ですわ」
側近の言葉に、彼女は軽く頷く。
今、軽率な発言は不要だ。何かを宣言すれば、それ自体が旗印になる。だが、彼女は旗を振るつもりはなかった。
王国を壊す気はない。
だが、守る義務もない。
「選択肢を、相手に考えさせるのです」
アリエノールはそう言った。
沈黙とは、拒絶ではない。
判断を相手に委ねる、最も冷静な態度だ。
修道騎士団領では、ルイスが夜の礼拝を終えて部屋に戻っていた。
かつてなら、夜会や会議で埋まっていた時間だ。今は、沈黙だけがある。
彼は、最近気づいたことがあった。
誰も、自分に何も求めてこない。
命令も、期待も、失望すらない。ただ、放置されている。それが、王太子という地位を失った人間の現実だった。
「……信用って、こういうものだったのか」
失って初めて、その形が分かる。
信用とは、与えられるものではない。常に試され、更新され続けるものだ。肩書きは、その過程を省略してくれるだけに過ぎない。
省略が終わった時、残るのは中身だけだ。
王都、貴族院、公爵領、修道騎士団。
どこでも、同じ空気が流れている。
誰も騒がず、誰も動かない。
だが、全員が考えている。
次に口を開く者は、誰か。
次に沈黙を破るのは、どこか。
そして――
その時、信用を持っている者だけが、発言権を得る。
この夜、王国は静かだった。
それは、嵐の前兆ではない。
選別が始まった音なき時間だった。
誰が残り、誰が消えるのか。
その答えは、もう感情では決まらない。
信用だけが、未来を決める。
王国は、そういう段階に入っていた。
王都の夜は、以前と変わらぬ静けさを取り戻していた。
街路を照らす灯り、巡回する騎士の足音、閉じられた店の扉。そのすべてが、秩序の回復を物語っている。だが、その静けさを「安心」と呼べる者は、もうほとんどいなかった。
誰もが理解している。
これは平穏ではない。
緊張が沈殿しただけだと。
王城では、夜の執務が常態化していた。
新王フィリップは、机に広げられた報告書を一つずつ確認している。地方貴族の動向、交易量の変化、教会からの要望、そして――沈黙。
かつてなら、些細な出来事でも即座に上がってきた情報が、今は途切れがちだった。
「……返事が、遅いな」
独り言のように呟く。
それは不手際ではない。
意図的な沈黙だ。
地方の諸侯は、王家の次の一手を見極めようとしている。積極的に反抗するわけでもなく、全面的に従うわけでもない。ただ、判断を保留している。
それが意味するのは一つ。
――信用が、まだ回復していない。
王は理解していた。信頼とは、宣言で戻るものではない。時間と、積み重ねと、そして失敗しない実績によってしか取り戻せない。
「焦れば、終わる」
それが、彼が自分に課した唯一の戒めだった。
同じ頃、貴族院では非公式の会合が続いていた。
議題に上がるのは、もはや王太子事件そのものではない。その「後始末」が、どこまで終わったのかという点だ。
「聖女の件は、完全に沈静化したと見ていい」
「ええ。だが、“忘れられた”わけではない」
ある侯爵の言葉に、周囲が頷く。
今回の騒動で、最も深く刻まれたのは、怒りでも恐怖でもない。
不信だ。
王家は、感情によって国を揺るがせる。
教会は、奇跡を理由に政治へ踏み込める。
貴族は、いつでも切り捨てられる可能性がある。
その前提が、一度、共有されてしまった。
だからこそ、誰も軽々しく口を開かない。沈黙は、反抗ではなく、警戒の形だった。
一方、エノー公爵領。
アリエノールのもとには、ここ数日で異様な数の書簡が届いていた。正式な同盟提案ではない。問い合わせでも、要望でもない。
「今後の方針について、一度意見を伺えれば」
そういった、曖昧な文面ばかりだ。
彼女はそれらを読み、すぐに返事を出すことはしなかった。
「沈黙は、最も分かりやすい返答ですわ」
側近の言葉に、彼女は軽く頷く。
今、軽率な発言は不要だ。何かを宣言すれば、それ自体が旗印になる。だが、彼女は旗を振るつもりはなかった。
王国を壊す気はない。
だが、守る義務もない。
「選択肢を、相手に考えさせるのです」
アリエノールはそう言った。
沈黙とは、拒絶ではない。
判断を相手に委ねる、最も冷静な態度だ。
修道騎士団領では、ルイスが夜の礼拝を終えて部屋に戻っていた。
かつてなら、夜会や会議で埋まっていた時間だ。今は、沈黙だけがある。
彼は、最近気づいたことがあった。
誰も、自分に何も求めてこない。
命令も、期待も、失望すらない。ただ、放置されている。それが、王太子という地位を失った人間の現実だった。
「……信用って、こういうものだったのか」
失って初めて、その形が分かる。
信用とは、与えられるものではない。常に試され、更新され続けるものだ。肩書きは、その過程を省略してくれるだけに過ぎない。
省略が終わった時、残るのは中身だけだ。
王都、貴族院、公爵領、修道騎士団。
どこでも、同じ空気が流れている。
誰も騒がず、誰も動かない。
だが、全員が考えている。
次に口を開く者は、誰か。
次に沈黙を破るのは、どこか。
そして――
その時、信用を持っている者だけが、発言権を得る。
この夜、王国は静かだった。
それは、嵐の前兆ではない。
選別が始まった音なき時間だった。
誰が残り、誰が消えるのか。
その答えは、もう感情では決まらない。
信用だけが、未来を決める。
王国は、そういう段階に入っていた。
10
あなたにおすすめの小説
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
【完結】「私は善意に殺された」
まほりろ
恋愛
筆頭公爵家の娘である私が、母親は身分が低い王太子殿下の後ろ盾になるため、彼の婚約者になるのは自然な流れだった。
誰もが私が王太子妃になると信じて疑わなかった。
私も殿下と婚約してから一度も、彼との結婚を疑ったことはない。
だが殿下が病に倒れ、その治療のため異世界から聖女が召喚され二人が愛し合ったことで……全ての運命が狂い出す。
どなたにも悪意はなかった……私が不運な星の下に生まれた……ただそれだけ。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します。
※他サイトにも投稿中。
※表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。
「Copyright(C)2022-九頭竜坂まほろん」
※小説家になろうにて2022年11月19日昼、日間異世界恋愛ランキング38位、総合59位まで上がった作品です!
欠席魔の公爵令嬢、冤罪断罪も欠席す 〜メイリーン戦記〜
水戸直樹
ファンタジー
王太子との婚約――それは、彼に恋したからでも、権力のためでもなかった。
魔王乱立の時代。
王も公爵も外征に出ている王都で、公爵令嬢メイリーンは“地味な婚約者”として王城に現れる。
だが、王太子は初顔合わせに現れなかった。
にもかかわらず、記録に残ったのは「公爵令嬢の欠席」。
抗議はしない。
訂正もしない。
ただ一つ、欠席という事実だけを積み上げていく。
――それが、誰にとっての不合格なのか。
まだ、誰も気づいていない。
欠席から始まる、静かなるファンタジー戦記。
偽聖女として私を処刑したこの世界を救おうと思うはずがなくて
奏千歌
恋愛
【とある大陸の話①:月と星の大陸】
※ヒロインがアンハッピーエンドです。
痛めつけられた足がもつれて、前には進まない。
爪を剥がされた足に、力など入るはずもなく、その足取りは重い。
執行官は、苛立たしげに私の首に繋がれた縄を引いた。
だから前のめりに倒れても、後ろ手に拘束されているから、手で庇うこともできずに、処刑台の床板に顔を打ち付けるだけだ。
ドッと、群衆が笑い声を上げ、それが地鳴りのように響いていた。
広場を埋め尽くす、人。
ギラギラとした視線をこちらに向けて、惨たらしく殺される私を待ち望んでいる。
この中には、誰も、私の死を嘆く者はいない。
そして、高みの見物を決め込むかのような、貴族達。
わずかに視線を上に向けると、城のテラスから私を見下ろす王太子。
国王夫妻もいるけど、王太子の隣には、王太子妃となったあの人はいない。
今日は、二人の婚姻の日だったはず。
婚姻の禍を祓う為に、私の処刑が今日になったと聞かされた。
王太子と彼女の最も幸せな日が、私が死ぬ日であり、この大陸に破滅が決定づけられる日だ。
『ごめんなさい』
歓声をあげたはずの群衆の声が掻き消え、誰かの声が聞こえた気がした。
無機質で無感情な斧が無慈悲に振り下ろされ、私の首が落とされた時、大きく地面が揺れた。
婚約破棄の後始末 ~息子よ、貴様何をしてくれってんだ!
タヌキ汁
ファンタジー
国一番の権勢を誇る公爵家の令嬢と政略結婚が決められていた王子。だが政略結婚を嫌がり、自分の好き相手と結婚する為に取り巻き達と共に、公爵令嬢に冤罪をかけ婚約破棄をしてしまう、それが国を揺るがすことになるとも思わずに。
これは馬鹿なことをやらかした息子を持つ父親達の嘆きの物語である。
強制力がなくなった世界に残されたものは
りりん
ファンタジー
一人の令嬢が処刑によってこの世を去った
令嬢を虐げていた者達、処刑に狂喜乱舞した者達、そして最愛の娘であったはずの令嬢を冷たく切り捨てた家族達
世界の強制力が解けたその瞬間、その世界はどうなるのか
その世界を狂わせたものは
悪役令嬢は手加減無しに復讐する
田舎の沼
恋愛
公爵令嬢イザベラ・フォックストーンは、王太子アレクサンドルの婚約者として完璧な人生を送っていたはずだった。しかし、華やかな誕生日パーティーで突然の婚約破棄を宣告される。
理由は、聖女の力を持つ男爵令嬢エマ・リンドンへの愛。イザベラは「嫉妬深く陰険な悪役令嬢」として糾弾され、名誉を失う。
婚約破棄をされたことで彼女の心の中で何かが弾けた。彼女の心に燃え上がるのは、容赦のない復讐の炎。フォックストーン家の膨大なネットワークと経済力を武器に、裏切り者たちを次々と追い詰めていく。アレクサンドルとエマの秘密を暴き、貴族社会を揺るがす陰謀を巡らせ、手加減なしの報復を繰り広げる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる